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第199話 正義

ドラコニア共和国の首都、その心臓部に位置する執政会議室の奥まった一室。


分厚いビロードのカーテンが昼の光を完全に遮断し、室内に漂うのは権力と、高級な葉巻の紫煙、そして煮詰められた猜疑心の匂いだけであった。


商業ギルド連合の長にして執政会議の重鎮、ダグラス卿は、革張りの椅子にその肥満した体を深く沈めていた。


彼の細い目の前には、アルビオン王国からの使者を名乗る一人の青年、アラン・スミスが静かに座っている。


仕立ての良い旅装束に身を包み、その表情は常に穏やかな笑みを湛えているが、ダグラス卿の長年の経験は、その笑みの裏に底知れない深淵が広がっていることを見抜いていた。


テーブルの上には、飲み干されたワイングラスと、バーンズ子爵邸の焼失を報じる機密書類が乱雑に置かれている。


「ダグラス卿の懸念はごもっともです」


アランは、まるで旧知の友人に語りかけるような親密な口調で切り出した。


「魔族の脅威は確かに存在する。彼らの力は破壊的であり、我々人間の文明にとって明確な敵です。……しかし」


彼は言葉を切り、人差し指でテーブルを軽く叩く。


コン、という乾いた音が、重い沈黙に響く。


「真に警戒すべきは、吠えながら襲い来る狼でしょうか? それとも、友人の顔をして背後から忍び寄る毒蛇でしょうか?」


ダグラス卿は眉をひそめ、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。


「……神聖ルミナール帝国のことか」


「ご明察」


アランは微笑みを深める。


「魔族は公明正大です。彼らは力で蹂躙し、恐怖で支配する。その行動原理は単純明快で、対策も立てやすい。……しかし、帝国は違います」


アランは立ち上がり、部屋に飾られたドラコニアの地図の前まで歩く。


その指が、帝国との長い国境線をなぞった。


「彼らは正義を盾に戦争を仕掛け、平和を口にしながら領土を切り取り、英雄の凱旋の裏で我々の市場を食い荒らす。……サラスでの一件が良い例です。彼らの騎士団長、ゼノン・アルトリウスが魔族を退けた。結構な話です。……ですが、その結果どうなりました? サラスにおける帝国の影響力は飛躍的に増大し、我が国の商人が締め出され始めている」


彼の言葉は、ダグラス卿の最も触れられたくない部分、すなわち商業的利益の損失という傷口に、的確に塩を塗り込んだ。


「バーンズ子爵の一件もそうだ。……あれが本当に単なる野盗や、派閥抗争による暗殺だとお思いですか?……帝国の特務兵が、彼の持つ黒鉄の巨神計画の情報を奪うために動いた、と考える方が余程、筋が通ります」


ダグラス卿は黙って聞いていた。


アランの言葉は憶測に過ぎない。


だが、その憶測は、彼の心の中に燻っていた帝国への不信と恐怖の炎を、激しく燃え上がらせるには十分な燃料であった。


この男は、アルビオンの正式な使者ではない。


おそらくは、帝国に敵対する何らかの勢力が送り込んだ扇動者だ。


だが、そんなことはどうでもよかった。


提示された毒が、今の自分にとって甘露であるならば、喜んで飲み干すまでだ。


「……それで、お前の提案とは何だ」


ダグラス卿が低い声で問う。


アランは振り返り、その瞳に狡猾な光を宿した。


「共闘ではありません。……協力して魔族を討伐したところで、手柄は帝国の英雄が独り占めし、我々は後始末をさせられるだけです。……我々がすべきは、帝国の力を削ぐこと。……彼らの最も鋭い牙を、根元からへし折ることです」


アランはテーブルに戻り、一枚の羊皮紙を広げた。


そこには、共和国東部の山岳地帯の地図が描かれている。


「ここに、ゼノン・アルトリウスをおびき寄せます」


「馬鹿な。……あの英雄が、何の理由もなくのこのこと国境を越えるものか」


「理由ならば、こちらで用意いたします」


アランは地図上の一点、かつて魔族の封印が施されていた古代遺跡を指差した。


「魔族の残党が、この地で新たな儀式を行い、大規模な召喚を企てている。……この偽情報に、いくつかの物証を添えて帝国側に流すのです。……正義感の塊である騎士団長殿は、必ずや調査に乗り出すでしょう」


ダグラス卿の額に汗が滲む。


「……そして、どうする」


「我々は、本物の魔物の群れを、別の場所からその遺跡へと誘導します」


アランの声は、悪魔の囁きのように甘く、冷たい。


「帝国軍と魔族を激突させる。……漁夫の利を得るのは我々です。ゼノンが死ねば帝国は大きな戦力を失い、魔族が消耗すれば我々の負担が減る。もし、万が一ゼノンが生き延びたとしても、彼は共和国の主権を侵害した侵略者として、国際社会から非難を浴びることになる」


それは、どこまでも計算され尽くした、人間の悪意の結晶のような計画だった。


成功すれば利益は大きく、失敗してもリスクはゼロに近い。


全ての責任は、「突発的な魔族の襲撃」という都合の良い概念が引き受けてくれる。


ダグラス卿は目を閉じた。


一瞬、彼の脳裏を、人としての良心が咎める声が響いた。


これは非道だ。


友邦を裏切り、偽りの戦場を作り出すなど、人の道に外れている。


しかし、その声はすぐに、金貨の山が崩れる音と、市場を失う恐怖の叫びにかき消された。


アランが追い打ちをかける。


「卿、国家を守るということは、時に神の御前にて罪を告白する覚悟を持つことです。……清らかな水だけで、この濁った世界の大河を渡り切ることはできません」


その言葉が、最後の楔となった。


ダグラス卿は目を開き、その瞳からは迷いが消えていた。


「……分かった。……その話、乗ろう」


彼は立ち上がり、アランに手を差し出した。


二つの手が、固く握り締められる。


それは、国家間の盟約などではなく、二人の男の欲望と悪意が結んだ、血よりも濃い共犯関係の証だった。


「早速、ギャレットに命じよう。……東部国境の警備を引き上げろ、とな」


ダグラス卿は歪んだ笑みを浮かべる。


アランもまた、満足げに頷き、一礼して部屋を出て行った。


彼の姿が闇に消えると、ダグラス卿は一人、椅子に座り込んだ。


窓の外では、すでに陽が落ち、帝都の夜景が偽りの宝石のようにきらめいている。


その光景を眺めながら、彼は新しい葉巻に火をつけた。


これから始まる欺瞞の舞台を思い、彼の心は罪悪感ではなく、仄暗い興奮に満たされていた。


人間の闇は、いつだって大義という名の美しい衣を纏って、その牙を研ぐものなのだ。

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