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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


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第7話 裏切りと最適化

 塔の骨は相変わらず鳴っていた。

 低い音が金属の中を巡り、階段の裏側を擦る。風はときどき海の塩を噛み、雨は薄くなってはまた濃くなる。規則は戻っている。一層ごとに、一人。けれど、ここから先はただ従うだけでは負ける。

 砂原ユイは隊列を一度ほどき、目だけで全員を並べ替えた。

 前は北条カイ、続いて相沢レン、そのすぐ後ろにツムギ。中段に米倉シン、最後尾付近に牧野と、泣きはらした目の少女。ユイは最後尾で全体を締める。彼女の声は平坦で、切れ目がない。

「最適化する。体力、役割、荷の重さ、到達の確率。基準はそれだけ。情緒はここで切る」

 北条が眉をひそめた。「情緒切ったら、人じゃない」

「ここは人じゃない場所」

 ユイは即答し、濡れたロープを北条の腰ベルトに回す。

 不要な道具を捨てる時間は短い。金属の鳴る音、布の落ちる音、無駄のない音だけが階段に散る。工具の一部、予備のボトル、濡れて使えないライター。手放すたびに軽くなるが、軽くなるほど罪悪感は形を持つ。落ちていく音が、誰かの名前に聞こえる。

 黒板は踊り場の陰にあった。白い粉は湿気で太り、線は太く短い。

 善意は短期的

 レンはその一行を胸の内側に落とし、わざと視線を外に向けた。北条が小さく舌打ちする。「いいことしたやつから死ぬってことか」

「『今は』の話」

 ユイは静かに補う。「善意を禁止しない。配分を変える。短期で切り落として、長期で返す。運用で救う」

 その言い方は冷酷に聞こえる。けれど冷酷は、いまの階段では刃こぼれしない。北条は反発を飲み込み、代わりに荷を二つ背負い直した。窓枠で脚を打ってから、彼の足取りは目に見えて鈍っている。支点には向いているが、荷重を増やしすぎれば沈む。ユイはそれを見越して、ロープの長さを彼の歩幅に合わせて切り詰めた。

「重いなら、捨てろ」

「持つ」

 北条の喉が鳴る。「支点やるって言ったろ」

「支点は支点であって、荷車じゃない」

 ユイの声は冷たい。けれど、その言葉の形はぴたりと北条の骨の形に合った。北条は無言で肩を震わせ、腰袋から予備の金具を二つ外して床へ落とした。金属音が短く跳ね、縦穴へ消える。

「上がる。止まる。見る。掴む」

 レンが合図を走らせる。四語は相変わらず短く、隊列の背骨をまっすぐ通る。

 ツムギが耳に手を添え、首をわずかに傾けた。目は細い。聴覚を研ぎ、塔の息に紛れる違音を拾う。

「次、左の端。三段先。板の裏、空洞。音が軽い」

 ユイは即座に指示を差し替える。「左端回避。中央寄せ。北条、支点は段の継ぎ目。レン、ひと呼吸短く。全員、膝を緩める」

 隊列が粘土のように形を変え、段の継ぎ目に乗る角度を揃える。危うい段を越えるたびに、命の差がはっきりする。救えた命と救えなかった命の差。ツムギの耳が拾った一拍、ユイの声が切った半歩。そこを過ぎたあと、誰も何も言わない。言えば緩む。緩めば塔が選ぶ。

 次の踊り場までの間で、風が一度唸りを増した。

 それは海からのものではない。塔の内側、縦配線の束を風が叩いた音だ。米倉が足を止めそうになり、すぐに「止まる」をユイが許可する。彼はひざまずき、配線の被膜に爪を当ててさっと撫でる。そこに、乱れがあった。

「切り込みが新しい。ここで誰かが配線をいじった。被膜のささくれが乾いてない。潮じゃない。刃物。揺れを意図的に増幅させてる可能性」

「誰が」

 北条が短く問う。ユイは答えない。

 レンは一瞬、胸の中の鍵を思い出した。掌の記憶はまだ冷たい。鍵は最後に。塔の規則と人の手の規則が重なる場所は、きっと一番危ない。

「犯人探し、ここでやる?」

 牧野が息を詰めながら言う。目は笑わない。ユイの視線が彼を通り過ぎ、レンに触れた。レンは合図の代わりに決める言葉を落とす。

「特定しない。もうやらせない体制にする」

 ユイが短く頷く。「具体」

「重なって歩く。二人ずつ肩を寄せ、同じ足で段に乗る。手首を結ぶ。手すり側の人は外側の手首、内側の人は内側の手首。立ち止まり禁止。止まるときは私かユイの合図だけ。誰かの意思で列を止められないようにする」

