表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/14

第9話 鍵と扉

 金属の匂いが変わった。


 相沢レンは、何段目かもう数えていない階段を踏みしめながら、足裏に伝わる感触の違いに気づいた。

 鉄と塩と錆。その奥に、古い油の匂いが混ざる。ずっと止まっていた機械が、ひさしぶりに動きたがっているみたいな匂いだ。


「匂い、変わったな」


 前方で北条カイが低く言った。大きな背中がわずかに緊張で膨らんでいる。


「機械の層に近づいてる」


 米倉シンが図面を片手で押さえ、もう片方の手で階段の側面をなぞった。指先に触れる溝の形状が、今までと違う。


「この辺りから、縦穴を横断する補助梁が増えるはず。図面の上じゃ、そうなってた」


「“上じゃ”って」


 牧野がかすかに笑いかけたが、すぐ唇を引き結んだ。冗談は封印。笑いは軽くても、言葉は重い。黒板にそう書かれていた。


「ツムギ」


 レンは横にいる小柄な少女に声をかける。ツムギは耳に添えていた手を少し離し、目を細めた。


「うん。……鉄の響きが深くなってる。縦穴の向こう側から、何か太いものが回ってる音がする。まだ遠いけど」


「“扉”か“鍵穴”だな」


 米倉が断言した。「さっきの鍵、覚えてるだろ。あれに合う場所が、もうすぐ出てくると思う」


 鍵。

 レンは太腿の内側を意識した。内ポケットに入れていたはずの古い鍵は、今は別の場所にある。早乙女レイから受け取った、塔のどこかのための鍵。

 鍵は最後に。黒板がそう言った。

 けれど、最後とはどこなのか。縦穴のどの位置なのか。上か、途中か。今の自分たちの位置は、その「最後」にどれくらい近いのか。何もわからない。


「踊り場」


 ツムギの声で我に返る。

 階段の先、少し広くなった踊り場が見えた。壁に黒い板。そこに、例の白い粉の文字。


 よくやった


 たった四文字が、身体の力をふっと抜いてくる。

 よくやった。

 褒め言葉。評価。

 この塔で、初めて真正面からの「肯定」を見た気がした。


「……おいおい」


 牧野が乾いた笑いを漏らす。「何様だよ、塔のくせに」


「褒められてる場合じゃない」


 ユイが短く切る。「喜びは質量。軽く見えるけど、足に乗ると重い」


 黒板の下のほうに、小さく同じ言葉が書き足されているのにレンは気づいた。


 喜びは質量


「褒められた瞬間に気を抜けば、揺れで持っていかれる。そういう構造なんだよ」


 米倉が自分に言い聞かせるように呟く。「“よくやった”は、塔にとっての“まだ続く”だ」


 レンは喉を鳴らし、踊り場の中央に視線を移した。

 そこにあったのは、床から少しせり上がった金属の柱。

 柱の側面に、古びた金具。真鍮色だったはずの表面は塩と錆で白っぽくくすんでいる。その中央に開いた穴は、見覚えのある形をしていた。

 鍵穴。

 自分の掌にあった鍵の輪郭と、ぴたりと重なる形。


「来たな」


 北条が低く言う。

 レンは無意識に手を太腿へ伸ばしかけて、途中で止めた。そこにはもう、鍵はない。


 鍵は、今、北条が持っている。


 早乙女レイから受け取った鍵は、第八話の終わりに近い場所で、レンから北条へと渡されていた。

 支点を自ら買って出て、隊列の最後尾に回ると決めたあのとき。


 ――前は任せた。

 ――じゃあ、これを持ってくれ。最後に返す、ってことで。


 短い会話が、汗と塩の匂いの中に埋もれている。


「北条」


 レンが呼ぶと、彼はうなずいて腰のポーチから布で包んだ物を取り出した。布をほどくと、中からあの鍵が現れる。

