約束です
温室のガラス屋根を叩く雨音は遠く、湿った空気が二人の肌を包んでいる。
乳白色の光が、リリスの切断された左腕の断面を覆っていた。
ゼノンが両手をかざし、自身の魔力を送り込んでいる。
「……痛むか」
ゼノンが問う。
リリスは首を横に振った。
「いいえ。……暖かいです」
彼女の額には汗が浮かんでいる。
再生に伴う骨の軋み、神経の再結合がもたらす激痛を、彼女は表情筋を強張らせて耐えていた。
ゼノンはその我慢を見抜き、魔力の出力を調整する。
光の粒子が傷口に浸透し、壊死した組織を排除し、新たな肉芽の形成を促す。
本来、魔族の再生能力は本人の魔力を源とするが、リリスの魔力回路は枯渇していた。
ゼノンの高純度な光魔力が、彼女の生命活動を外側から支えている。
リリスの頬に赤みが差し、荒い呼吸が落ち着きを取り戻す。
「……ありがとう、ございます。ゼノン様」
彼女は右手を伸ばし、ゼノンの鎧の冷たい感触を確かめるように触れた。
ゼノンはその手を自分の手で覆い、指を絡めた。
「礼など要らない。……俺がしたいだけだ」
彼はリリスの手の甲に唇を寄せた。
その瞳には、かつて戦場で見せた鋭さはなく、ただ深い安らぎと、微かな恐れが揺らめいていた。
治療を終えると、ゼノンはリリスを抱き上げ、車椅子に移すことを拒んだ。
彼は彼女を抱いたまま、温室の奥へと歩を進める。
そこには、リリスが以前世話をしていたバラたちが咲き乱れていた。
冬の気配が近づく外気とは遮断され、ここだけが永遠の春を留めている。
ゼノンは白いベンチに腰を下ろし、リリスを膝の上に乗せたまま離そうとしない。
リリスもまた、彼の首に右腕を回し、その体温に身を委ねた。
「……咲きましたね」
リリスが視線の先の深紅のバラを指差す。
「ああ。……お前が世話をしたからだ」
ゼノンが短く答える。
彼は大きな手で、リリスの乱れた銀髪を梳いた。
指先が頭皮を優しく撫で、耳の後ろを擦る。
リリスはその感触に目を細め、喉を鳴らすような吐息を漏らす。
かつて娼館で受けた粗雑な扱いとは違う。
道具としての点検や、快楽のための愛撫とも違う。
ただ、そこに存在することを慈しむような、無償の手触り。
リリスは胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
これが、人間として扱われるということなのか。
それとも、壊れかけた玩具への憐れみなのか。
どちらでもよかった。
今の彼女にとって、ゼノンの腕の中こそが世界の全てであり、唯一の安全地帯だった。
「……ゼノン様」
「なんだ」
「私は、重くないですか」
リリスが上目遣いに見上げる。
ゼノンは微かに口角を上げた。
「羽のように軽い。……もっと食べて、肉をつけろ」
「はい。……マサさんのシチューを、たくさん食べます」
他愛のない会話。
外の世界では、リアムが暗躍し、フィオナがリリスの廃棄を画策しているかもしれない。
自身の左腕はまだ肉塊のままで、完全な再生には程遠い。
それでも、この瞬間だけは、何もかもが満ち足りていた。
ゼノンがリリスの肩に顔を埋める。
「……リリス」
「はい」
「どこにも行くな。……もう二度と、俺の目の届かない場所へは行くな」
懇願にも似た響き。
英雄としての責務、政治的な重圧、友との軋轢。
それら全てに疲弊した男が、唯一心を許せる場所を求めて縋っている。
リリスはその弱さを愛おしく思った。
彼女は残った右手で、ゼノンの頭を抱き寄せた。
「行きません。……私はずっと、ゼノン様のものです」
嘘ではない。
彼女の魂も、肉体も、そして罪さえも、彼に捧げられている。
彼を騙し続けることこそが、今の彼女にできる最大の忠誠だった。
「約束だ」
ゼノンが呟く。
「はい。……約束です」
二人は互いの体温を貪るように抱き合った。
温室の湿った空気が、共依存という名の甘い毒を含んで二人を包み込んでいく。
硝子越しの灰色の空の下、切り離された楽園で、彼らは世界の残酷さを一時の間だけ忘却した。




