表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/14

第8話 誓約

 その黒板は、これまでのどれよりも低い位置にあった。

 相沢レンが踊り場に足を乗せた瞬間、視界の下端に白い線が飛び込んでくる。濡れた粉は太く、そして妙にきれいな字だった。


 契約を結べ


「誰と、何をだよ」


 牧野が思わず声を漏らした。冗談を封印してから、彼の声はいつもより少し低い。笑いの代わりに、怒りが喉に引っかかっている。


「ここまで来ると、要求が抽象的になってきてるな」


 米倉シンが図面を濡らさないよう胸に抱え直しながら、黒板に目を細めた。

 契約。ここまで散々規則を突きつけておいて、今度は契約。命令と約束の境目を曖昧にしてくるあたり、塔の性格が悪い。


「契約って言うなら、相手がいる」


 砂原ユイがあっさり言った。「一方的な従属じゃない。少なくとも表向きは」


「誰と?」


「ここにいる誰かと」


 ユイは黒板を背にして、短く列を見渡した。

 残っている人数は、もう片手で数えられるほどではないが、最初の十三から見れば痛々しいほど減っている。名前を口にしない運用は続いているが、顔と呼吸の組み合わせで、誰が誰かは全員の身体が覚えていた。


「二人一組」


 ユイの声は淡々としている。「相互誓約。二人で契約を結ぶ。内容は一つだけ。片方が落ちそうになったとき、もう片方が選ぶ。手を離すか、一緒に落ちるか」


 踊り場の空気が一瞬、凍った。

 北条カイが眉間にしわを寄せる。「ふざけてるのか」


「ふざけてない。契約っていうのは、選択と同意の組。ここでは選び続けないと生き残れない。どうせ選ぶなら、先に決める。『その時』が来たとき、迷いを削る」


「迷いを削るって、そんな……」


 最後尾の少女がかすかに震えた声を出す。手首に巻かれたロープが細い腕に食い込んでいる。

 ユイは彼女を見ない。列全体を見る。


「これは残酷じゃない。残酷なのは、選ぶときに決めてないこと。決めてないと、どっちに転んでも後悔する。先に決めておけば、少なくとも“契約違反”にはならない」


「契約違反にならなければ、気が楽ってわけか」


 牧野が乾いた笑いを一瞬だけ浮かべる。「性格悪いな、あんた」


「そうでも思わないと、心がもたない」


 ユイは、それきり表情を変えなかった。


 レンは黒板の文字を見たあと、自分の掌を見た。早乙女レイから託された古い鍵は、ズボンの内側の小さなポケットで太腿に冷たさを押し付けている。

 鍵は最後に。

 契約は、今。


「ペア、どうする」


 北条が問いかける。

 ユイは短く息を吸い、迷わず決めていく。


「支点の北条は、牧野。体格差と役割がちょうどいい。音を見るツムギは、レン。情報と判断をセットにする。図面の米倉は、最後尾の彼女。荷と視線を分ける。私は余り。全体の誓約と合図を見届ける」


