第197話 英雄と貴族の令嬢
深夜、外から足音がする。
音だけ聞いてもわかるのだ
(ゼノン様)
リリスは雨に濡れた外套を脱ぎ捨て、ゼノンの胸に飛び込んだ。
彼の腕が彼女の背中に回り、強く抱きしめる。
冷えた金属の鎧の感触と、その奥にある確かな熱が伝わる。
泥と血の匂いが洗い流され、代わりに彼の纏う鉄と革、そして微かな石鹸の香りが鼻腔を満たす。
リリスは顔を埋め、深呼吸をする。
肺の奥まで彼の匂いで満たされると、身体の震えが止まった。
ゼノンの指が彼女の濡れた銀髪を梳き、首筋を愛おしげに撫でる。
言葉はない。
ただ互いの心臓が同じリズムで打ち、互いの体温が混ざり合う感覚だけが、生還の証としてそこにあった。
「……馬鹿なことを」
ゼノンの声が頭上から降ってくる。
低く、震えている。
彼はリリスの肩を掴み、自身の顔の高さまで引き離した。
その蒼い瞳には、怒りと安堵、そして深い愛情が渦巻いている。
「一人で……あんな危険な場所へ。……もし君を失ったら、俺はどうすればよかったんだ」
リリスは彼の瞳を見つめ返す。
フィオナの言葉が脳裏をよぎる。
愛はバグだ。
判断を鈍らせる。
だが、目の前の男の瞳にある熱は、バグなどという無機質な言葉では片付けられない。
それは命そのものの輝きだ。
リリスは爪先立ちになり、彼の唇にそっと口づけを落とした。
「……申し訳ありません、ゼノン様。……ですが、私は戻りました。あなたの元へ」
唇が離れると、ゼノンは崩れ落ちるように彼女を再び抱きしめた。
「……ああ。……おかえり、リリス」
その一言が、リリスの旅のすべてを報われたものへと変えた。
背後で咳払いが響く。
リアムが木陰から現れ、苦笑いを浮かべていた。
「……感動の再会に水を差すようで悪いが、時間がない」
彼は周囲を警戒するように視線を巡らせる。
「フィオナの情報操作のおかげで追手は撒けたが、帝都には別の監視の目がある。……特に、オルレアン侯爵家の目は鋭い」
ゼノンとリリスは体を離し、表情を引き締める。
現実が、冷たい雨と共に戻ってくる。
「セシリア嬢は勘が鋭い。……ゼノンの心がどこにあるのか、すでに疑い始めている」
リアムは淡々と告げる。
「これより先、屋敷内において、二人の接触は最小限に留めなければならない。……リリスはただの使用人として、ゼノンは厳格な主人として振る舞え。……視線を交わすことすらリスクになる」
ゼノンは拳を握りしめ、悔しげに顔を歪めた。
「……俺の屋敷で、俺が愛する女に触れることすら許されないのか」
「そうだ。……それが、彼女を守るための代償だ」
リアムは断言する。
「リリス。……君には辛い役回りになるが」
リリスは首を横に振り、静かに微笑んだ。
その笑みは、痛々しいほどに美しく、そして完成されていた。
「お気になさらないでください。……私は道具です。……主人の幸福のために影に徹することこそ、私の本懐ですから」
彼女は一歩下がり、使用人の礼をとる。
完璧な角度、完璧な所作。
そこに恋人の甘さは微塵もない。
ゼノンはその姿を見て、唇を噛み締めた。
彼女が完璧であればあるほど、彼の心は引き裂かれる。
翌朝、ゼノン私邸のサロン。
陽光が差し込む明るい室内に、ゼノンとセシリアが向かい合って座っている。
テーブルの上には、リリスが淹れた紅茶と焼き菓子が並ぶ。
リリスは壁際に控え、彫像のように直立していた。
視線は床の一点に向けられ、二人の会話には一切反応しない。
「まあ、このクッキー、とても美味しいわ!」
セシリアが声を弾ませる。
「ゼノン様、家の使用人は本当に優秀なのね。……特に、このリリスさんは」
セシリアの視線がリリスに向けられる。
無邪気な賞賛。
だが、その瞳の奥には、探るような光が見え隠れする。
「……ええ。彼女は仕事熱心で、よく尽くしてくれます」
ゼノンはカップを手に取り、短く答える。
声色は平坦で、使用人への評価以上の感情を含ませない。
リリスを見ようともしない。
その徹底した無関心が、逆に不自然なほどの緊張感を生んでいた。
「リリスさん、少しこちらへ来てくださる?」
セシリアが手招きする。
リリスは音もなく歩み寄り、膝をつく。
「はい、セシリア様」
「リリスの髪、とても綺麗ね。……まるで月光を織り込んだようだわ」
セシリアはリリスの銀髪に触れる。
その手は柔らかく、温かい。
悪意はない。
純粋な好意と、美しいものへの憧れ。
だからこそ、リリスの胸は痛む。
この無垢な少女を、私は騙している。
彼女の婚約者と愛を交わし、彼女の笑顔の裏で舌を出している。
リリスは伏し目がちに答える。
「……勿体ないお言葉です。……私はただの卑しい者ですので」
「そんなことないわ。……ねえ、ゼノン様もそう思うでしょう?」
セシリアがゼノンに同意を求める。
ゼノンは一瞬言葉に詰まり、そして冷ややかに答えた。
「……外見など、使用人の評価には関係ないことです。……セシリア嬢、紅茶が冷めますよ」
彼は話題を切り替える。
リリスを庇うためでもあり、彼女への想いが露呈するのを恐れるためでもある。
セシリアは少し残念そうに手を引いた。
「……そうね。ごめんなさい」
リリスは一礼して下がる。
壁際の位置に戻り、再び影となる。
目の前には、光の中に座る美しい二人。
英雄と貴族の令嬢。
絵に描いたような理想的な婚約者たち。
その光景はあまりに眩しく、リリスの居場所がないことを残酷なまでに突きつけていた。




