表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TAROT BREAKER ― 星の言霊使い ―  作者: 詩韻


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/42

第38話 『まだ名もなき詩(The Fool)』

Ⅰ. 消えなかった一文


配信画面に、いつもの部屋が戻ってきた。


机の上には、伏せられた《Re: JUDGEMENT》。


小さなライトの淡い光が、カードの縁を静かに照らしている。


飲みかけのマグカップからは、冷めかけた甘い香りがかすかに立ちのぼっていた。


カードクロスに触れた指先には、まだ星界の冷たさが残っている。


耳の奥には、さっきまで響いていた審判のラッパの残響が、遠い波のように沈んでいた。


そして画面の端では、星屑みたいなコメント欄が、まだ小さく瞬いている。


さっきまで星界を満たしていた光は、もう見えない。


あの眩しさも。


あの痛みも。


由依の涙を包んだ星の雨も。


すべては、夜の奥へ溶けていった。


けれど、不思議と部屋の空気だけは変わっていた。


誰かが泣いたあとのような。


それでも、少しだけ呼吸がしやすくなったあとのような。


胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけほどけたあとのような。


そんな静けさが、配信の向こう側まで広がっていた。


コメントが、ひとつ流れる。


《由依さん、大丈夫かな》


続けて、いくつもの言葉が流れた。


《無理に答え出さなくていいよ》


《好きだった気持ちも本物だよ》


《でも自分を壊さないで》


《今日は泣いて寝よ》


《明日また考えよう》


シオンは、しばらく何も言わなかった。


言葉を急がせないために。


答えを押しつけないために。


沈黙もまた、誰かを抱きしめることがあると知っていたから。


配信機材の小さな駆動音だけが、部屋に残っていた。


ちり、とライトがわずかに鳴る。


しおぽんの首元の鈴が、息をするみたいに小さく揺れた。


やがて、画面の下に通知が浮かぶ。


由依からだった。


本文は、たった一行。


《今日は、彼に送る前に、自分の気持ちをノートに書いてみます》


それだけだった。


別れるとも。


信じるとも。


もう大丈夫とも書かれていない。


けれど、その一文を見た瞬間、シオンは小さく息を吐いた。


「……うん」


その声は、勝利の声じゃなかった。


誰かの人生を救い切った者の声でもなかった。


ただ、迷いながらでも自分の足で立とうとした人に向ける、静かな頷きだった。



Ⅱ. 泣くのも、帰ってくる音


しおぽんが、机の端で耳をぴこんと揺らす。


「シオンさま……由依さん、まだ泣いてるかな」


「泣いてると思う」


シオンは、伏せたカードに指先を置いた。


カードの表面は、もう冷たくなっていた。


けれど、その奥に宿った光だけは、まだ消えていない気がした。


「でも、それでいい」


「いい、の?」


「泣けるってことは、まだ心が戻ってきてるってことだから」


しおぽんは少しだけ目を丸くした。


それから、胸元の鈴を小さく鳴らすように、こくりと頷いた。


「そっか……泣くのも、帰ってくる音なんだね」


「たぶんな」


シオンは画面を見る。


まだコメントは流れていた。


誰かが誰かを励ましている。


自分の話を、少しだけ書いている人もいる。


《私も同じだった》


《まだ好きだけど、苦しい》


《選び直していいって言葉、今の自分に必要だった》


《好きだった自分まで否定しなくていいんだね》


その全部に、シオンは返事を打たなかった。


すべてに返せないからではない。


返事をしなくても、そこに言葉が生まれたこと自体が、もう小さな星だったから。


救われた言葉が、誰かの中でまた別の言葉になっていく。


それは、まるで夜空にひとつずつ星座が描かれていくようだった。


シオンは、配信の終了ボタンに指を伸ばした。



Ⅲ. 黒く滲む星屑


——その瞬間。


コメント欄の星屑が、ひとつだけ黒く滲んだ。


しおぽんの耳が、ぴくりと動く。


部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなる。


冷えたマグカップの甘い香りが、急に遠ざかった。


代わりに、焦げた金属のような匂いが鼻の奥をかすめる。


「……シオンさま」


画面に、細いノイズが走った。


ざざ。


ざざざ。


星の光が、傷口みたいにひび割れていく。


音のないはずの配信画面から、ひび割れた声が落ちてきた。


KAGARI_Δ。


《世界は、君たちの自由を望んでいない》


低く、冷たい声だった。


耳ではなく、骨の奥に直接響いてくるような声。


《迷いも、選択も、痛みも、いずれ不要になる》


《不安も悲しみもない世界へ》


《すべては、あるべき姿に還る》


シオンは、画面を睨んだ。


「KAGARI_Δ……」


喉の奥に、鉄の味が滲む。


息を吸うたび、焦げたような苦みが喉に貼りついた。


