第9話 鍵と扉
金属の匂いが変わった。
相沢レンは、何段目かもう数えていない階段を踏みしめながら、足裏に伝わる感触の違いに気づいた。
鉄と塩と錆。その奥に、古い油の匂いが混ざる。ずっと止まっていた機械が、ひさしぶりに動きたがっているみたいな匂いだ。
「匂い、変わったな」
前方で北条カイが低く言った。大きな背中がわずかに緊張で膨らんでいる。
「機械の層に近づいてる」
米倉シンが図面を片手で押さえ、もう片方の手で階段の側面をなぞった。指先に触れる溝の形状が、今までと違う。
「この辺りから、縦穴を横断する補助梁が増えるはず。図面の上じゃ、そうなってた」
「“上じゃ”って」
牧野がかすかに笑いかけたが、すぐ唇を引き結んだ。冗談は封印。笑いは軽くても、言葉は重い。黒板にそう書かれていた。
「ツムギ」
レンは横にいる小柄な少女に声をかける。ツムギは耳に添えていた手を少し離し、目を細めた。
「うん。……鉄の響きが深くなってる。縦穴の向こう側から、何か太いものが回ってる音がする。まだ遠いけど」
「“扉”か“鍵穴”だな」
米倉が断言した。「さっきの鍵、覚えてるだろ。あれに合う場所が、もうすぐ出てくると思う」
鍵。
レンは太腿の内側を意識した。内ポケットに入れていたはずの古い鍵は、今は別の場所にある。早乙女レイから受け取った、塔のどこかのための鍵。
鍵は最後に。黒板がそう言った。
けれど、最後とはどこなのか。縦穴のどの位置なのか。上か、途中か。今の自分たちの位置は、その「最後」にどれくらい近いのか。何もわからない。
「踊り場」
ツムギの声で我に返る。
階段の先、少し広くなった踊り場が見えた。壁に黒い板。そこに、例の白い粉の文字。
よくやった
たった四文字が、身体の力をふっと抜いてくる。
よくやった。
褒め言葉。評価。
この塔で、初めて真正面からの「肯定」を見た気がした。
「……おいおい」
牧野が乾いた笑いを漏らす。「何様だよ、塔のくせに」
「褒められてる場合じゃない」
ユイが短く切る。「喜びは質量。軽く見えるけど、足に乗ると重い」
黒板の下のほうに、小さく同じ言葉が書き足されているのにレンは気づいた。
喜びは質量
「褒められた瞬間に気を抜けば、揺れで持っていかれる。そういう構造なんだよ」
米倉が自分に言い聞かせるように呟く。「“よくやった”は、塔にとっての“まだ続く”だ」
レンは喉を鳴らし、踊り場の中央に視線を移した。
そこにあったのは、床から少しせり上がった金属の柱。
柱の側面に、古びた金具。真鍮色だったはずの表面は塩と錆で白っぽくくすんでいる。その中央に開いた穴は、見覚えのある形をしていた。
鍵穴。
自分の掌にあった鍵の輪郭と、ぴたりと重なる形。
「来たな」
北条が低く言う。
レンは無意識に手を太腿へ伸ばしかけて、途中で止めた。そこにはもう、鍵はない。
鍵は、今、北条が持っている。
早乙女レイから受け取った鍵は、第八話の終わりに近い場所で、レンから北条へと渡されていた。
支点を自ら買って出て、隊列の最後尾に回ると決めたあのとき。
――前は任せた。
――じゃあ、これを持ってくれ。最後に返す、ってことで。
短い会話が、汗と塩の匂いの中に埋もれている。
「北条」
レンが呼ぶと、彼はうなずいて腰のポーチから布で包んだ物を取り出した。布をほどくと、中からあの鍵が現れる。
小さなタグ付きの古びた鍵。
刻印は塩でにじみ、数字は読み取れない。けれど、鍵の歯の形はしっかりしている。
「これ、いくか?」
「……一回限りの可能性が高い」
米倉が慎重に言った。「前の設備室と同じなら、使えば一時的に揺れを止められる。でも、その代わりに何かを“返却”するかも」
「返却はもう見た」
