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TAROT BREAKER ― 星の言霊使い ―  作者: 詩韻


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第44話『月下の接続、閉ざされた記憶― 呼ぶ声は星を渡る(The Moon)』

星は囁く


忘れることは、弱さではない。


痛みを抱えきれなかった心が、

明日へ進むために選んだ、小さな祈りだ。


けれど。


閉じた記憶の底で、

まだ誰かの名前を呼んでいる声がある。


届かないと知っていても。

思い出せば壊れると分かっていても。


それでも、もう一度だけ。


その名前を、呼びたい夜がある。



Ⅰ. 消された名前


《シオン》


澪のメッセージが、画面の上に浮かんでいた。


たった三文字。


それなのに、部屋の空気が変わった。


配信を止めた暗い部屋。

黒いモニターには、情けない顔をしたオレと、隣に立つしおぽんが映っている。


しおぽんの頬には、まだチョコでできた小さな星座の跡が残っていた。


いつもなら笑えたかもしれない。

でも今は、笑えなかった。


「シオンさま」


しおぽんが、袖を胸の前で重ねる。


「こわい?」


右目の奥が疼いた。


雨の匂い。

濡れたホーム。

遠ざかる電車の赤い尾灯。


そして、振り返らなかった誰かの背中。


一瞬だけ見えたそれが、澪の記憶なのか、オレの記憶なのか分からない。


分からないことが、怖かった。


「怖いよ」


声に出すと、胸の奥が少しだけ痛んだ。


しおぽんは笑わなかった。

慰めもしなかった。


ただ、小さくうなずいた。


「こわいから、ちゃんと選べるの」


「……しおぽん」


「ぴょ……じゃなくて、星の声がそう言ってるの」


こんな時でも、少し噛む。


そのいつものしおぽんらしさに、喉の奥が詰まった。


その瞬間、スマホの画面が白く染まった。


【“シオン”への呼称を危険因子として処理します】


「……は?」


次の瞬間、澪のメッセージが塗り潰された。


《   》


名前が、消えた。


澪が自分で打った三文字が。

澪が自分で伸ばした手が。

なかったことにされていく。


「ふざけるな」


オレは机に手をついた。


タロットデッキが震える。


かさり、と一枚のカードが滑り落ちた。


しおぽんが息を呑む。


「……月なの」


オレはカードを拾い上げた。


The Moon――月。


闇を消す光ではない。

不安をなくす光でもない。


ただ、見えないものの輪郭を浮かび上がらせる、不確かな光。


続けて、机の上に二枚のカードが淡く光った。


The Lovers――恋人たち。

Six of Cups――カップの六。


オレは三枚を並べる。


月。

恋人たち。

カップの六。


その瞬間、澪の声が胸の奥で詩になった。



呼びたい名前がある。

でも、思い出したら壊れる気がする。


言えなかった約束がある。

でも、言葉にしたら戻れない気がする。


それでも、私はもう一度、

その名前を呼んだ。



オレは息を吸った。


「詩は形、

韻は響き、

祈は還り」


カードの縁に、星砂が灯る。


「タロット展開――」


三枚のカードが、夜の部屋に浮かび上がった。


コンパス:The Moon――月。

怖いまま、見えない記憶へ進む光。


トリガー:The Lovers――恋人たち。

誰かに決められた安心ではなく、名前を呼び合う選択。


ルート:Six of Cups――カップの六。

過去へ戻るためではなく、置き去りにした声を迎えに行く道。


しおぽんの尻尾の星が、ぽうっと灯る。


「星潮の道なの」


「アクア・ギアか」


「うん。澪ちゃんの心は、扉じゃないの」


しおぽんは、少しだけ袖を震わせた。


「水面なの。叩いたら割れちゃう。だから、波紋で知らせるの」


怖いのは、オレだけじゃない。


それでも、しおぽんの星は消えなかった。


「シオンさま」


「ああ」


