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第198話 誓い

月の光が雲に遮られ、帝都ルミナリスが深い眠りに沈む刻。


騎士団長執務室の窓だけが、孤独な灯台のように煌々と輝いていた。


書斎の中、ゼノン・アルトリウスは羊皮紙の山に埋もれていた。


ドラコニア共和国との国境付近で発生した「政治的暗殺事件」の後処理。


シュタイン伯爵派の不穏な動きを牽制するための人事案。


そして、来たるべき春の閲兵式に向けた騎士団の再編成計画。


彼の肩には、帝国の安寧という重い責務がのしかかっている。


ペンを走らせる音だけが、静寂な室内に響く。


だが、彼の思考の大部分は、紙の上の文字ではなく、この屋敷のどこかで息を潜める一人の少女に占められていた。


日中、サロンで見た彼女の姿。


完璧な使用人を演じ、セシリアの無邪気な好意にさえ、卑屈なまでの謙譲で応えるリリス。


その姿を見るたび、ゼノンの胸は罪悪感の鋭い刃で切り刻まれる。


俺は彼女に、再び仮面を被ることを強いている。


エヴァとの別離を強いた時と同じように、彼女の心を殺すことを強いているのだ。


ゼノンはペンを置き、両手で顔を覆った。


指の間から、疲労の滲む深い溜息が漏れる。


愛している。


その想いを叫びたい。


この腕で彼女を抱きしめ、誰にも指一本触れさせないと世界に宣言したい。


しかし、現実がそれを許さない。


俺の騎士団長という地位が、英雄という虚名が、彼女を光の下から遠ざけ、影の中へと縛り付けている。


この矛盾を、いつまで彼女に強いるのか。


俺の無力さが、彼女の魂をどれだけ削り取っていくのか。


その時、書斎の重厚な扉が、油を差した蝶番のように音もなく開いた。


ゼノンは顔を上げる。


そこに立っていたのは、簡素な寝間着姿のリリスだった。


彼女は侍女頭のマサの目を盗み、いくつもの廊下を抜け、この部屋まで来たのだろう。


その顔には、発覚への恐怖と、それを上回る強い意志が浮かんでいる。


彼女は何も言わない。


ただ、潤んだガラス玉のような瞳で、疲労に沈む主人をじっと見つめている。


その視線は、慰めでも、同情でもない。


ただ、彼の存在を確かめ、その痛みを分かち合おうとする、魂の交感そのものであった。


ゼノンは椅子を蹴るように立ち上がった。


数歩で彼女の元へ駆け寄り、その華奢な体を腕の中に閉じ込める。


言葉はなかった。


交わされるのは、互いの心臓の鼓動だけ。


トクン、トクンと響く命の音が、何よりも雄弁に互いの想いを語る。


ゼノンはリリスの冷たい体を強く抱きしめた。


彼女の銀色の髪に顔を埋め、その微かな花の香りを吸い込む。


ああ、彼女はここにいる。


生きている。


俺の手の届く場所に、確かに存在している。


その事実だけで、彼の荒れ狂う心は凪いだ海のように静まっていく。


リリスはゼノンの広い背中に、そっと腕を回した。


鍛え上げられた筋肉の硬さと、その奥にある彼の魂の震えが伝わってくる。


彼の苦悩、彼の葛藤、彼の孤独。


そのすべてを、この細い腕で受け止めたいと願う。


彼女は目を閉じ、彼の心音に耳を澄ませる。


この音だけが、彼女がこの世界に存在する理由であり、生きるための標であった。


長い沈黙の後、ゼノンが低い声で囁いた。


その声は掠れ、深い後悔と、揺るぎない決意に満ちていた。


「……すまない、リリス」


彼は彼女の体を少し離し、その両肩を掴む。


蒼い瞳が、暗闇の中で真剣な輝きを放っていた。


「君にばかり、辛い思いをさせている。……俺は、君を守ると誓ったのに」


リリスは首を横に振ろうとする。


だが、ゼノンはそれを許さなかった。


「聞け。……これは、俺の誓いだ」


彼はリリスの瞳を真っ直ぐに見つめる。


「いつか必ず、お前を光の下へ連れ出す。……誰にも蔑まれず、誰にも指差されることのない場所へ。……お前が、ただのリリスとして笑っていられる場所を、俺がこの手で作り出す」


それは神への祈りではない。


彼自身の魂に刻み込む、絶対の契約。


その誓いを果たすためならば、彼は騎士の身分も、英雄の名誉も、すべてを捨てる覚悟だった。


リリスの瞳から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。


だが、その顔には悲しみの色はない。


満ち足りた、至上の幸福が浮かんでいた。


彼女は多くを望まない。


光の下で生きることなど、夢見たこともない。


ただ、この世界でたった一人、愛する人が自分のために心を痛め、未来を誓ってくれる。


その事実だけで、彼女の魂は救済される。


「……ゼノン様」


彼女は彼の頬に手を伸ばし、その涙の跡を優しく拭う。


「そのお言葉だけで、私は満たされます。……たとえこの先、永遠に影として生きることになろうとも、ゼノン様のその誓いを胸にある限り、私は幸せです」


彼女の微笑みは、聖母のように慈愛に満ち、そしてどこまでも清らかだった。


ゼノンは言葉を失い、ただ彼女の手の温もりを感じていた。


この少女こそが、俺の守るべき唯一の光なのだと、改めて心に刻む。


しかし、時計の針は無情に進む。


束の間の逢瀬は、終わりを告げなければならない。


二人は名残を惜しむように、ゆっくりと体を離した。


「……もう、行きなさい」


ゼノンが促す。


「マサに気づかれる前に」


「……はい」


リリスは一歩下がり、深々と淑女の礼をとる。


その表情は、再び完璧な使用人の仮面へと戻っていた。


「お仕事、あまりご無理なさらないでくださいませ。……お夜食をお持ちいたしましょうか?」


「……いや、いい。……ありがとう、リリス」


そのやり取りは、残酷な芝居だ。


だが、その芝居を演じ続けることだけが、今の二人を繋ぎ止める唯一の方法だった。


リリスは音もなく扉口へ後ずさり、最後に一度だけ振り返る。


その瞳には、万感の想いが込められていた。


そして、彼女は影の中へと溶けるように消えた。


一人残されたゼノンは、しばらくの間、彼女が消えた扉を見つめていた。


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