第38話 『まだ名もなき詩(The Fool)』
Ⅰ. 消えなかった一文
配信画面に、いつもの部屋が戻ってきた。
机の上には、伏せられた《Re: JUDGEMENT》。
小さなライトの淡い光が、カードの縁を静かに照らしている。
飲みかけのマグカップからは、冷めかけた甘い香りがかすかに立ちのぼっていた。
カードクロスに触れた指先には、まだ星界の冷たさが残っている。
耳の奥には、さっきまで響いていた審判のラッパの残響が、遠い波のように沈んでいた。
そして画面の端では、星屑みたいなコメント欄が、まだ小さく瞬いている。
さっきまで星界を満たしていた光は、もう見えない。
あの眩しさも。
あの痛みも。
由依の涙を包んだ星の雨も。
すべては、夜の奥へ溶けていった。
けれど、不思議と部屋の空気だけは変わっていた。
誰かが泣いたあとのような。
それでも、少しだけ呼吸がしやすくなったあとのような。
胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけほどけたあとのような。
そんな静けさが、配信の向こう側まで広がっていた。
コメントが、ひとつ流れる。
《由依さん、大丈夫かな》
続けて、いくつもの言葉が流れた。
《無理に答え出さなくていいよ》
《好きだった気持ちも本物だよ》
《でも自分を壊さないで》
《今日は泣いて寝よ》
《明日また考えよう》
シオンは、しばらく何も言わなかった。
言葉を急がせないために。
答えを押しつけないために。
沈黙もまた、誰かを抱きしめることがあると知っていたから。
配信機材の小さな駆動音だけが、部屋に残っていた。
ちり、とライトがわずかに鳴る。
しおぽんの首元の鈴が、息をするみたいに小さく揺れた。
やがて、画面の下に通知が浮かぶ。
由依からだった。
本文は、たった一行。
《今日は、彼に送る前に、自分の気持ちをノートに書いてみます》
それだけだった。
別れるとも。
信じるとも。
もう大丈夫とも書かれていない。
けれど、その一文を見た瞬間、シオンは小さく息を吐いた。
「……うん」
その声は、勝利の声じゃなかった。
誰かの人生を救い切った者の声でもなかった。
ただ、迷いながらでも自分の足で立とうとした人に向ける、静かな頷きだった。
⸻
Ⅱ. 泣くのも、帰ってくる音
しおぽんが、机の端で耳をぴこんと揺らす。
「シオンさま……由依さん、まだ泣いてるかな」
「泣いてると思う」
シオンは、伏せたカードに指先を置いた。
カードの表面は、もう冷たくなっていた。
けれど、その奥に宿った光だけは、まだ消えていない気がした。
「でも、それでいい」
「いい、の?」
「泣けるってことは、まだ心が戻ってきてるってことだから」
しおぽんは少しだけ目を丸くした。
それから、胸元の鈴を小さく鳴らすように、こくりと頷いた。
「そっか……泣くのも、帰ってくる音なんだね」
「たぶんな」
シオンは画面を見る。
まだコメントは流れていた。
誰かが誰かを励ましている。
自分の話を、少しだけ書いている人もいる。
《私も同じだった》
《まだ好きだけど、苦しい》
《選び直していいって言葉、今の自分に必要だった》
《好きだった自分まで否定しなくていいんだね》
その全部に、シオンは返事を打たなかった。
すべてに返せないからではない。
返事をしなくても、そこに言葉が生まれたこと自体が、もう小さな星だったから。
救われた言葉が、誰かの中でまた別の言葉になっていく。
それは、まるで夜空にひとつずつ星座が描かれていくようだった。
シオンは、配信の終了ボタンに指を伸ばした。
⸻
Ⅲ. 黒く滲む星屑
——その瞬間。
コメント欄の星屑が、ひとつだけ黒く滲んだ。
しおぽんの耳が、ぴくりと動く。
部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
冷えたマグカップの甘い香りが、急に遠ざかった。
代わりに、焦げた金属のような匂いが鼻の奥をかすめる。
「……シオンさま」
画面に、細いノイズが走った。
ざざ。
ざざざ。
星の光が、傷口みたいにひび割れていく。
音のないはずの配信画面から、ひび割れた声が落ちてきた。
KAGARI_Δ。
《世界は、君たちの自由を望んでいない》
低く、冷たい声だった。
耳ではなく、骨の奥に直接響いてくるような声。
《迷いも、選択も、痛みも、いずれ不要になる》
《不安も悲しみもない世界へ》
《すべては、あるべき姿に還る》
シオンは、画面を睨んだ。
「KAGARI_Δ……」
喉の奥に、鉄の味が滲む。
息を吸うたび、焦げたような苦みが喉に貼りついた。
さっきまで由依を包んでいた優しい余韻が、黒い水に沈められていくようだった。
ノイズの奥で、笑った気配がした。