「なんでおれが支点の相手で、契約相手まで背負わされるんだよ」


 牧野が言ったが、声に本気の怒りはなかった。疲れと皮肉が混ざっている。北条は大きな肩をひとつ回し、背筋を伸ばした。


「いい。どうせおれは支点だしな。落ちる時は早いと思う」


「そのとき、どうするか決めて」


 ユイが問う。「落ちそうになったら、どっちを選ぶ」


 北条は少しだけ考え、牧野の肩を横目で見てから、答えた。


「手を離す。支点は最後まで上に残らないと意味がない」


「了解。牧野は?」


「……勝手に落ちてく」


 牧野は眉をしかめ、しかし口元にだけ薄い笑みを乗せた。「支点の邪魔はしない。約束」


 ユイは小さくうなずく。「これで一組、契約成立」


 ふざけた儀式にも、形式は必要だ。形式があることで、後で「あの時こう決めた」という言い訳ができる。言い訳は時に、心の骨をつなぐ。

 レンは自分の番が来るのを待っていた。目线を感じる。横を見ると、ツムギが少しだけ首をかしげてこちらを見上げていた。


「相沢くん」


 名前を小さく呼ばれて、レンは一瞬胸がきゅっと縮んだ。名を呼ばない運用の中で、たまに出る名前は鋭い。


「うん」


「私で、いい?」


 ツムギは耳に添えていた手を下ろし、両手を前に出した。指は細く、爪の先に塩の白い粉が少しついている。


「ツムギが嫌じゃなければ」


「嫌じゃないよ」


 ツムギは、少し笑った。塔の中の笑いは、声を伴わない。唇の角と目尻の筋肉だけで表現される。


「私さ、耳がもう、ちゃんと働いてないのわかるでしょ」


「……いや、助けられてる」


「ううん。さっきから耳鳴りがひどい。風と鉄と、みんなの足音が混ざって、どれが『合図』なのかたまにわからなくなる時がある」


 ツムギはそう言って、自分の胸のあたりを軽くこぶしでこつこつ叩いた。


「だからね。もし、私が落ちる時が来たら」


 レンは喉の奥が固くなるのを感じた。


「落ちるなら、静かな方がいいな、って思うの」


 ツムギはわざと明るい声で言った。「耳元でいろいろ言われながら落ちると、たぶんごちゃごちゃしちゃうから。だから、契約。相沢くんは、手を離す。何も言わないで。合図もしないで。ただ、離して」


「それで、いいのか」


「うん。それで、いい」


 その笑顔は、早乙女レイの笑顔と少し似ていた。自分の役割を見つけて、その終わり方も一緒に決めてしまう人の笑いだ。

 レンは唇を噛み、短く息を吐いた。


「じゃあ、逆に俺が落ちそうになったら」


「相沢くんが?」


「その時は……」


 喉に何かが引っかかる。鍵の重さが太腿の内側からせり上がってくる。

 上で、名前を全部、呼ぶ。

 その約束をしたのは、自分だ。


「ツムギも、手を離せ」


 レンは言った。「俺が残るから。鍵も、合図も、誰かが上まで持っていかなきゃいけない。ツムギの耳は、まだ上で役に立つ」


「ふふ」


 ツムギは、くすっと笑った。


「お互い落ちるの禁止契約だね。じゃあ、なるべくそうならないように頑張ろ」


 ユイが、そのやりとりを黙って聞いていた。短く頷く。


「契約成立。内容の確認。ツムギが落ちる時はレンは手を離す。レンが落ちる時もツムギは手を離す。二人とも、上を優先する」


「了解」


 二人の声が重なる。

 黒板の「契約を結べ」の文字が、少しだけ薄く見えた気がした。


 米倉と最後尾の少女の組も、短い言葉で契約を交わした。

 彼女は家に帰ったら借りっぱなしを返すと言っていた。その約束を守るために、彼女は自分が落ちそうになったら手を離すと決めた。米倉は、その時は巻き込まれて落ちると宣言した。図面を持つ手を離してまで一緒に落ちると言い切るのは、彼にしては珍しい感情表現だ。だがユイは何も言わなかった。契約は、本人が決めるものだ。


 全員分の誓約が終わった。

 塔はそれを聞いていたのか、いなかったのか。風が一度、鳴り方を変える。骨の中を通る音が、一オクターブ低くなったように感じられた。


「上がる」


 レンが合図を走らせる。

 契約のあとの階段は、さっきまでより少しだけ静かだった。誰も余計なことを言わない。言う必要がなくなったのだ。もしもの時に何を選ぶかを、もう決めてしまったから。

 残酷な同意が、逆に心を保つ。


 重なって歩く運用は続いている。二人一組で肩を寄せ、足を揃える。手首はまだロープで結ばれている。その結び目が、誓約書の署名みたいな役割を果たしていた。


「中央」


 ツムギの小さな声に、列が少しだけ形を変える。耳鳴りはひどいはずなのに、彼女の感覚はまだ生きている。レンは彼女の足元をちらりと見て、その一歩一歩がしっかり段を捉えているのを確認した。