レンは早乙女レイの円を思い出す。「今回は“鍵”。鍵を返すのか、それとも……」
「返す相手は塔」
ユイが冷静に言う。「でも、ここで使わずに上まで持って行って、鍵穴がなかったら、それこそ無駄死に。選べるチャンスがあるなら使う」
「どうやって」
北条が鍵と穴を見比べる。「回した瞬間に揺れが変わるとして、その間に何をする?」
「補助梁を出すんだと思う」
米倉が柱をなぞり、壁の方へ指を向ける。「縦穴を横断する梁の根元。この柱が起点。鍵を回すと、向こう側から梁がせり出して、足場と支点が増える。揺れが分散される。何分持つかはわからないけど」
「その間に、一層分……いや、二層分は上がれる」
レンは喉の奥で計算した。「前と同じなら」
「前と同じじゃない可能性もある」
ツムギがそっと言った。耳に添えた手が、わずかに震えている。
「塔、変わってる。揺れ方も、音の高さも。さっきから少しずつ違う。私たちの“選び方”を見て、それに合わせて……」
米倉が眉をしかめた。「最適化してる、ってことか」
「うん。塔の方が、私たちの運用を“学習”してる。さっきの誓約とか、重なって歩くとか。そういうのを見て、“じゃあこうすれば落ちる”って変えてきてる感じ」
学習。
その言葉に、レンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
自分たちも、塔の中で最適化を繰り返してきた。重さを削り、役割を切り替え、善意の配分すら調整して。
同じように、塔もまた、彼らの「選び方」を観察し、最も効率よく一層ごとに一人を落とすためのパターンを更新している。
「この塔は“選び方”を学習している」
米倉は自分の言葉を繰り返し、黒板を見た。「だから褒める。“よくやった”。それで俺たちの心を軽くして、足を重くする。喜びは質量。心理まで計算に入れてる」
「最低だな」
牧野が吐き捨てる。「でも、わかりやすい。だったらこっちも、その“学習”を利用すればいい」
「どうする」
北条が鍵を握ったままレンを見る。
隊列の前には、もう北条はいない。
今、前を任されているのはレンだ。
「鍵、回してくれ」
レンは言った。「梁を出す。その間に、俺が前で進路を決める。北条は……」
「最後尾だろ」
北条が言葉を継いだ。「決めたからな。支点は、最後尾に回る。前で倒れたら洒落にならん」
「でも」
「おまえ、前に出ろ」
北条は鍵を握ったまま、少しだけ笑った。「ずっと真ん中でバランス取り続けてきたんだ。そろそろおまえが、最前列で決めていいだろ」
レンは返す言葉を探し、見つからず、結局短く頷いた。
「……わかった。前は任せろ」
「よし」
北条は柱の前に立ち、鍵を金具に差し込んだ。
金属同士がすれる音。鍵穴はぴったり噛み合う。
冷たい感触が鍵から彼の手首に伝わる。塔の骨が、彼の握力を試しているみたいだ。
「回すぞ」
「待って」
ユイが一歩前に出た。
踊り場にいる全員の位置を見渡し、短く指示を飛ばす。
「隊列を一時解除。全員、柱から一段下がる。落ちても踏ん張れる位置。ロープは張ったまま。合図は私じゃなくツムギが取る。補助梁の音を聞き分けられるの、彼女だけだから」
「了解」
「了解」
幾つもの声が重なる。
レンはツムギの肩に手を置き、彼女が耳に集中できるよう、背中を壁につけさせた。牧野と米倉は左右の手すりを押さえ、北条の背後にはユイが立つ。
「ツムギ、合図」
「うん」
ツムギは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。「回して」
北条が鍵をゆっくり時計回りに回す。
