幸せという名の恐怖
窓硝子を叩く雨音だけが、世界のすべてであった。
分厚いカーテンが外の灰色の光を遮断し、寝室は薄闇と静寂に満たされている。
ゼノンは寝台の縁に腰掛け、眠るリリスの顔を見つめていた。
彼女の呼吸は穏やかで、銀色の髪が白い枕に散らばっている。
左腕の包帯は新しく、そこから微かに漂う薬品の香りが、数日前の惨劇を無言で告げていた。
今日、彼は騎士団への出仕を断った。
リアムからの連絡も、王宮からの招集も、すべて無視した。
英雄としての仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の少女の守り人となることを選んだのだ。
彼はリリスの頬にかかる髪を、指先で優しく払った。
その動きに呼応するように、リリスの睫毛が震え、ガラス玉のような瞳がゆっくりと開かれた。
「……ゼノン、様?」
眠気を含んだ声は、鈴の音のように頼りない。
「ああ。……おはよう、リリス」
ゼノンは微笑み、掛け布団を肩まで引き上げた。
「今日は仕事に行かないのですか?」
「休みを取った。……今日はずっと、お前の傍にいる」
リリスは瞬きをし、状況を理解すると、頬を微かに染めてシーツに顔を埋めた。
その仕草は、戦場で敵を屠る特務兵のそれではなく、ただ愛を乞う幼子のようであった。
マサが運んできた朝食の盆には、湯気を立てるカボチャのポタージュと、柔らかく煮込まれたパンが載せられていた。
ゼノンは盆をサイドテーブルに置き、スプーンを手に取った。
「自分で、食べられます……」
リリスが身を起こそうとするが、ゼノンはそれを制した。
「甘えればいい。……今はお前は病人だ」
彼はスープを一口すくい、ふうふうと息を吹きかけて冷ます。
そして、リリスの口元へと運んだ。
リリスは躊躇いながらも、小さな口を開けてそれを受け入れた。
甘くて温かい液体が、喉を通って胃の腑へと落ちる。
「……美味しいです」
「そうか。……もっと食え」
ゼノンは甲斐甲斐しく、一口ずつ丁寧に食事を与え続けた。
リリスは咀嚼するたびに、胸の奥が熱くなるのを感じた。
娼館では、食事とは生きるための作業であり、時には床に放られた残飯を漁ることもあった。
誰かに口へ運んでもらうなど、想像したこともない贅沢だった。
彼女はゼノンの目を見つめた。
そこにあるのは、純粋な慈愛のみ。
道具としての価値を測る冷たい光は、欠片も存在しなかった。
(このまま、溶けてしまいたい)
リリスは恐怖すら覚えた。
この幸福に慣れてしまえば、二度と冷たい雨の中へ戻れなくなるのではないか。
だが、ゼノンの指が口元の汚れを拭う感触に、彼女はその不安を思考の隅へと追いやった。
午後の光がカーテンの隙間から差し込む頃、ゼノンは書架から一冊の本を取り出した。
革張りの表紙には、金箔で星を追う少年という題名が刻まれている。
「字は読めるか」
「娼館で……教わりました」
「そうか。……では、俺が読もう」
ゼノンはベッドに上がり、リリスの背中にクッションを当てて寄り添うように座った。
リリスは彼の広い胸に頭を預け、開かれたページを見つめる。
美しい挿絵と、大きな文字。
ゼノンの低い声が、物語を紡ぎ始める。
彼の朗読は、騎士の号令とは異なり、穏やかで心地よいリズムを持っていた。
少年が星を求めて旅をし、困難を乗り越えていく物語。
リリスはその世界に没頭した。
ページを捲る指の動き、背中から伝わるゼノンの心音、紙の匂い。
それらすべてが、彼女の凍りついた記憶を解かしていく。
「……星は、見つかったのですか?」
「ああ。……だが、少年が見つけたのは空の星ではなく、旅路で出会った友の瞳の中にある光だった」
ゼノンは静かに語り、リリスの頭を撫でた。
「リリス。……お前も星だ」
リリスは息を呑んだ。
その言葉の重みに、心臓が跳ねる。
「私は……汚れています。……星なんかじゃ、ありません」
「いいや。……お前は誰よりも美しい」
ゼノンは否定し、彼女の肩を抱き寄せた。
リリスは彼の服の裾を強く握りしめた。
道具としての仮面が剥がれ落ち、ただ甘えたいという本能が溢れ出す。
「ゼノン様……」
彼女は彼の胸に顔を埋め、幼い獣のように擦り寄った。
ゼノンは拒むことなく、その全てを受け止めた。
夕闇が部屋を紫に染める頃、リリスの瞼は重くなっていた。
安らぎと満腹感、そしてゼノンの体温が、彼女を深い眠りへと誘う。
「眠いか」
「……はい。でも、もったいないです……」
「何がだ」
「この時間が……夢になってしまうのが」
リリスは微睡みの中で呟く。
ゼノンは苦笑し、彼女の髪に口づけを落とした。
「夢ではない。……明日も、明後日も、俺はここにいる」
「……約束、ですよ」
「ああ。……約束だ」
リリスは安心し、力を抜いた。
意識が遠のく中、彼女は自分がかつて娼婦であったことも、人殺しの兵器であることも忘れていた。
ただ、愛される子供として、絶対的な守護者の腕の中で眠る。
彼は、リリスを抱く腕に僅かに力を込めた。
雨音は止まず、二人の世界を外界から優しく隔離し続けていた。




