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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


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第6話 告白の重さ

 風の鳴り方が変わっていた。

 塔の骨が一度深く息を吐き、それから短く詰まらせ、また吐く。規則は戻っている。階段は固いが、乗せるだけの固さだ。長く居れば、固さの内側に小さなひびが並んでいるのがわかる。


 相沢レンは濡れた名簿を胸ポケットのいちばん奥に押し込んだ。角が柔らかくなり、紙は布のように身体に馴染む。早乙女レイの名に描いた小さな円は、指の温度でにじみ、輪郭を太らせている。


 踊り場の黒板に新しい文字が増えていた。粉は湿って重く、線は太い。


 言葉は質量


 その一行が、塔の空気の密度を一段上げたみたいに感じられた。誰もが喉に溜めているものが、いっせいに重さを持ち始める。

 砂原ユイが黒板から目を離し、列の顔を順に見てから、短く言った。


「一文だけ」


 北条カイが眉を上げる。「何が」


「“言っておかないと”は、一文だけにする。上がる前に、一人一言。内容は自由。でも一文で切る。二文目は、上で。続きは、上に着いたときに言う」


 無茶だ、と誰かが小さく吐いた。だがユイはその方向を見ない。柔らかくも固い声で続ける。


「ここでは言葉が重い。重いと、足が鈍る。鈍れば、塔が選ぶ。一言だけなら、重さは許容範囲に入る。運用だよ。呪いじゃない」


 米倉シンが薄く笑って、すぐ真顔に戻した。「合図はそのまま?」


「合図は別枠。『上がる』『止まる』『見る』『掴む』。危険合図は『端』『中央』。それ以外の語は一文の中にしか置かない。名前も、できるだけ言わない」


「了解」


 最後尾の少女が、かすかに手を挙げた。頬には乾いた涙の筋。両手はもう何も抱えていない。


「わたし、言っていい?」


「順番を決める」


 ユイは即座に隊列を組み直した。前から、北条、レン、米倉、ツムギ、牧野、最後尾の少女。ユイが締める。

 レンは内心で反発しかけた。順番に意味が宿る。先に言えば軽く、後に言えば重い。重さの分配を誰が決めるのか。だがユイの目は、列全体の重心しか見ていない。重さの配分は、彼女の仕事だ。レンは自分の役目を思い出し、口を閉ざした。


「では、一人一言。立ったまま、短く。風が鳴ったら中断する」


 黒板の前に立ち、最初に口を開いたのは北条だった。

 巨躯に似合わないほど小さい声で、短く言う。


「おれは、最後まで支点をやる」


 それだけだった。彼は目を下げず、言葉の重さを両肩で受けて前を向いた。

 次に、レン。喉の裏側に引っかかっているものが幾つもあった。謝罪。礼。遺言。命令。優しさ。どれも二文目の相棒を引き連れてやってくる。レンは、それらを一つずつ手から下ろすように頭の中で並べて、最後に、一つ選んだ。


「上で、名前を全部、呼ぶ」


 静かになった踊り場で、言葉が床に小さく着地するのがわかった。名を言わない運用の中で、それでも上に着いたときに呼ぶ、と宣言する。二文目が喉につっかえたが、飲み込む。上で、だ。


