第203話 英雄としての義務
偽りの祝福に満ちた婚約の儀から、数日の時が流れた。
神聖ルミナール帝国の首都は、何事もなかったかのように穏やかな日常を取り戻し、人々は英雄の婚約という明るい話題に心を浮き立たせていた。
だが、その水面下では、見えざる潮流が国境を越え、巨大な渦となって帝国の中枢へと迫っていたのである。
その日、フィオナの執務室の空気は、張り詰めた弦のように震えていた。
彼女の机の上に広げられた一枚の羊皮紙。
それは、ドラコニア共和国領内に潜伏する密偵から、命懸けで送られてきた緊急報告書であった。
報告は簡潔かつ、戦慄すべき内容だった。
「共和国東部、帝国との国境線に位置する忘れられた谷にて、魔族の残党による大規模な召喚儀式の兆候を確認。共和国に通報するも、領内問題として黙殺され、帝国への協力要請も拒否された」
報告書を読み終えたフィオナの琥珀色の瞳は、冬の湖面のように冷え切っていた。
忘れられた谷。
その地形、魔族の動き、そして友邦であるはずの国家の、不可解なまでの非協力的な態度。
そのすべてが、五十年の時を経て、悪夢の記憶を寸分違わず再現していた。
五十年前。
同じような谷で、同じように孤立した戦場で、アルレンは死んだ。
帝国の主力部隊が、戦略的合理性という名の下に見捨てたエルフの里を守るため、彼は魔族の大軍に立ち向かい、そして骨の一片も残さずに消えた。
フィオナの脳裏に、血と炎に染まる空の下、背を向けて駆けていく彼の最後の姿が焼き付いて離れない。
あの時、もし帝国がもっと早く決断していれば。
もし、友邦が僅かでも協力的であったなら。
彼は死なずに済んだのではないか。
その問いは、五十年という長い歳月の間、彼女の魂を苛み続けてきた呪いだった。
「……繰り返させはしない」
フィオナは誰に聞かせるでもなく呟く。
その声は、凍てつくほどの決意に満ちていた。
彼女は通信魔導具を起動させ、二人の人物を同時に呼び出した。
一人は、帝国宰相府に詰めるリアム。
もう一人は、騎士団本部で執務にあたるゼノン・アルトリウス。
ホログラムウィンドウに二人の姿が浮かび上がる。
リアムの顔には、いつものような軽薄な笑みはなく、事の重大さを察した鋭い眼光が宿っていた。
「……フィオナ、これは一体どういうことだ」
リアムが問い詰める。
「報告書の通りだ。共和国は、我々の喉元に突きつけられた刃を、見て見ぬふりをしている」
フィオナは冷徹に答える。
「あるいは、意図的に放置している、と考えるべきだろう。帝国軍の戦力を削ぐために、魔族を飼いならしているのかもしれない」
「それはあまりに飛躍した憶測だ。まずは外交ルートを通じて、真意を確かめるべきではないか。これは、共和国が仕掛けた政治的な罠である可能性も捨てきれない」
リアムの反論は、正論だった。
だが、今のフィオナの耳には、それはただの遅延工作、五十年前の過ちを繰り返すための詭弁にしか聞こえなかった。
「待てば手遅れになる、と言っている」
フィオナの声に、初めて苛立ちの色が混じる。
「儀式が完成すれば、国境は地獄と化す。その時、誰が責任を取るのだ。外交官か? それとも、机上の空論を弄ぶ政治家か?」
彼女の視線が、黙して聞いているゼノンへと移る。
「ゼノン。貴様はどう思う」
ゼノンは、二人のやり取りを、重い沈黙の中で聞いていた。
彼の心は、二つの相反する義務感によって引き裂かれていた。
一つは、リリスを守るという、魂の誓い。
彼女を一人屋敷に残し、危険な戦場へ赴くなど、考えたくもなかった。
婚約の儀で見た、彼女の痛々しいほどに完璧な姿。