 小さなタグ付きの古びた鍵。

 刻印は塩でにじみ、数字は読み取れない。けれど、鍵の歯の形はしっかりしている。


「これ、いくか?」


「……一回限りの可能性が高い」


 米倉が慎重に言った。「前の設備室と同じなら、使えば一時的に揺れを止められる。でも、その代わりに何かを“返却”するかも」


「返却はもう見た」


 レンは早乙女レイの円を思い出す。「今回は“鍵”。鍵を返すのか、それとも……」


「返す相手は塔」


 ユイが冷静に言う。「でも、ここで使わずに上まで持って行って、鍵穴がなかったら、それこそ無駄死に。選べるチャンスがあるなら使う」


「どうやって」


 北条が鍵と穴を見比べる。「回した瞬間に揺れが変わるとして、その間に何をする?」


「補助梁を出すんだと思う」


 米倉が柱をなぞり、壁の方へ指を向ける。「縦穴を横断する梁の根元。この柱が起点。鍵を回すと、向こう側から梁がせり出して、足場と支点が増える。揺れが分散される。何分持つかはわからないけど」


「その間に、一層分……いや、二層分は上がれる」


 レンは喉の奥で計算した。「前と同じなら」


「前と同じじゃない可能性もある」


 ツムギがそっと言った。耳に添えた手が、わずかに震えている。


「塔、変わってる。揺れ方も、音の高さも。さっきから少しずつ違う。私たちの“選び方”を見て、それに合わせて……」


 米倉が眉をしかめた。「最適化してる、ってことか」


「うん。塔の方が、私たちの運用を“学習”してる。さっきの誓約とか、重なって歩くとか。そういうのを見て、“じゃあこうすれば落ちる”って変えてきてる感じ」


 学習。

 その言葉に、レンは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 自分たちも、塔の中で最適化を繰り返してきた。重さを削り、役割を切り替え、善意の配分すら調整して。

 同じように、塔もまた、彼らの「選び方」を観察し、最も効率よく一層ごとに一人を落とすためのパターンを更新している。


「この塔は“選び方”を学習している」


 米倉は自分の言葉を繰り返し、黒板を見た。「だから褒める。“よくやった”。それで俺たちの心を軽くして、足を重くする。喜びは質量。心理まで計算に入れてる」


「最低だな」


 牧野が吐き捨てる。「でも、わかりやすい。だったらこっちも、その“学習”を利用すればいい」


「どうする」


 北条が鍵を握ったままレンを見る。

 隊列の前には、もう北条はいない。

 今、前を任されているのはレンだ。


「鍵、回してくれ」


 レンは言った。「梁を出す。その間に、俺が前で進路を決める。北条は……」


「最後尾だろ」


 北条が言葉を継いだ。「決めたからな。支点は、最後尾に回る。前で倒れたら洒落にならん」


「でも」


「おまえ、前に出ろ」


 北条は鍵を握ったまま、少しだけ笑った。「ずっと真ん中でバランス取り続けてきたんだ。そろそろおまえが、最前列で決めていいだろ」


 レンは返す言葉を探し、見つからず、結局短く頷いた。


「……わかった。前は任せろ」


「よし」


 北条は柱の前に立ち、鍵を金具に差し込んだ。

 金属同士がすれる音。鍵穴はぴったり噛み合う。

 冷たい感触が鍵から彼の手首に伝わる。塔の骨が、彼の握力を試しているみたいだ。


「回すぞ」


「待って」


 ユイが一歩前に出た。

 踊り場にいる全員の位置を見渡し、短く指示を飛ばす。


「隊列を一時解除。全員、柱から一段下がる。落ちても踏ん張れる位置。ロープは張ったまま。合図は私じゃなくツムギが取る。補助梁の音を聞き分けられるの、彼女だけだから」


