第196話 愛は毒
冷たい雨が石畳を濡らす帝都の裏路地。
リリスは泥に塗れた外套を引きずり、指定された古びた教会の扉を叩いた。
扉がわずかに開き、暖かな光と共にリアムの顔が覗く。
彼はリリスの姿を認めると、すぐさま中へと招き入れた。
その表情には、安堵と同時に深い憂色が滲んでいる。
「よく戻った、リリス。……まずは身体を温めるといい」
リアムはタオルと温かいスープを差し出す。
リリスは震える手でそれを受け取り、一口すする。
五臓六腑に染み渡る熱が、張り詰めていた緊張の糸を解いていく。
だが、リアムの視線はリリスの背後、闇の奥へと向けられていた。
「ゼノンにはまだ会わせられない。……今は、少し事情が複雑でな」
彼の言葉に、リリスはスプーンを止める。
「事情……ですか」
「ああ。……フィオナのことだ」
リアムは溜息交じりに告げる。
「彼女の精神状態が不安定だ。……君を見ると、彼女の中の何かが暴走しかねない。……だから、今夜はここに隠れていてくれ」
深夜、教会の礼拝堂。
リリスは眠れず、静かに廊下を歩いていた。
最奥の部屋から、微かな声が漏れている。
扉の隙間から、フィオナの姿が見えた。
彼女は祭壇の前で膝をつき、何かを呟いている。
祈りではない。
それは呪詛にも似た、自分自身への尋問であった。
「……なぜ、忘れられない。……なぜ、消えない。……アルレン」
リリスはその名を聞き、息を呑む。
背後から、リアムが忍び寄る。
彼は人差し指を口元に当て、リリスを手招きして別室へと連れ出した。
「……聞いてしまったか」
リアムは苦笑する。
「アルレン・グレイ。……五十年前に死んだ、彼女の恋人だ」
リアムは語り始めた。
無謀で、愚かで、そして太陽のように優しかった勇者の物語を。
彼がエルフの里を守るために、魔族の大軍に立ち向かい、散っていった最期を。
そして、残されたエルフの少女が、その痛みに耐えきれず、心を氷の檻に閉じ込めた経緯を。
「彼女は君を見ているようで、君を見ていない。……君の中に、死に急ぐあの男の幻影を見ているんだ」
翌朝、リリスはフィオナと対面した。
執務室の机を挟み、フィオナは氷のような瞳でリリスを見下ろす。
「……帰還報告は受理しました。……管理番号704」
事務的な声。
だが、その指先はペンをへし折らんばかりに強く握りしめられている。
「……一つ、忠告しておきます」
フィオナが立ち上がる。
「あなたのその献身は、美しい物語などではない。……ただの自己満足であり、破滅への加速装置です」
彼女はリリスに歩み寄る。
琥珀色の瞳の奥で、激情の炎が揺らめく。
「愛が人を強くする? ……くだらない。……愛は判断を鈍らせ、生存確率を下げるだけのバグです。……あなたも、ゼノンも、いずれそのバグによって殺される」
フィオナの声が震える。
それは警告であり、懇願でもあった。
もう誰も、私の前で愛のために死なないでくれという、悲痛な叫び。
リリスはフィオナの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
そこにあるのは、冷徹な魔女ではなく、傷ついた迷子の少女の姿だった。
リリスは静かに口を開く。
「……かもしれません」
肯定の言葉に、フィオナが目を見開く。
「私は愚かです。……ゼノン様も、きっと愚かなのでしょう。……ですが」
リリスは胸に手を当てる。
そこには、ゼノンから贈られた短剣と、彼への想いが刻まれている。
「たとえその先に死が待っていようとも、……愛のない永遠を生きるより、愛する人のために燃え尽きる一瞬を選びます」
それは、かつてアルレンが選んだ道と同じ答え。
フィオナの顔が歪む。
怒りと、悲しみと、そしてどうしようもない羨望がない交ぜになった表情。
「……愚か者」
彼女は吐き捨てるように言い、背を向けた。
「……下がりなさい。……私の視界から消えて」
リリスは深く一礼し、部屋を後にした。