あの姿を思い出せば、今すぐにでも騎士団長の職務を放棄し、彼女の手を取ってどこか遠くへ逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。
だが、もう一つの義務感が、それを許さない。
彼は神聖ルミナール帝国の騎士団長。
帝国の民を守り、その平和を脅かす全ての敵を打ち砕く責務を負っている。
魔族の脅威が現実のものであるならば、それを座視することは、騎士としての、そして英雄としての、己の存在意義そのものを否定することに繋がる。
そして何より、フィオナの様子が、彼の決断を促していた。
彼女は常に冷静で、合理的だ。
その彼女が、これほどまでに感情を露わにし、拙速とも思える行動を主張している。
それは、この脅威が、彼女の理性を揺るがすほどに深刻であることの証左に他ならなかった。
「……フィオナの判断を信じよう」
ゼノンは、静かに、しかし揺るぎない声で答えた。
「脅威が存在する可能性が僅かでもあるのなら、それを排除するのが我々の務めだ」
その言葉に、リアムは天を仰ぎ、フィオオナは微かに口元を緩めた。
「話が早くて助かる」
フィオナは、計画の核心を告げる。
「共和国が非協力的な以上、正規軍の越境は全面戦争の引き金になりかねない。……故に、これは帝国の公式な軍事行動ではない。あくまで、非公式な調査協力要請に応える形を取る」
彼女の瞳が、冷たい光を放つ。
「私の直属である魔導特務部隊、そしてゼノン、騎士団から信頼できる者だけを選抜した、小規模な精鋭部隊を編成する。……目的は、召喚儀式の阻止。必要とあらば、関係者の殲滅も許可する」
それは、奇襲であり、暗殺だった。
国家間の法を無視した、闇の作戦。
「私が総指揮を執る。ゼノンは副官として、私に続け」
フィオナは一方的に命令を下し、通信を切った。
リアムは、消えたフィオナのホログラムを見つめ、深く長い溜息をついた。
「……ゼノン、正気か。彼女はどうかしている。あの場所は、彼女にとって鬼門だ。冷静な判断ができるとは思えん」
「だからこそ、俺が行く」
ゼノンは答える。
「彼女を一人にはしておけない。……そして、俺が彼女の判断の誤りを見届け、止める最後の砦となる」
リアムはそれ以上、何も言えなかった。
友の瞳に宿る決意が、いかなる言葉も退けるほどに固いことを、彼は知っていたからだ。
その夜、ゼノンはリリスの部屋を訪れた。
出撃は明朝。
残された時間は少ない。
リリスは、彼のただならぬ気配を察し、静かに彼の言葉を待っていた。
「……明日から、数日間、屋敷を空ける。……東部国境での、緊急任務だ」
ゼノンは、努めて事務的な口調で告げる。
任務の詳細は語れない。
彼女に余計な心配をかけたくなかった。
リリスは、彼の言葉を黙って受け止める。
彼女は何も尋ねない。
なぜ、とは言わない。
ただ、立ち上がり、彼の儀礼服の乱れを直し、手甲の締め具を丁寧に確認する。
その指先は、僅かに震えていた。
だが、彼女の顔には、完璧な使用人の無表情な仮面が張り付いている。
「……お早いご帰還を、心よりお待ちしております。ゼノン様」
彼女は深々と頭を下げる。
その姿に、ゼノンは胸が張り裂けそうになる。
抱きしめたい。
行かないでくれと、泣きついてほしい。
だが、彼女はそうしない。
彼女は、彼が望んだ「影」を、完璧に演じ続けている。
「……ああ」
ゼノンはそれだけを言うのが精一杯だった。
彼は彼女に背を向け、部屋を出る。
扉が閉まる直前、彼は振り返らなかった。
もし振り返れば、この作戦そのものを投げ出してしまいそうだったから。
扉が閉まり、主人の足音が遠ざかる。
一人残されたリリスは、その場に崩れ落ちた。
両手で口を覆い、嗚咽を殺す。
左腕の銀の腕輪が、涙に濡れて冷たく光る。