「了解」


「了解」


 幾つもの声が重なる。

 レンはツムギの肩に手を置き、彼女が耳に集中できるよう、背中を壁につけさせた。牧野と米倉は左右の手すりを押さえ、北条の背後にはユイが立つ。


「ツムギ、合図」


「うん」


 ツムギは深く息を吸い、ゆっくり吐いた。「回して」


 北条が鍵をゆっくり時計回りに回す。

 最初は重く、固く。だが少し力を込めると、抵抗がスッと抜けた。塔の奥で何かが動き出す。かつての設備室と似た感触。だが今回は、もっと大きい。


 縦穴の向こうから、轟音が響いた。

 何か太いものが軋みながらスライドする音。鉄と鉄が擦れ合う、低く長い悲鳴。


「梁だ」


 米倉の声。「縦穴に補助梁がかかっていく!」


「揺れ、止まる」


 ツムギが低く告げる。「今、止まってる。……すごい。塔の息が、一個分減った感じ」


 実際、階段の揺れは嘘みたいに消えていた。

 足元の鉄が、さっきまでのように“嫌々”人を乗せる感じではなく、むしろ「どうぞ」と言ってくるみたいに安定している。


「よくやった」


 誰かが、思わず言った。

 誰が言ったのかはわからない。全員の喉に同じ言葉が詰まっていたのかもしれない。


 黒板の「よくやった」は、そのタイミングで、粉がすっと乾いたように見えた。

 塔が、満足げに頷いている気配。


「動け!」


 ユイが叫ぶ。「一層分じゃない。二層分行く。速度は前に合わせる。レン、決めろ!」


「上がる!」


 レンは最前列に出た。

 手すりに指をかけ、足を踏み出す。揺れはない。

 足場は固い。

 一段、二段、三段。今までなら微妙にずれていた足裏の振動が、完全に消えている。

 背後で足音が整う。北条は一瞬だけ鍵から手を離し、すぐ回す向きを固定した。鍵は回し切った位置で止まっている。解除すれば揺れが戻るだろう。戻さない限り、この状態が続く。どれくらい、続く。


