第204話 終幕の観測者
月光さえも凍てつくような夜。
黒鉄の山脈に連なる峰々は、巨大な獣の背骨のように、ドラコニア共和国と神聖ルミナール帝国の間に横たわっていた。
その稜線を、巨大な影の群れが、雪崩のように駆け下りていく。
グリフォン、マンティコア、ガーゴイル。
およそ理性的な生物とは思えぬ奇形の怪物たちが、飢餓と破壊の本能に突き動かされ、一つの目的地へと向かっていた。
その魔物の津波を、遥か高みの断崖から見下ろす二つの影があった。
一人は、漆黒の玉座に座るがごとく、岩の突端に悠然と腰を下ろしている。
魔族の若き指揮官、メルクリウス。
その隣には、忠実な影のように、全身を鎧で覆った副官が微動だにせず控えている。
「見事なものだな」
メルクリウスは、眼下で繰り広げられる混沌の行軍を眺め、まるで交響曲でも聴くかのように、満足げに呟いた。
その声には、恐怖も嫌悪もない。
あるのはただ、自然の摂理を鑑賞する科学者のような、冷徹で知的な好奇心だけだった。
魔物たちが放つ咆哮は、彼にとっては不協和音ではなく、生命がその存在を主張する、力強い賛歌に他ならなかった。
「あれらはただ、生きているだけだ。腹が減れば喰らい、縄張りを脅かされれば牙を剥く。……そこに嘘も、欺瞞もない。なんと純粋で、美しいことか」
彼は思い返す。
数日前、自らの前に跪いた、あの人間、アラン・スミスの顔を。
あの男が提示した計画は、まさに人間の悪意を煮詰めて結晶化させたような、芸術的なまでの代物であった。
帝国を騙し、共和国を裏切り、そして魔族をも手駒として利用する。
その複雑に絡み合った裏切りの連鎖は、魔族の持つ直線的な破壊衝動とは全く異質の、陰湿で、緻密で、そしてどこまでも粘着質な執念に満ちていた。
(人間とは、かくも哀れで、かくも美しい生き物か。)
メルクリウスは心の中で嘲笑する。
彼らは群れなければ生きられず、しかし群れれば必ず互いを喰らい合う。
愛を語りながら憎悪を育み、平和を祈りながら戦争の準備に勤しむ。
その矛盾こそが、彼らを彼らたらしめている根源なのだ。
アラン・スミスは、その人間の本質を誰よりも深く理解し、それを武器として自在に操る、稀代の劇作家と言えよう。
彼の脚本通り、今、二つの大国は互いの喉笛に食らいつこうと、見えざる牙を研いでいる。
「全く、滑稽なことだ。……彼らは、我々魔族を悪と断じ、自らを正義と規定する。だが、その正義の御旗の下で、彼らが行っていることの醜悪さには、決して目を向けようとはしない」
副官が、静かに口を開いた。
その声は兜の奥でくぐもり、無機質に響く。
「メルクリウス様。……人間の定義する善悪など、我らには無価値。……我らにあるのは、ただ、種を存続させるという、唯一絶対の法のみ」
「その通りだ」
メルクリウスは頷く。
「我らは、人間のように安易に数を増やすことはできない。一人の同胞が生まれるまでには、長い歳月と膨大な魔力を要する。……我らの生は、常に滅亡と隣り合わせの、綱渡りのようなものだ」
彼にとって、他種族の犠牲は、必要悪ですらない。
それは、自らの種が生き延びるために支払われる、当然のコストだ。
森の狼が鹿を狩ることに、善悪の概念が存在しないように。
魔族が人間を滅ぼすこともまた、生存競争という大いなる自然の法則の一部に過ぎない。
「人間どもは、己が世界の中心であると信じて疑わない。だが、この星の長い歴史から見れば、彼らの文明など、瞬く間に消え去る泡沫よ。……我らは、その泡沫が弾けるのを、ただ静かに見届けるだけだ」
眼下の「忘れられた谷」には、すでにアランが手配した召喚陣の核が、淡い光を放ちながら埋設されている。
共和国軍は、この谷への道を意図的に開放し、帝国軍が深入りするのを手ぐすね引いて待っていることだろう。
そして帝国軍は、正義という名の熱病に浮かされ、敵が仕掛けた罠の中へと、勇んで飛び込んでくるに違いない。
「存分に殺し合うがいい。帝国の英雄も、共和国の守銭奴も、等しく血を流し、互いの骸を積み上げるがいい」
メルクリウスは、愉悦に唇を歪める。
彼は、どちらの味方でもない。
ただ、二匹の猛獣が死闘を繰り広げるのを、最高の特等席から観戦する観客だ。
そして、その二匹が共に力尽き、地に倒れ伏した瞬間こそが、この劇の本当のクライマックスなのである。
「……副官よ。準備はいいな」
「はっ。いつでも」
メルクリウスの真の目的。
それは、帝国軍と共和国軍が互いを削り合い、疲弊しきったその戦場に、自らが降臨すること。
アランが親切にも用意してくれた召喚陣は、魔物のためだけのものではない。
それは、この戦場の支配者たるメルクリウス自身を、最も効果的なタイミングで舞台の中央へと送り込むための、最高の演出装置なのだ。
両軍の生き残りを、その絶望の表情ごと、根こそぎ殲滅する。
そうして得た魂と魔力は、新たな同胞を育むための、何よりの糧となるだろう。
漁夫の利。
人間が生み出したその卑しい言葉を、人間自身に叩きつける。
これほど愉快な復讐が、他にあるだろうか。