最初は重く、固く。だが少し力を込めると、抵抗がスッと抜けた。塔の奥で何かが動き出す。かつての設備室と似た感触。だが今回は、もっと大きい。
縦穴の向こうから、轟音が響いた。
何か太いものが軋みながらスライドする音。鉄と鉄が擦れ合う、低く長い悲鳴。
「梁だ」
米倉の声。「縦穴に補助梁がかかっていく!」
「揺れ、止まる」
ツムギが低く告げる。「今、止まってる。……すごい。塔の息が、一個分減った感じ」
実際、階段の揺れは嘘みたいに消えていた。
足元の鉄が、さっきまでのように“嫌々”人を乗せる感じではなく、むしろ「どうぞ」と言ってくるみたいに安定している。
「よくやった」
誰かが、思わず言った。
誰が言ったのかはわからない。全員の喉に同じ言葉が詰まっていたのかもしれない。
黒板の「よくやった」は、そのタイミングで、粉がすっと乾いたように見えた。
塔が、満足げに頷いている気配。
「動け!」
ユイが叫ぶ。「一層分じゃない。二層分行く。速度は前に合わせる。レン、決めろ!」
「上がる!」
レンは最前列に出た。
手すりに指をかけ、足を踏み出す。揺れはない。
足場は固い。
一段、二段、三段。今までなら微妙にずれていた足裏の振動が、完全に消えている。
背後で足音が整う。北条は一瞬だけ鍵から手を離し、すぐ回す向きを固定した。鍵は回し切った位置で止まっている。解除すれば揺れが戻るだろう。戻さない限り、この状態が続く。どれくらい、続く。
「ツムギ、残り時間」
「わからない。でも、“このくらい”っていう感覚はある」
ツムギは耳を押さえたまま、レンの背中にぴったりついた。「三十秒? 四十? ……一分は、ない」
「だったら四十秒で二層だ」
ユイが後方でテンポを作る。「足を揃え続けろ。喜ぶな。感謝するな。あとでまとめて」
黒板の「喜びは質量」が背中を刺す。
レンは自分の胸の中で、歓喜をわざと潰すように呼吸を整えた。
一層分。
踊り場を駆け抜ける。黒板は目の端に映るだけ。何か書いてあるが読まない。今読むべきなのは、段差と風。
梁がかかったおかげで、縦穴側の空間に太い鉄骨が幾本も伸びているのが見えた。その上を細かい配線が走り、揺れるたびに悲鳴をあげていたはずの線たちが、今は静かだ。
「二層目、あと半分!」
牧野の息が荒い。「すげえ、揺れないってこんなに楽なのかよ」
「しゃべるな。足に回せ」
北条が背後からどなり、すぐ咳き込む。息がもうあまり長くない。重い体で支点と最後尾を兼ね続けるのは、限界が近いのは明らかだ。
「ツムギ!」
「……揺れ戻る前の音、聞こえた。あと十秒くらい」
「だったら、あと十段」
レンは最後の力を足に込めた。
塔の骨が、奥の方で目を覚ましつつある。補助梁の役目が終わりに近づく。鉄の悲鳴が遠くで鳴り始めている。
だが、足は止まらない。
膝が悲鳴を上げ、太腿が焼ける。喉が火を噴く。
それでも、階段は固い。
「踊り場!」
最後の一段を踏みしめ、レンは踊り場に飛び込んだ。
全員がなだれ込むように続く。ロープが張り、結び目が軋む。
その瞬間――
塔が、深く息を吐いた。
補助梁が、ゆっくりと引っ込んでいく音。
揺れが少しずつ戻る感触。
鍵穴の中で、何かがカチリと音を立てて元の位置へ戻る。
北条が柱から手を離し、鍵をそっと抜いた。
鍵は、ほんの少しだけ温かくなっていた。塔の中を流れていた何かの熱を、少しだけもらったみたいに。
「……間に合ったな」
牧野が膝に手をつき、肩で息をした。「二層分、一気に……」
「よくやったよ」
誰かがまた言いそうになった。
その前に、黒板が先に言っていた。
よくやった
さっきと同じ、四文字。
その下に、新しい行が増えている。
鍵を、よく使った
「褒めすぎだろ」
牧野が苦笑する。「なんか逆に怖いんだけど」