「ツムギ、残り時間」


「わからない。でも、“このくらい”っていう感覚はある」


 ツムギは耳を押さえたまま、レンの背中にぴったりついた。「三十秒? 四十? ……一分は、ない」


「だったら四十秒で二層だ」


 ユイが後方でテンポを作る。「足を揃え続けろ。喜ぶな。感謝するな。あとでまとめて」


 黒板の「喜びは質量」が背中を刺す。

 レンは自分の胸の中で、歓喜をわざと潰すように呼吸を整えた。


 一層分。

 踊り場を駆け抜ける。黒板は目の端に映るだけ。何か書いてあるが読まない。今読むべきなのは、段差と風。

 梁がかかったおかげで、縦穴側の空間に太い鉄骨が幾本も伸びているのが見えた。その上を細かい配線が走り、揺れるたびに悲鳴をあげていたはずの線たちが、今は静かだ。


「二層目、あと半分!」


 牧野の息が荒い。「すげえ、揺れないってこんなに楽なのかよ」


「しゃべるな。足に回せ」


 北条が背後からどなり、すぐ咳き込む。息がもうあまり長くない。重い体で支点と最後尾を兼ね続けるのは、限界が近いのは明らかだ。


「ツムギ!」


「……揺れ戻る前の音、聞こえた。あと十秒くらい」


「だったら、あと十段」


 レンは最後の力を足に込めた。

 塔の骨が、奥の方で目を覚ましつつある。補助梁の役目が終わりに近づく。鉄の悲鳴が遠くで鳴り始めている。

 だが、足は止まらない。

 膝が悲鳴を上げ、太腿が焼ける。喉が火を噴く。

 それでも、階段は固い。


「踊り場!」


 最後の一段を踏みしめ、レンは踊り場に飛び込んだ。

 全員がなだれ込むように続く。ロープが張り、結び目が軋む。

 その瞬間――


 塔が、深く息を吐いた。


 補助梁が、ゆっくりと引っ込んでいく音。

 揺れが少しずつ戻る感触。

 鍵穴の中で、何かがカチリと音を立てて元の位置へ戻る。


 北条が柱から手を離し、鍵をそっと抜いた。

 鍵は、ほんの少しだけ温かくなっていた。塔の中を流れていた何かの熱を、少しだけもらったみたいに。


「……間に合ったな」


 牧野が膝に手をつき、肩で息をした。「二層分、一気に……」


「よくやったよ」


 誰かがまた言いそうになった。

 その前に、黒板が先に言っていた。


 よくやった


 さっきと同じ、四文字。

 その下に、新しい行が増えている。


 鍵を、よく使った


「褒めすぎだろ」


 牧野が苦笑する。「なんか逆に怖いんだけど」


「褒められるたびに、誰かが落ちてる」


 ユイが低く言った。「早乙女のときも。さっきの誓約のときも。今もたぶん、どこかで帳尻を合わせに来る」


 喜びは質量。

 レンは黒板の字を胸の内側に押し付けるように覚え直した。胸がふわっと軽くなりかけた感情を、自分で掴んで下へ引き戻す。


「でもな」


 北条が、鍵を見つめたまま言った。「使わなきゃ、ここまで来れなかった。喜びが重いなら、その重さごと持って上に行くしかない」


 彼は鍵を布に包み直し、レンのほうへ差し出しかけて――途中で止めた。


「やっぱ、これは俺が持つ」


「でも」


「前はおまえに任せた」


 北条はゆっくりと踵を返し、踊り場の縁から階段側の最後尾へと歩いていく。足取りは重いが、迷いはない。


「支点は最後尾。落ちそうなやつの背中を支える。鍵は“最後に返す”って、おまえが言ったんだ。だったら、“最後尾”にあるのが一番しっくり来る」


 レンは息を呑んだ。

 鍵を預けたときの自分の台詞を、北条はきちんと覚えていた。


「……わかった。頼む」


「おう。任された」


 北条は布に包んだ鍵を自分の腰ベルトの内側に差し込み、その上からロープを巻き付けた。簡単には落ちないように。簡単には奪われないように。


「米倉」


 ユイが呼ぶ。「塔の学習について、もう一回整理して。ここから先で、何が変わる?」


「俺たちの選び方に合わせて、“落ちやすい場所”と“落ちにくい場所”を組み替えてくるだろう」


 米倉は黒板と階段を交互に見ながら言った。「重なって歩けば、その重なりが崩れるポイントを用意する。誓約を結べば、その誓約を試す局面を作る。鍵を使えば、鍵の効果を前提にした罠を用意する。そういう意味で、この塔は人間を“理解しながら削ってる”」


「人の手で最適化されて、人は塔の手で削られていく」


 ユイの言葉は淡々としているのに、どこか刺さる。「じゃあ、こっちも学習を続ける。鍵が一度効いた以上、塔は次に“鍵を奪う”方法を探すはず。北条、本当に最後尾でいい?」


「いい」


 北条は即答した。「前の決断は前に任せる。鍵は俺が預かる。落ちるときは……」


 そこで言葉を切り、笑った。


「落ちないようにする」


 契約を更新したみたいな一言だった。

 レンは胸の奥で、何かが少し軽くなるのを感じた。同時に、別の部分が重くなる。喜びは質量。軽くなった分だけ、どこかに重さが寄りかかる。


「ツムギ」


「うん」


「揺れは?」


「戻ってる。でも、さっきより少しだけ“読みやすい”。補助梁が一瞬、“塔の本当の骨組み”を見せてくれた感じ」


 ツムギは耳を押さえたまま、目を閉じて首をかしげる。


「どこが弱くて、どこが強いか。なんとなく、前よりわかる。右上からの音が二重になってる場所は危ない。左下が反響してるところは、まだ大丈夫」


「じゃあ、その“なんとなく”に賭ける」


 レンは前に立ち、階段を見上げた。

 目の前の段差は、相変わらず灰色で冷たい。手すりは濡れて、指の跡が塩で白く残っている。

 その先に、扉がある。

 鍵穴の次に現れるのは、きっと扉だ。

 塔の内側のどこかにある、最上階の扉。そこに鍵を差し込み、回す。そのとき、本当の意味で「最後に返す」ことになるのだろう。


「行こう」


 レンは言った。「前は、任されたから」


 北条が最後尾で「おう」と短く返す。

 ユイは踊り場の黒板に一度だけ目をやり、「上がる」と告げた。

 ツムギが耳に手を当て、小さな声で「右の三段目、音が薄い」と教える。

 牧野が合図を復唱し、米倉が結び目を締め直す。


 鍵は巡る。

 役割も巡る。

 塔はそれを見て、また学習する。

 それでも、階段はまだ続く。


 レンは一段目に足をかけ、息を整えた。


「上がる」


 四語が、また骨の中を走った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