「窒息するぞ」

 北条が吐き捨てる。レンは首を振る。「窒息する前に上がる」

「倫理は」

「上で話す」

 短く、切る。ユイはロープを三本増やし、結び目を角に合わせて移動させる。ツムギは自分の手首をレンに差し出し、レンは彼女の細い手を布で保護してから結んだ。牧野は反対側の手首を米倉とつなぎ、肩が触れ合う距離に収まる。最後尾の少女はユイと重なるように曲線を作った。背中と胸板、骨と骨で、一つの塊になる。

「重なる幅は二十センチ。足を揃える。右、左。合図は私が取る」

 ユイの声は冷静だ。犯人は誰でもいい。誰かに固有の悪意があるかどうかではなく、悪意が実行できる余地を消す。

 黒板は踊り場の奥にあり、湿った粉で太く書かれていた。

 犯人探しは、長期的

 善意は短期的、と対になる言葉。レンは唇の内側を噛み、思考を浅くする。深く潜れば足が止まる。止まれば、塔が選ぶ。

「上がる」

 重なって歩くのは、思った以上に難しい。二人の呼吸、三人の膝、四人の足裏が一つのリズムに収まるまで、階段は容赦なく角度を上げる。肩の骨が当たり、肋骨の間に湿った熱が溜まる。けれど、重なった足が同時に段を踏むと、塔の鳴りが一瞬だけ弱くなる。支点が増える。揺れが分散される。

 手首の結びは、心理の迷いを減らす。引き返す自由も、突き飛ばす自由も、もうほとんどない。自由を削って、余地をなくす。余地がなくなれば、計算は単純になる。単純な計算は、塔の好みだ。

「中央」

 ツムギの囁きに合わせ、重なった足がそろって中央を踏み、継ぎ目に体重を落とす。北条の肩が支点になり、レンの腰が舵の役をする。米倉は結び目に指を回し、摩擦熱が上がりすぎないよう布をずらす。牧野は呼吸を固め、少女は合図を小さく復唱する。ユイは後方で、列全体のテンポを削っていく。速すぎず、遅すぎず。最適値へ。冷酷は、速度の単位で測れるのかもしれない。

 そのときだった。

 列の後方で、わずかな、しかし確かな違和感。

 足音が半拍だけ遅れ、手すりの金属が意図的に鳴らされた音。引っかくような、嫌な高音。揺れが増幅する角度で、誰かが手すりを叩いた。

「やめろ」

 北条の低い唸りが反射で漏れる。ユイの声は即座にそれをかき消す。

「止まらない。重なる。足、同時」

 犯人を見ようとする視線がいくつも生まれたが、レンは首を横に振った。見るな。見ると、名が生まれる。名が生まれると、手が緩む。緩めば、塔が選ぶ。

「外側の手、力を抜く。内側の手、締める。踏む」

 ユイの指示に従って、列はしなる。目的のない揺れに対して、意味ある重さを上書きする。揺らす手がもう一度、鉄を叩いた。今度は、何も起きない。重なった足が揺れを噛み、支点が増やした摩擦が塔の癇癪を丸める。

 犯人の位置は、わかる。けれど、特定しない。名前は上で。ここは、運用だけ。

 数段進んだところで、ツムギが耳から手を離した。小さく首を振る。

「音、増えた。次、右の端。二段先。揺らされたせいじゃない。元の構造」

 ユイが即答する。「右端回避。内側へ三歩。北条、支点を半段下げる。レン、速度維持。米倉、結び位置、前へ二センチ」

 列が滑るように形を変える。ぎりぎりで右端の薄皮が剥がれ、段の角が舌のようにめくれた。そこに足があったら、もう落ちている。あったはずの命が、その瞬間、ただの可能性に戻る。