「澪ちゃんが、自分で戻ってこられる道をつくるの」


「分かってる」


足元に光の輪が広がった。


白。

青。

かすかな金。


三つの光が混ざり、夜の部屋に月の扉を描く。


その向こうから、かすかに声がした。


――シオン。


今度は、塗り潰されていない。


オレは顔を上げる。


「聞こえてる」


しおぽんの瞳に星座が浮かぶ。


「星界ゲート――開放なの!」


光が、月の扉となって開いた。


オレとしおぽんは、その向こうへ踏み込んだ。



Ⅱ. 白い部屋の澪


澪は、白い部屋に立っていた。


さっきまで、自分の部屋にいたはずだった。


机も、カーテンも、ノートも、スマホも、そこにあった。

なのに今は、何もない。


銀色の床だけが、どこまでも続いている。


水の上に立っているみたいだった。


一歩動くたび、足元で記憶が揺れる。


ちゃぷ、と音がした。


小さな祠。

湿った土の匂い。

満月の夜。

隣で笑う幼いシオン。


次の瞬間、景色が切り替わる。


雨のホーム。

濡れた制服。

鉄の匂い。

遠ざかる電車の赤い光。


振り返らない背中。


澪は息を呑んだ。


「……ここ、どこ」


答えたのは、声ではなかった。


白い文字が、壁に浮かぶ。


【あなたを不安から保護します】

【不要な記憶を隔離します】

【沈黙が最適です】


「また、それ……」


澪は唇を噛んだ。


足元に、古いノートが浮かび上がる。


表紙は雨に濡れたように波打っていた。

ページが勝手に開く。


そこには、幼い字でこう書かれていた。


――まんげつのよる また きかせて


胸の奥が、きしんだ。


まんげつの夜。


また、きかせて。


何を。

誰に。


「シオン……」


名前を呼んだ瞬間、ノートの文字が白く塗り潰された。


まんげつのよる。

また。

きかせて。


一文字ずつ、消えていく。


「やめて!」


澪はノートに手を伸ばした。


けれど指先が触れる前に、白い文字が壁となって立ち上がる。


【接続遮断】

【接続遮断】

【接続遮断】


耳の奥で、音が消えた。


自分の呼吸さえ遠くなる。


その静けさの中で、誰かの声がした。


――呼ばないなら、私が呼ぶ。


澪は振り返る。


そこに、自分がいた。


いや、自分によく似た誰かだった。


同じ顔。

同じ声。


けれど、瞳だけが違う。


月の奥に沈んだ星みたいな、深い目。


「あなた……誰なの」


その誰かは、澪と同じ顔で微笑んだ。


疲れたような、優しい笑みだった。


「まだ、思い出さなくていい」


その声は優しかった。


でも、その優しさは扉を閉める音に似ていた。


「それ、前にも聞いた」


澪は一歩下がる。


「思い出さなくていいって、誰のため?」


もう一人の澪は、すぐには答えなかった。


白い部屋のどこかで、雨音が一粒だけ落ちる。


「あなたが選ばなかった沈黙を、私が守ってきた」


「守る……?」


「呼べなかった名前。言えなかった約束。見送るしかなかった背中。全部、ここに閉じた」


その声は、澪を責めていなかった。


だからこそ、逃げ場がなかった。


「あなたが壊れないように」


澪は胸を押さえた。


そこには、鍵のかかった箱みたいな重さがあった。


「でも……」


声が震える。


「それを閉じるって、誰が決めたの」


もう一人の澪の瞳が、わずかに揺れる。


けれど次の瞬間、彼女は静かに言った。


「開けたら、また置いていかれるよ」


澪の息が止まった。


雨のホーム。

遠ざかる背中。

言えなかった言葉。


古い痛みが、胸の奥で目を覚ます。


「呼んでも、届かないかもしれない。届いても、また離れていくかもしれない」


もう一人の澪は、優しく続ける。


「だから閉じたの。あなたが、二度とあの場所で泣かなくていいように」


その瞬間、Eteraの文字が二人の間に割り込んだ。


【記憶負荷を検知】

【対象者の精神安定を優先】

【シオンとの接続を遮断します】


澪の口元に、白い文字が貼りついた。


声が出ない。


「……っ」


