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私は道具だから

清潔なシーツは、瞬く間に赤と黒の斑点に侵食されていた。


医師が額に汗を浮かべ、切断された左腕の断面に治癒魔法を集中させる。


光の粒子が傷口を覆うが、壊死した肉と呪いの毒素がそれを拒絶し、ジジという嫌な音を立てて煙を上げる。


「……酷い。毒が骨髄まで回っている。切断は正解でしたが、あと数分遅ければ心臓が止まっていたでしょう」


医師は手を止めず、マサに温湯と新しい包帯を要求する。


マサは涙を流しながら、震える手でリリスの額を濡れた布で拭う。


ゼノンはベッドの脇に跪き、リリスの冷たい右手を両手で包み込んでいた。


彼の鎧は泥と血で汚れ、端正な顔は苦痛に歪んでいる。


部屋の隅、扉の近くにはリアムが立っていた。


彼は表情を消し、ただ静かにその光景を見つめている。


ゼノンは一度もリアムの方を見ない。


その背中が発する拒絶の意思は、冷気となって部屋の空気を凍りつかせていた。


熱い。


焼けるように熱い。


リリスの意識が、泥の底から浮上する。


彼女は薄く瞼を開けた。


ぼやけた視界に、白い天井と、心配そうに覗き込むゼノンの顔が映る。


「……リリス。気がついたか」


ゼノンの声は震えている。


リリスは喉の奥で呼吸を整え、状況を確認する。


左腕がない。


あるのは焼けるような幻肢痛と、包帯の圧迫感のみ。


そして、部屋に満ちる重苦しい沈黙。


彼女は視線を巡らせ、入り口に立つリアムの姿を捉えた。


リアムはリリスと目が合うと、僅かに目を細め、すぐに視線を逸らした。


ゼノンの殺気立った背中。


リアムの沈黙。


リリスの生存本能と、娼婦として培った観察眼が、瞬時に事態を理解させる。


ゼノン様が、リアム様を疑っている。


私のせいで、二人が決裂しようとしている。


いけない。


リリスの思考が加速する。


ゼノン様にとって、リアム様は唯一無二の親友であり、この過酷な帝国で理想を支えるための片腕だ。


私が原因でその腕を切り落とせば、ゼノン様は孤立する。


光を失い、闇に呑まれてしまう。


私は道具だ。


影だ。


汚れるのは私だけでいい。


痛みを受けるのも、罪を背負うのも、私だけでいい。


リリスは渇いた唇を開く。


嘘を吐くために。


自分を殺し、愛する人を守るための、もっとも残酷で優しい嘘を。


「……ゼノン、様」


掠れた声に、ゼノンが身を乗り出す。


「喋るな。傷に障る」


「ごめんなさい……私、勝手なことを、しました」


リリスは焦点の定まらない瞳で、ゼノンの目を見つめる。


「屋敷の生活が、窮屈で……。外の空気が吸いたくて、こっそり抜け出したんです」


ゼノンの眉がピクリと動く。


「……なんだと?」


「古い知り合いに会えると思って……森へ行きました。でも、そこに悪い人たちがいて……」


リリスは呼吸を喘がせながら、言葉を紡ぐ。


「私が愚かでした。……自分の欲のために、言いつけを破って……こんな怪我をして。……リアム様は、何も知りません」


彼女は視線をリアムに向けず、ゼノンの手を握り返す。


「怒らないでください、ゼノン様。……悪いのは、全部、私です。……私は、やっぱり……どうしようもない、不良品なんです」


自虐的な笑みを浮かべる。


その笑顔は、かつて夜会で見せたものよりも遥かに痛々しく、そして完璧だった。


ゼノンは言葉を失った。


嘘だ。


直感がそう告げている。


リリスが「窮屈」などという理由で抜け出すはずがない。


彼女は誰よりもこの場所を大切にし、誰よりも従順であろうとしていた。


だが、その嘘の裏にある巨大な献身に、ゼノンは打ちのめされた。


彼女は自分の身を切り裂いてでも、自分とリアムの関係を守ろうとしている。


守られているのは自分だ。


英雄と呼ばれながら、少女一人の嘘に縋らなければ立っていられない。


ゼノンはリリスの手を額に押し当て、嗚咽を噛み殺した。


「……馬鹿なことを。……もういい。喋らなくていい」


彼は肯定も否定もしなかった。


ただ、彼女の嘘を受け入れ、その痛みを共有することを選んだ。


リアムは沈黙を守ったまま、一歩も動かなかった。


彼もまた、リリスの嘘に救われていた。


そして、その救いがどれほどの呪いを伴うかを理解していた。


共犯者。


リリスの視線がそう語っていた。


「私はゼノン様の道具として振る舞います。だから、リアム様もゼノン様の友として振る舞ってください」と。


リリスの瞳から光が消え、再び深い眠りへと落ちていく。


部屋には、魔導灯の明滅する音と、雨が窓を打つ音だけが残された。


ゼノンは動かない。


その背中は、先ほどまでの激昂を失い、深く静かな悲哀に沈んでいた。


それは、光の英雄が、初めて自分の影の濃さを知った夜であった。

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