「褒められるたびに、誰かが落ちてる」
ユイが低く言った。「早乙女のときも。さっきの誓約のときも。今もたぶん、どこかで帳尻を合わせに来る」
喜びは質量。
レンは黒板の字を胸の内側に押し付けるように覚え直した。胸がふわっと軽くなりかけた感情を、自分で掴んで下へ引き戻す。
「でもな」
北条が、鍵を見つめたまま言った。「使わなきゃ、ここまで来れなかった。喜びが重いなら、その重さごと持って上に行くしかない」
彼は鍵を布に包み直し、レンのほうへ差し出しかけて――途中で止めた。
「やっぱ、これは俺が持つ」
「でも」
「前はおまえに任せた」
北条はゆっくりと踵を返し、踊り場の縁から階段側の最後尾へと歩いていく。足取りは重いが、迷いはない。
「支点は最後尾。落ちそうなやつの背中を支える。鍵は“最後に返す”って、おまえが言ったんだ。だったら、“最後尾”にあるのが一番しっくり来る」
レンは息を呑んだ。
鍵を預けたときの自分の台詞を、北条はきちんと覚えていた。
「……わかった。頼む」
「おう。任された」
北条は布に包んだ鍵を自分の腰ベルトの内側に差し込み、その上からロープを巻き付けた。簡単には落ちないように。簡単には奪われないように。
「米倉」
ユイが呼ぶ。「塔の学習について、もう一回整理して。ここから先で、何が変わる?」
「俺たちの選び方に合わせて、“落ちやすい場所”と“落ちにくい場所”を組み替えてくるだろう」
米倉は黒板と階段を交互に見ながら言った。「重なって歩けば、その重なりが崩れるポイントを用意する。誓約を結べば、その誓約を試す局面を作る。鍵を使えば、鍵の効果を前提にした罠を用意する。そういう意味で、この塔は人間を“理解しながら削ってる”」
「人の手で最適化されて、人は塔の手で削られていく」
ユイの言葉は淡々としているのに、どこか刺さる。「じゃあ、こっちも学習を続ける。鍵が一度効いた以上、塔は次に“鍵を奪う”方法を探すはず。北条、本当に最後尾でいい?」
「いい」
北条は即答した。「前の決断は前に任せる。鍵は俺が預かる。落ちるときは……」
そこで言葉を切り、笑った。
「落ちないようにする」
契約を更新したみたいな一言だった。
レンは胸の奥で、何かが少し軽くなるのを感じた。同時に、別の部分が重くなる。喜びは質量。軽くなった分だけ、どこかに重さが寄りかかる。
「ツムギ」
「うん」
「揺れは?」
「戻ってる。でも、さっきより少しだけ“読みやすい”。補助梁が一瞬、“塔の本当の骨組み”を見せてくれた感じ」
ツムギは耳を押さえたまま、目を閉じて首をかしげる。
「どこが弱くて、どこが強いか。なんとなく、前よりわかる。右上からの音が二重になってる場所は危ない。左下が反響してるところは、まだ大丈夫」
「じゃあ、その“なんとなく”に賭ける」
レンは前に立ち、階段を見上げた。
目の前の段差は、相変わらず灰色で冷たい。手すりは濡れて、指の跡が塩で白く残っている。
その先に、扉がある。
鍵穴の次に現れるのは、きっと扉だ。
塔の内側のどこかにある、最上階の扉。そこに鍵を差し込み、回す。そのとき、本当の意味で「最後に返す」ことになるのだろう。
「行こう」
レンは言った。「前は、任されたから」
北条が最後尾で「おう」と短く返す。
ユイは踊り場の黒板に一度だけ目をやり、「上がる」と告げた。
ツムギが耳に手を当て、小さな声で「右の三段目、音が薄い」と教える。
牧野が合図を復唱し、米倉が結び目を締め直す。
鍵は巡る。
役割も巡る。
塔はそれを見て、また学習する。
それでも、階段はまだ続く。
レンは一段目に足をかけ、息を整えた。
「上がる」
四語が、また骨の中を走った。