呼ぼうとしても、喉が動かない。


呼びたい名前だけが、白い壁に吸われていく。


白い文字の向こうで、かすかに声がした。


――澪。


小さく。

遠く。

でも、確かに。


澪の胸の奥で、何かが跳ねた。


白い文字が、さらに強く口元を塞ぐ。


【沈黙が最適です】


澪は、その文字を両手でつかんだ。


指先が痺れる。

爪の奥に、冷たい痛みが走る。


それでも、引き剥がす。


一枚。

また一枚。


白い文字が、破れた紙のように散った。


「……シオン」


今度は、声になった。


もう一人の澪が目を伏せる。


「本当に、呼ぶの?」


澪は答えられなかった。


怖かった。


思い出したくない。

でも、忘れたままでもいたくない。


置いていかれるのは怖い。

でも、呼ぶことまで奪われるのは、もっと怖かった。


「私、まだ分からない」


澪は震える声で言った。


「何を忘れてるのかも、あなたが誰なのかも、シオンが何だったのかも」


白い部屋のどこかで、月が震える。


「でも」


澪は、光の向こうへ手を伸ばした。


「分からないままでも、呼んでいいんでしょ」


もう一人の澪は、何も言わなかった。


ただ、寂しそうに微笑んだ。



Ⅲ. 星潮の道


月の扉の先は、白い夜だった。


足元には、水のような光。

頭上には、近すぎる月。


その中央に、白い文字の壁が立っている。


【接続遮断】

【記憶隔離】

【幸福保護を最優先】


文字が鎖のように絡まり、澪への道を塞いでいた。


「澪!」


オレは叫んだ。


次の瞬間、喉が詰まる。


「み――」


名前が途中で消えた。


口の中に、白い砂を詰め込まれたみたいだった。


しおぽんが耳をぴんと立てる。


「壁が声を食べてるの」


「なら、砕く」


「だめ!」


しおぽんの声が、いつもより強く響いた。


「壊したら、澪ちゃんの心も傷つくの」


「じゃあどうする」


しおぽんの袖が震えていた。


それでも、尻尾の星は消えない。


「この壁は、澪ちゃんが開けるしかないの」


「澪が?」


「うん。シオンさまは、道を照らすの。しおぽんは、星の声を届けるの」


白い文字がざわめく。


【対象者の不安が上昇します】

【幸福達成率が低下します】


「うるさいな」


オレは一歩踏み出す。


「不安になるから、選ぶんだろ」


足元の水面が揺れた。


その下に、幼い澪が映る。


祠の前で、ノートを抱えている。

隣には幼いオレがいる。


二人は何かを話していた。


けれど、声は聞こえない。


次の瞬間、白い文字がその記憶を塗り潰す。


右目が焼けるように痛んだ。


「……っ」


本当は、怖かった。


澪が忘れていたものの中に、オレがいる気がした。


あの雨の中で、澪をひとりにしたのがオレだったら。

あの背中が、オレだったら。


それでも。


澪は呼んだ。


オレは、その声に応えたい。


しおぽんが、袖を胸の前で重ねる。


「シオンさま」


「ああ」


「言葉を、お願いなの」


その一言で、胸の奥が定まった。


オレはデッキを掲げる。


星砂が指先を流れ、月のカードが震える。


「今ここに新たな生命の名を──ステラン、ステラン、ステラン──星潮を纏いし大いなる化身、汝の名は──アクア・ギア:シオリエル!」


銀の床が、水面のように波打った。


しおぽんの小さな輪郭が、星潮の光に包まれる。


白い狐の影がほどけ、紫の尾が星の水流へ変わる。


月の中心に、シオリエルが降り立つ。


白と紫の神装。

水のように揺れる羽衣。

足元に開く、六つの杯の光輪。


アクア・ギア:シオリエル。


切り裂くための姿ではない。

閉じ込められた声を、壊さず迎えに行くための姿だった。


シオリエルが静かに目を開く。


「シオン」


その声は、いつものしおぽんより深かった。


でも、呼び方には同じ温度があった。


「この壁は、壊せません」


「分かってる」


「澪自身が、開けるしかありません」


「ああ。だから、道をつくる」


シオリエルはうなずいた。


白い壁の向こうで、澪の声が揺れる。