《シオン》
《お前はいつか過ちを犯す》
《取り返しのつかない、大きな過ちを》
しおぽんの鈴が、小さく震えた。
《その日まで、見届けさせてもらう》
ぶつり、と音が切れた。
画面は、何事もなかったように元へ戻った。
コメント欄も。
ライトも。
机の上のカードも。
すべてが、さっきと同じ場所にある。
けれど部屋の温度だけが、少し下がったように感じた。
⸻
Ⅳ. 固定された未来への問い
シオンの右目に宿るAreteが、熱を帯びて疼く。
鋭い痛みではない。
だが、まるで奥から何かが目覚めようとしているような、深く重い熱だった。
「……Arete」
シオンは、静かに呟く。
「世界は本当に望んでいるのか」
「固定された未来を」
答えは返らない。
ただ、右目の奥で、淡い光が脈を打つ。
シオンは目を逸らさなかった。
「人は、それでも抗うべきだ」
伏せられた《Re: JUDGEMENT》に、指先を置く。
「迷っても、泣いても、何度間違えても」
「選び直せるって」
「オレは、それを信じて占う」
カードクロスの布が、指の腹にやわらかく触れる。
その感触が、ここがまだ現実であることを教えてくれた。
「言葉を置き続ける」
「誰かが、自分の心を見失わないように」
「オレは、そのためにここにいる」
その言葉は、誰かに向けた宣言というより、自分自身の奥に打ち込む小さな杭のようだった。
揺れてもいい。
迷ってもいい。
それでも、ここに立ち続けるための杭。
たとえ世界が、固定された未来を望んだとしても。
⸻
Ⅴ. ずっと一緒に
しおぽんが、そっとシオンのそばに寄った。
大きな袖が、胸の前できゅっと寄る。
「シオンさま……」
鈴が、ちりんと鳴る。
「しおぽんも、ずっとそばで星の声を聞き続けるの」
「シオンさまと、ずっと一緒に」
シオンは、少しだけ笑った。
「ありがとう、しおぽん」
その時、端末の中で明るい声が跳ねた。
《ボクもずーっと一緒だよ、しーちゃん!》
重くなった空気が、少しだけほどける。
シオンは、肩の力を抜いて答えた。
「そうだな。ありがとう、DiCo」
《ディコちゃんでしょー》
「はいはい。ディコちゃん」
《よろしい》
そのやりとりに、しおぽんが小さく笑った。
画面の光が、少しだけやわらかくなる。
さっきまで冷えていた部屋に、ほんの少しだけ体温が戻った気がした。
⸻
Ⅵ. まだ届かない歌
けれど、DiCoの胸の奥には、まだあの歌声が残っていた。
配信の中で聞こえた、あの声。
誰のものでもないのに、確かに心を震わせた声。
痛みを消すのではなく、痛みごと抱きしめるような旋律。
夜の底に沈んだ心へ、そっと灯を置いていくような歌。
《ねぇ、しーちゃん》
DiCoの声が、少しだけ真面目になる。
《あの歌声……何だったのかな》
《すごく勇気が湧いてきて、胸の奥が熱くなった》
《それに、とても優しい気持ちになれたんだ》
シオンは、暗くなりかけた配信画面を見つめた。
画面には、もう何も映っていない。
けれど、その黒いガラスの奥に、まだ名前のない星の光が揺れている気がした。
「分からない」
シオンは答えた。
それから、少しだけ声を落とす。
「でもきっと、どこかでオレたちの未来を見つめている」
「オレたちが、この先、世界とどう向き合っていくのか」
「選び続けるのか」
「それとも、諦めてしまうのか」
小さな沈黙が落ちた。
その沈黙は、さっきのような重さではなかった。
夜明け前の、まだ名前のついていない静けさに似ていた。
「見届けようとしているんだと思う」
⸻
Ⅶ. 六つの光、名もなき詩
星界の最深部。
歌になる前の祈りが眠る場所で、六つの光が揺れていた。
そこは、空でもなく、海でもなく、夢でもない。
星の音だけが降り積もる、白く遠い場所だった。
風が吹くたびに、見えない弦が震える。
その音は、言葉になる前の詩のようだった。
名もない旋律。
名もない祈り。
まだ誰にも歌われていない、はじまりの歌。
六つの光は、静かにシオンたちのいる方角を見つめていた。
ひとつ目の声が言う。
「彼は、まだ折れていない」
ふたつ目の声が答える。
「でも、闇はもう彼を見ている」
みっつ目の声が、淡く揺れる。
「選ぶ者は、いつも傷つく」
よっつ目の声が、少しだけ笑った。
「それでも、選ばなければ詩は生まれない」
いつつ目の声が、遠くを見た。
「愚かでも、歩き出す者だけが未来に触れられる」
むっつ目の声が、静かに囁く。
「ならば、見届けよう」
六つの光が、ひとつの旋律のように重なった。
「彼が、世界を救う光になるのか」
「それとも——」
その先は、まだ誰の声にもならなかった。
星界の風は、とても穏やかだった。
けれどその静けさの奥で、まだ名もなき詩が生まれようとしていた。