「助けた」

 牧野が息を吐いた。「たぶん」

「『たぶん』を積み上げる」

 ユイが短く返す。「助からない『たぶん』もある。そこで切る」

 最適化は倫理を削る。

 削った切り口はきれいだが、冷たい。

 レンはそれを承知で、ユイの横顔を一瞬だけ見た。彼女は優しくない。だが、優しくないことを自覚している。それでも合図は正確で、その正確さはここでは誰かの心拍を救う。

 次の踊り場。黒板の粉は、いつもより乾いていた。風がここを舐め、雨が届きにくい場所なのだろう。

 最適化は、暫定的

 固定化は、致命的

「つまり、形を変え続けろってこと」

 米倉が短く言い、図面を胸の奥に押した。「さっきの配線、上でも続くと思う。人の手がある。塔の規則に、人間の規則を重ねてくるやつがいる」

「二層前からの振動のパターンに、人のリズムが混じってた」

 ツムギがか細い声でつぶやく。「叩くの、好きな人のテンポ。踊るみたいに」

「やめさせる」

 レンは言い、具体をまた積む。「重なって歩くの、維持。合図の権限をユイに集中。誰も勝手に『止まる』を言わない。手すりは握るだけ。叩かない。外側の指、開く。重さは内側へ」

「犯人を特定しないまま、上まで?」

 北条が低く問う。レンは頷く。「上で鍵を使う。扉を開ける。そこで呼ぶ」

 鍵、という語を口に出しそうになって、寸前で飲み込む。

 鍵は最後に。

 四語を忘れるな。上がる、止まる、見る、掴む。

「うしろ」

 そのとき、ツムギの声が裏返った。耳から手を外し、目で階段の陰を指す。「いま、足が」

 列のうしろで、誰かの踵がほんの数センチ、外に出た。足裏が濡れた鋼に滑り、体が外へ撚れる。ユイの声が鋭く切り込む。

「重なる!」

 重なった体が一斉に内側へ吸い寄せられ、手首の結びが白く締まる。北条が半歩下がって支点を増やし、レンが腰で重心を止める。米倉が結び目を滑らせ、摩擦を逃がす。牧野が短く吐息を吐き、少女が「了解」を落とす。

 足は戻った。

 塔が、選び損ねた。

 犯人の指は止まっている。

 叩く音は消えた。

 列が奪った自由は、犯人の自由でもある。自由を奪われたものは、もう規則では動けない。動くなら、名前が必要。名前は上で。

 ユイが短く告げる。「進む」

 角度はさらに増す。段差は高く、手すりは低く、空気は薄い。海の音は遠いが、下からの水の匂いが強くなる。塔全体の余白が、また一段削れた。

 北条の呼吸は荒い。荷を減らしたはずなのに、肩が沈む。支点は重い。支点は孤独だ。レンは重さを半歩、前で受け、ユイが後ろで速度を調整する。ツムギの耳はまだ役に立つ。米倉の指はまだ結び目を覚えている。牧野の目はまだ笑わない。少女の足はまだ揃う。列はまだ、塊だ。

 踊り場の角で、黒板がもう一枚あった。そこには小さく、でも読める字でこうあった。

 人は最適化されない

 隊は最適化される

 レンはその二行を読み、短く頷く。ユイは何も言わない。北条は肩で息をしながら、笑いかけてやめた。

 人は最適化されない。されないから、痛む。されないから、裏切る。されないから、助ける。

 隊は最適化される。されるから、進む。されるから、切る。されるから、残る。

「上がる」

 合図がまた流れる。

 重なった足が段を噛む。肩が擦れ、肋骨が押し合い、手首の結びが脈を数える。塔は唸り、風は吠え、雨はときどき窓のない枠を叩く。

 まだ続く。

 階段は、まだ上へ伸びている。

 最適化は暫定的。固定化は致命的。

 レンはそれを心の内側に書き写し、鍵の位置を指先で確かめ、四語で次の段へと隊列を押し出した。

 上がる。止まる。見る。掴む。

 倫理は後で。名前は上で。

 今は、落ちない形に変わり続けること。

 隊列は一つの生きもののように、冷酷に、そしてどこかでぎりぎり優しく、塔の骨の間を縫い上がっていった。

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