 数段上がったところで、塔がふいにわずかな揺れを見せた。

 ほんの一瞬、床板が呼吸を忘れる。金属が軋む音。嫌な前兆。


「止まる」


 ユイの合図と、揺れがほぼ同時だった。

 だが、塔は待たなかった。


 踊り場への途中、段と段の間に小さな踊り場のようなスペースがある。そこに差し掛かった瞬間、左側の支柱が湿った音を立てて折れた。

 足場が、斜めに沈む。


「掴む!」


 レンが叫び、ツムギの手首を強く握りしめた。ロープの結び目がきしんで痛む。北条と牧野の組が前方で大きく揺れ、米倉と少女の組が後ろでバランスを崩す。

 左へ、塔全体が傾く。海側だ。もし落ちれば、縦穴ではなく、そのまま外の黒い水面まで滑り落ちるかもしれない。


「右へ寄れ!」


 北条が吠え、肩で支点を作る。牧野の身体がその肩にぶつかって支え合う。

 だが、問題はそこではなかった。


 崩れた足場の一番端に、一組のペアがいた。

 米倉と、最後尾の少女。


 彼女の足が、斜めに滑る。

 床板の端にかかっていたつま先が空を掴み、体がひねられる。手首のロープがきつく引かれ、米倉の身体も一緒に引き込まれる。


「くそっ!」


 米倉が叫び、手すりを掴もうとした。だが、濡れた鉄は指を拒む。指先が滑り、手首の結びがさらに締まる。


「離して!」


 彼女の声が、初めて尖った。

 小さかった声が、塔の中でよく響いた。


「離して、って言ってる!」


「契約は――」


「守って!」


 その瞬間、レンは理解した。

 さっき、黒板の前で交わされた二人の誓約を。彼女は自分が落ちる時に、相手に手を離させると決めた。米倉は巻き込まれて落ちると言った。だが、今この瞬間、彼女はそれを望んでいない。


 誓約と、今の本音がぶつかる。


「米倉!」


 レンが叫びかけたその時、ユイの声が割って入った。


「選べ!」


 迷っている時間はない。迷えば両方落ちる。

 米倉の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。少女の目と交わる。次の瞬間、視線が外れる。

 手首から伝わる重さ。塔が待っている。

 米倉は、歯を食いしばり、ロープの結び目を自分の方へ引き寄せると、一気にナイフで切った。


 布が裂ける音。

 重さが消える感覚。

 少女の身体が、斜めに滑り落ちていく。腕が空を掻き、足が宙を蹴る。声は出なかった。代わりに、彼女の手から何かがふわりと飛び出す。小さな布の袋。借り物を失ったあとの空っぽい手に残っていた、最後の何か。


 布の袋は階段に当たり、跳ね、レンたちの足もとの方へ転がってきた。

 レンは反射でそれを拾い上げる。中身は軽い。乾いた、小さな音がした。


 彼女の影が、塔の外側の闇に溶けていく。

 縦穴の底か、海面か。もう見えない。


 塔の鳴りが、静かになった。


 踊り場の壁の黒板に、新しい文字が浮かんでいる。


 誓約、履行


 塔は満足げに、静かだ。

 風のうねりが弱まり、雨音が遠のく。骨の軋みも一拍、遅くなる。


 レンの喉の奥に、胃の中身が逆流してきた。

 さっきの叫び、切れるロープの手応え、落ちていく影。すべてが吐き気を連れてくる。胸の内側を焼く味が、口の中にじわりと広がる。


「相沢くん」


 腕を引かれる。ツムギだ。細い指が、レンの袖をきゅっとつまんでいる。


「足、止まってる」


「……ああ」


 自分でも気づかないうちに、レンは踊り場の中央で立ち尽くしていた。

 塔の規則は、まだ終わっていない。一層ごとに、一人。今の“履行”でしばらくは大人しくしているとしても、階段はまだ続く。


 ツムギは耳に手を当て、目を閉じた。

 短い沈黙のあと、小さな声で言う。


「聞こえる。次のは、右側が弱い。三段先の、角」


 耳鳴りで混ざり合う音の中から、それでも彼女は必要な情報だけを抜き出す。契約を交わした時と同じように、声は静かで、薄く笑っていた。


「だから、相沢くん。まだ、役に立てるよ」


 役に立つことが、まだここに彼らを繋いでいる。

 誰かの誓約が履行され、その代償として塔が静かになったその瞬間でさえ、次の段のことを考えないといけない。

 レンは喉の奥のものを、ごくりと飲み下した。胃が焼ける。けれど、足の裏にはまだ力が入る。


「……そうだな」


 短く答える。ツムギの手首のロープを握り直し、自分の太腿の内側の鍵の位置を確かめる。

 黒板の「誓約、履行」の文字が背中へ消える。

 前方には、新しい踊り場。

 階段は、まだある。


「上がる」


 レンが言い、ユイが続ける。「止まる」「見る」「掴む」

 四語が再び、列の背骨を走る。

 塔はしばらくのあいだ、おとなしい。満腹した猛獣みたいに、深い呼吸をしているだけだ。それでも、その喉元の上を渡っていくしかない。


 ツムギの小さな声が、耳鳴りの向こうから届き続ける。


「右、弱い。二段先。……いまは大丈夫」


 その合図がある限り、レンは足を前に出せる。

 誓約は、塔を喜ばせた。

 同時に、彼らの心をギリギリのところで保っていた。


 契約を結べ。

 誓約、履行。


 その二行が、濡れた背中に貼りついたまま、全員はまた、上を目指した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