 米倉は短く笑い、目だけで頷くと、ボソッと言った。


「俺、下で見つけた図面を全部、上で燃やす」


 ツムギは、少し考えてから、あどけない響きの言葉でまとめた。


「上に着いたら、続きを聞く」


 その言葉は不思議な軽さを持っていた。約束の延長線に見えて、実は“あとで”と薄く伸びるだけの糸。伸ばせば軽くなる。彼女はそれを知っているのかもしれない。

 牧野は苦い笑顔のまま、短く言う。


「俺は生きて、笑い方を覚え直す」


 最後尾の少女は、手を胸に置き、ほんの一拍だけ目を閉じてから、言った。


「わたし、帰ったら、借りっぱなしを全部返す」


 ユイは、全員の言葉を聞き終えて、何も言わなかった。代わりに合図を重ねる。


「上がる。止まる。見る。掴む」


 列が動く。塔は鳴る。風は、いまは薄い。黒板の粉は湿って重く、言葉は床に貼りついたままだ。

 一段目、二段目。足の裏が、固い。

 レンは視界の端にツムギの肩をとらえ、彼女の耳に添えられた手の角度で風の機嫌を読む。まだ、行ける。


 五段目で、牧野が小さな息を漏らした。

 六段目で、最後尾の少女が靴紐を気にして短く屈み、すぐ戻った。

 七段目で、黒板の白が視界から消えて、塔の内側の闇が濃くなる。

 八段目。階段の中央に薄いへこみ。そこは先ほどまで危なかった場所だが、今は固い。ツムギの声が「中央」と囁き、北条が重心をわずかにずらした。

 九段目。薄い風。

 十段目。塔の骨が一度だけ、低く鳴る。


 十一段目に足を置いた瞬間、背後で声があがった。

 男性の声。列の中ほど。短い一文の、はずだった。


「俺、嘘ついてた」


 重さが空気に落ちた。

 声は短かったが、二文目が勝手に続いた。抑えようとする意志より先に、言葉が滑って出る。


「この塔の管理に、前に関わってた」


 その瞬間、階段の固さが変わった。わずかに、だがはっきり。塔が低く唸り、足もとの金属が呼吸を忘れ、一番弱い足場が沈む。

 誰かの足が吸い込まれる。

 レンが反射で振り返る。

 牧野ではない。米倉でもない。彼らの影の後ろ、列の真ん中から少し外れた位置。名を呼ばないようにしていた癖が、そこで邪魔をする。名が出ない。次の合図が喉で詰まる。


「掴む!」


 北条の腕が伸び、レンの肩が引かれる。レンは身体をひねり、空を掴む。指先に触れたのは、濡れた布の感触。だがそれは手ではなかった。何か小さな固いものが手のひらに押し込まれ、体重の重みより先に、その重さだけがレンの掌に移った。

 それから、重量が消える。

 声が消える。

 階段は、静かだ。規則は、働いた。


 レンは掌を見た。

 古びた鍵だった。

 真鍮色だったはずの表面は塩で白くくすみ、刻印の縁に青黒い錆の点がある。小さな丸いタグが付いていて、数字が潰れかけている。手に馴染む重量。塔の匂い。

 ツムギが震える声で言う。


「黒板」


 踊り場は後ろだ。だが階段の壁にも、小さな擦りガラスの板みたいな黒さがあり、そこに短い白が浮かんだ。


 鍵は最後に


 息が詰まる。最上階の扉のことか。

 ユイが低く言う。「止まる」

 列の足が一度だけ止まり、すぐ「上がる」に切り替わる。言葉の重さは、動作に分散する。散らせるうちに散らす。

 レンは鍵を掌に握り直し、ポケットのいちばん浅いところに入れた。浅いところは、すぐに取り出せる場所。だが落ちやすい。落とすわけにはいかない。ズボンの内側の小さなボタン付きポケットに滑り込ませ、指で留めた。指先が震えた。震えを吸わせる場所が、今はそこしかない。


「誰が」


 牧野が唇を固くして言った。

 誰が二文目を口にしたのか。背を向けていても、声でわかるはずだった。だが風が、それを曖昧にしている。列が短く揺れ、塔が静かに満足する。レンは首を横に振った。


「上で」


 自分で決めた言葉を、自分に向ける。上で呼ぶ。上で明かす。ここでは、呼ばない。

 ユイが続ける。「合図」


「見る」「掴む」


 四語が流れ、列は細い背骨みたいにしなやかに伸びる。

 鍵がポケットの内側で、太腿に小さな円形の冷たさを作った。それは異物だが、安心でもある。握りしめたときの硬さを思い出せる。思い出せる硬さは、足場にはならないが、心の重心を微調整する役に立つ。レンはそう考え、前を向いた。


 上昇のリズムは戻った。

 一層分の終わりまでの段数を、ユイが小声で刻む。二、四、六、八、十。偶数だけを数えるのは、奇数の段でよく事故が起きるからだと彼女は言う。根拠は薄い。だが心の置き場所としては十分だった。

 ツムギの合図で、二度の微風をやり過ごす。北条が支点になり、米倉が結び目を増やす。牧野は、笑わない。目だけで笑い、目だけで泣く。最後尾の少女は、口を真一文字に結び、合図だけを返す。


 次の踊り場に着いた。

 黒板は二枚。古いほうの角は丸い。新しいほうは粉が生きている。


 言葉は質量

 一人一言

 鍵は最後に


 粉の一部が垂れて、質量の“量”の字が太くなっている。

 米倉が鍵を覗き込んだ。「刻印、見えるか」


「数字が潰れてる」


「タグの縁に、かすかな線がある。もとは“R”。もしかすると“Room”か“Roof”。部屋か、屋上か」


「最上階」


 牧野が呟く。

 ユイが頷いた。「鍵の運用を決める。持つのは相沢。落とさない。見せない。番号は言わない。『鍵』という語もできるだけ使わない。『それ』で通す。黒板の“最後”は、扉の前を指している可能性が高い。途中で使うな、ということ」