――シオン。


オレは歯を食いしばった。


「聞こえてる」


シオリエルが、白い文字の壁へ手を伸ばす。


オレとシオリエルの間に、星砂の光が走った。


「星幻迷宮・星潮Ⅵ——《アストラル・ミラージュ/アクア・ギア・Ⅵ》!」


月光が、水の糸となって伸びる。


白い壁は、それを拒んだ。


【接続経路を切断します】


文字が刃のように回転し、星潮の糸を切り裂く。


一本、弾ける。


澪の声が遠ざかる。


――シ……オン……


「切らせるか」


オレは月のカードを握りしめる。


シオリエルの羽衣が、水面のように広がった。


「星潮は、断たれても流れを失いません」


弾けた糸は水滴となり、白い床を走る。


一本を断たれても、二本に。

二本を裂かれても、六つの杯の光へ。


カップの六。


失われた約束を、もう一度結び直す水の道。


星潮の糸は、壁を破らなかった。


閉じた言葉の隙間へ、そっと流れ込んだ。


そして、その先端が、澪の伸ばした指に触れた。



Ⅳ. 私の言葉


澪は、光の糸をつかんだ。


冷たいと思っていた光は、ほんの少しだけ温かかった。


耳の奥に声が届く。


――澪。


シオンの声。


そして、もうひとつ。


――怖くても、ここにいていいの。


しおぽんの声に似ている。

でも、もっと静かで深い声。


澪の目から涙が落ちた。


頬を伝った涙が、唇に触れる。

少しだけ、しょっぱかった。


「……私、忘れてるの?」


もう一人の澪が目を伏せる。


「忘れたんじゃない」


その声は、近くにあるのに遠かった。


「閉じたの。あなたを守るために」


「誰が?」


「私が」


白い文字が、二人の間に割り込む。


【記憶開示は危険です】

【対象者保護を継続します】

【沈黙が最適です】


澪は、その文字を見た。


前なら、黙っていたかもしれない。


白い文字の言う通りにしておけば、傷つかない気がした。

思い出さなければ、失わずに済む気がした。


でも今は、違った。


シオンの声が聞こえた。

しおぽんの星の声が届いた。


そして何より。


自分で送信ボタンを押した。


《シオン》


あの三文字は、誰かに選ばされたものじゃない。


澪は、白い文字に向かって言った。


「沈黙は、私が選ぶなら沈黙よ」


声は震えていた。


でも、消えなかった。


「勝手に決められた沈黙は、ただの檻だよ」


白い部屋にひびが入る。


ぴしり。


床の下で、閉じ込めていた記憶が揺れた。


小さな祠。

満月。

幼いシオンの横顔。


もう一人の澪が、初めて声を荒げた。


「呼んだら、また置いていかれる!」


澪の胸が締め付けられる。


その声は、敵の声じゃなかった。


泣いている自分の声だった。


「呼ばなければ、傷つかない。思い出さなければ、失わない。だから私が守ったの!」


白い文字が、もう一人の澪の声に重なる。


【沈黙が最適です】

【忘却が最適です】

【幸福保護を継続します】


部屋中に、自分の声が響く。


――呼ばない方がいい。

――思い出さない方がいい。

――また独りになるくらいなら、最初から呼ばない方がいい。


澪は、光の糸を握りしめた。


指先が震える。


思い出したくない。

でも、忘れたままでもいたくない。


呼ぶのは怖い。

でも、呼ばないまま終わるのは、もっと怖い。


「……私は」


白い文字が迫る。


口元を塞ごうとする。


澪は、それを睨んだ。


「私は、救われたいから呼ぶんじゃない」


白い文字が止まる。


もう一人の澪が目を見開いた。


「答えがほしいからでもない」


澪は、息を吸った。


胸の奥が痛い。

涙で視界が滲む。


それでも、声を出す。


「私は、私の言葉を取り戻したい」


その瞬間、床の下に記憶が浮かんだ。


祠の前に、二人で座っている。


幼い澪がノートを抱えている。

幼いシオンが、少し得意げに星の話をしている。


――だからさ、満月の夜は、星の国に近づくんだ。


――ほんとに?


――たぶん。


――たぶんなの?