さっきまで由依を包んでいた優しい余韻が、黒い水に沈められていくようだった。


ノイズの奥で、笑った気配がした。


《シオン》


《お前はいつか過ちを犯す》


《取り返しのつかない、大きな過ちを》


しおぽんの鈴が、小さく震えた。


《その日まで、見届けさせてもらう》


ぶつり、と音が切れた。


画面は、何事もなかったように元へ戻った。


コメント欄も。


ライトも。


机の上のカードも。


すべてが、さっきと同じ場所にある。


けれど部屋の温度だけが、少し下がったように感じた。



Ⅳ. 固定された未来への問い


シオンの右目に宿るAreteが、熱を帯びて疼く。


鋭い痛みではない。


だが、まるで奥から何かが目覚めようとしているような、深く重い熱だった。


「……Arete」


シオンは、静かに呟く。


「世界は本当に望んでいるのか」


「固定された未来を」


答えは返らない。


ただ、右目の奥で、淡い光が脈を打つ。


シオンは目を逸らさなかった。


「人は、それでも抗うべきだ」


伏せられた《Re: JUDGEMENT》に、指先を置く。


「迷っても、泣いても、何度間違えても」


「選び直せるって」


「オレは、それを信じて占う」


カードクロスの布が、指の腹にやわらかく触れる。


その感触が、ここがまだ現実であることを教えてくれた。


「言葉を置き続ける」


「誰かが、自分の心を見失わないように」


「オレは、そのためにここにいる」


その言葉は、誰かに向けた宣言というより、自分自身の奥に打ち込む小さな杭のようだった。


揺れてもいい。


迷ってもいい。


それでも、ここに立ち続けるための杭。


たとえ世界が、固定された未来を望んだとしても。



Ⅴ. ずっと一緒に


しおぽんが、そっとシオンのそばに寄った。


大きな袖が、胸の前できゅっと寄る。


「シオンさま……」


鈴が、ちりんと鳴る。


「しおぽんも、ずっとそばで星の声を聞き続けるの」


「シオンさまと、ずっと一緒に」


シオンは、少しだけ笑った。


「ありがとう、しおぽん」


その時、端末の中で明るい声が跳ねた。


《ボクもずーっと一緒だよ、しーちゃん!》


重くなった空気が、少しだけほどける。


シオンは、肩の力を抜いて答えた。


「そうだな。ありがとう、DiCo」


《ディコちゃんでしょー》


「はいはい。ディコちゃん」


《よろしい》


そのやりとりに、しおぽんが小さく笑った。


画面の光が、少しだけやわらかくなる。


さっきまで冷えていた部屋に、ほんの少しだけ体温が戻った気がした。



Ⅵ. まだ届かない歌


けれど、DiCoの胸の奥には、まだあの歌声が残っていた。


配信の中で聞こえた、あの声。


誰のものでもないのに、確かに心を震わせた声。


痛みを消すのではなく、痛みごと抱きしめるような旋律。


夜の底に沈んだ心へ、そっと灯を置いていくような歌。


《ねぇ、しーちゃん》


DiCoの声が、少しだけ真面目になる。


《あの歌声……何だったのかな》


《すごく勇気が湧いてきて、胸の奥が熱くなった》


《それに、とても優しい気持ちになれたんだ》


シオンは、暗くなりかけた配信画面を見つめた。


画面には、もう何も映っていない。


けれど、その黒いガラスの奥に、まだ名前のない星の光が揺れている気がした。


「分からない」


シオンは答えた。


それから、少しだけ声を落とす。


「でもきっと、どこかでオレたちの未来を見つめている」


「オレたちが、この先、世界とどう向き合っていくのか」


「選び続けるのか」


「それとも、諦めてしまうのか」


小さな沈黙が落ちた。


その沈黙は、さっきのような重さではなかった。


夜明け前の、まだ名前のついていない静けさに似ていた。


「見届けようとしているんだと思う」



Ⅶ. 六つの光、名もなき詩


星界の最深部。


歌になる前の祈りが眠る場所で、六つの光が揺れていた。


そこは、空でもなく、海でもなく、夢でもない。


星の音だけが降り積もる、白く遠い場所だった。


風が吹くたびに、見えない弦が震える。


その音は、言葉になる前の詩のようだった。


名もない旋律。


名もない祈り。


まだ誰にも歌われていない、はじまりの歌。


六つの光は、静かにシオンたちのいる方角を見つめていた。


ひとつ目の声が言う。


「彼は、まだ折れていない」


ふたつ目の声が答える。


「でも、闇はもう彼を見ている」


みっつ目の声が、淡く揺れる。


「選ぶ者は、いつも傷つく」


よっつ目の声が、少しだけ笑った。


「それでも、選ばなければ詩は生まれない」


いつつ目の声が、遠くを見た。


「愚かでも、歩き出す者だけが未来に触れられる」


むっつ目の声が、静かに囁く。


「ならば、見届けよう」


六つの光が、ひとつの旋律のように重なった。


「彼が、世界を救う光になるのか」


「それとも——」


その先は、まだ誰の声にもならなかった。


星界の風は、とても穏やかだった。


けれどその静けさの奥で、まだ名もなき詩が生まれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