「了解」


 レンは鍵の場所を確かめ、太腿に軽く押し付けた。冷たさはそのまま熱に変わり、皮膚に貼り付く感覚に変わる。

 黒板の端に、消えかけた古い走り書きがあった。


 言うなら、短く

 黙るなら、長く


 意味は、いまの運用に似ている。レンは頷き、踊り場の縁で列の顔を見た。

 北条は前。目は濁っていない。

 米倉は図面を胸に押し付け、視線は上。

 ツムギは耳を押さえ、こちらを見ない。

 牧野は視線を床に落とすが、両足は正しく階段に向いている。

 最後尾の少女の目は赤いが、震えない。

 ユイは、全員の間に糸を張るような目をしていた。言葉は質量。糸は張力。彼女は張力を、まだ引ける。


「一人一言の続きは、上で。ここで二文目を言う人は、止める」


 ユイはそう言い、続けた。「上がる」


 塔の鳴りが細くなる。風が、柱の間を抜ける。海の音は遠い。

 階段の角度は、わずかに増した。段差は高くなり、手すりは低くなる。支点の位置が変わる。北条が肩を落とし、腰を落とす。レンは体重を前に預けすぎないよう慎重に進める。ツムギが「端」と囁いて右側を避ける。米倉が結び目を片方増やし、ロープの余りを切り詰める。


 途中で、誰かが息を吸い込んだ。言葉が喉まで来る音。

 ユイの視線がすぐに突き刺さる。

 その視線は、刃物ではない。合図の一種。言葉は質量。視線も質量。“見る”という合図が、その重さを削る。


 言葉は戻った。

 階段は、保たれた。


 上へ。

 段差が三つ、五つ、七つ。奇数の段差を越えるたび、さっきの落下の音が遅れて耳に戻ってくる。鍵の重さが太腿に確かで、その確かさが胸のどこかを軽くする。同時に、別のところを重くする。

 鍵は最後に。

 最後まで持っていくと宣告された重さだ。


 次の踊り場で、ユイが立ち止まった。「水位」

 階下から吹き上がる空気に、塩の粒が増えている。波がさらに一段上がったのだろう。塔全体の余白が減っている。黒板の余白も、狭い。そこに、さらに小さな文字が書き足されていた。たぶん、さっきの“返却、完了”と同じ手。


 名は上で

 鍵は最後に

 今は、四語


 レンは笑いそうになって、笑わなかった。黒板さえ、運用の合図に組み込まれていく。塔が書いているのか、人が書いているのか。どちらでもいい。ここでは「今は、四語」。

 四語を、言う。


「上がる」


 連鎖する。「止まる」「見る」「掴む」

 言葉は質量。四語は軽い。軽く作られている。そこに意思が宿っている。

 列は再び伸びる。

 風が一度、きしんだ。

 壁の亀裂から水の粒が滲む。

 手すりの金属が冷たさを取り戻す。

 床板の端が一つ、かすかに音を立てる。

 塔が選ぼうとしている気配がする。

 ユイの声が、短く、合図だけを置いた。


「中央」


 北条が重心を落とし、レンが一歩を短くする。ツムギの手が耳から離れ、一瞬だけ空中で躊躇してから、また耳に戻る。牧野の足が段差をきっちり踏む。米倉の結び目が鳴る。最後尾の少女は、短く「了解」と言って足を揃えた。

 抜けなかった。

 塔は、もう一度鳴り、揺れをわずかに増した。

 規則は、そこにある。

 一層ごとに、一人。

 けれど、いまはまだ、次の一層の入口だ。


 レンはポケットを押さえ、鍵の輪郭を確かめ、視線だけで列の前を追う。頭の中に残っている一文を、もう一度噛む。


 上で、名前を全部、呼ぶ。


 言葉は質量。

 だからこそ、いまは軽く。

 いまは四語で、塔の骨を渡る。


 上がる。止まる。見る。掴む。


 合図が骨伝導のように広がり、風に削られながらも残る。黒板の白は背中に消え、次の踊り場の黒が遠くに浮かぶ。

 鍵は最後に。

 その重さは、胸の内側のどこかを軽くし、同時に、別のどこかを沈める。軽くなるところと、沈むところのバランスで、人は立っている。塔もきっと、そうして立っていた。

 レンは、そう思うことで、足を出した。

 次の段差は、まだ固い。

 四語が、また流れた。

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