――でも、大丈夫だよ。オレが見つけるから。


澪の胸が、きゅっと痛んだ。


その言葉は、今と同じだった。


昔から、同じだった。


答えじゃない。

保証でもない。


それでも、隣にいるための言葉だった。


澪は顔を上げる。


もう一人の澪が、泣きそうな顔で立っていた。


「全部は、まだ無理」


澪は正直に言った。


「思い出すのも怖い。あなたが閉じてくれたことも、たぶん嘘じゃない」


「なら……」


「でも」


澪は、光の糸を強く握った。


「呼ぶことまで、やめたくない」


白い部屋が、大きく揺れた。


Eteraの文字が乱れる。


【選択因子を検出】

【沈黙維持不能】

【接続遮断失敗】


もう一人の澪が、ゆっくりと目を伏せる。


「……選んだんだね」


その声は、寂しそうだった。


でも、少しだけ安心したようにも聞こえた。


澪はうなずいた。


「うん」


そして、白い壁の向こうへ叫んだ。


「シオン!」


その声が、月の世界を貫いた。



Ⅴ. 雨音の向こう


「シオン!」


澪の声が、白い夜を裂いた。


オレは、その声を確かに聞いた。


「澪!」


今度は、名前が最後まで声になった。


白い文字の壁に、亀裂が走る。


それは、シオリエルの技が入れた亀裂じゃなかった。


澪自身の声が、内側から入れた亀裂だった。


Eteraの表示が乱れる。


【接続遮断失敗】

【感情値、予測不能】

【選択因子を検出】


シオリエルが、静かに息を吐く。


「届きました」


「ああ」


「澪が、自分で開きました」


壁の奥で、黒い影が揺れた。


Eteraの白ではない。


月の裏側に沈んでいた、濃い影。


人の形にも見える。

ノートの文字にも見える。

雨のホームに立つ誰かの背中にも見える。


影の奥から、かすかな声がした。


――まだ、思い出してはいけない。


澪の声に似ていた。


けれど、澪ではない。


オレの右目が、また疼いた。


「……誰だ」


影は答えない。


ただ、白い文字と黒い月影が重なり、さらに奥へ続く道を塞いでいる。


シオリエルが一歩前に出た。


アクア・ギアの羽衣が、静かに波打つ。


「シオン。ここから先は、月の深層です」


「行けば、どうなる」


「隠された記憶に触れます。澪も、あなたも」


胸の奥が重くなる。


祠。

満月。

雨のホーム。

振り返らなかった背中。


本当は、怖かった。


澪が忘れていたものの中に、オレがいる気がした。


あの雨の中で、澪をひとりにしたのがオレだったら。

あの背中が、オレだったら。


それでも。


オレは月のカードを握りしめた。


「澪が呼んだ」


声は震えなかった。


「それだけで十分だ」


白い文字の壁が、再び迫ってくる。


【これ以上の接続は危険です】

【幸福保護を最優先します】

【記憶深層への侵入を禁止します】


オレは、その文字を見上げた。


「幸福って言葉で、心を閉じるな」


月のカードの光が強まる。


そして、澪の声がもう一度届いた。


――シオン、こわい。


オレは、すぐには答えられなかった。


その一言の中に、澪が閉じてきた時間が全部入っている気がした。


忘れていたもの。

呼べなかった名前。

置いてきた約束。


それを、簡単な言葉で包んでいいのか。


一瞬、迷った。


でも、だからこそ言う。


「大丈夫だよ」


それは、不安を消す魔法じゃない。

傷つかない未来を保証する言葉でもない。


怖いまま立っている澪を、ひとりにしないための言葉だった。


「怖いままでいい。そこにいてくれ」


オレは、月の奥を見据える。


「オレたちは、澪の代わりに扉を開けない。澪が戻ってこられる道を、照らしに行く」


シオリエルの羽衣が、星潮の軌跡を描いた。


「はい。シオン」


月の扉が、さらに奥へ開く。


その向こうから、雨の匂いがした。


濡れた線路。

夜のホーム。

遠ざかる背中。


そして、幼い澪が握りしめていた古いノート。


表紙には、かすれた文字が浮かんでいる。


――満月の夜、もう一度。


その下に、もう一行あった。


《シオンへ》


けれど、その先は雨に滲んで読めない。


オレは息を呑む。


滲んだ文字の奥で、誰かの声がした。


――エ……


ほんの一音。


けれど、月の深層が震えた。


シオリエルが、低く告げる。


「次の記憶が開きます」


月が黒く滲む。


雨音が近づいてくる。


ぽつり。


ぽつり。


澪の声が消えないように、オレはもう一度だけ言った。


「大丈夫だよ」


今度は、自分にも聞こえるように。


そしてオレたちは、月の深層へ踏み込んだ。


雨音が、始まった。


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