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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


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第5話 ブレーカー室

 側扉は、壁の色と同じ灰に塗られていて、最初はただのパネルにしか見えなかった。

 米倉シンが指先で縁をなぞり、錆の継ぎ目を探る。薄い金属音。鍵はかかっていない。取っ手を押し込むと、潮に焼けた蝶番が低く鳴り、冷えた空気と鉄の匂いが吹き出した。


「設備室だ。配電盤の子機みたいなやつが並んでる」


 米倉は図面を半分に折ってポケットへ押し込み、最小限だけ扉を開ける。

 相沢レンは列の位置を整えた。北条カイは中央。ツムギはユイの手前。最後尾の砂原ユイが一歩引いて全体を見る。牧野は唇を結び、声を出さない笑みで頷いた。合図は短い四語で足元に配られる。


「上がる。止まる。見る。掴む」


 設備室の中は狭い。壁一面のスイッチ群、錆びたスライダー、丸い計器のガラスには塩の点々。奥の壁に、濡れて波打った紙がガムテープで貼られていた。濃い赤で太く、短く。


 一回限り、揺れを止められる


 レンは喉の奥の筋肉が固くなるのを感じた。紙の左下には小さな文字で、条件が書き足されている。雑だが、はっきり見える。


 手動制御。人が必要。

 “アンカー”は踊り場で保持。

 解除すれば、アンカーは塔に返却。


 返却――その二文字だけ、別のインクで上からなぞり直されていた。黒が濃い。誰かがここを通り、読み、手を震わせたのかもしれない。


「アンカーって、何だ」


 北条が低く問う。米倉がスイッチの並びを素早く目で追い、配線の色を確かめる。


「簡易ブレース。機械の支点に人の手を使う。一定のレバーを一定の角度で押さえ続ける必要がある。電動じゃない。だから人がいる」


「解除すれば返却?」


「“固定をやめたら、塔に返す”。返すって、つまり」


「死ぬ、ってこと?」


 牧野の声がわずかに上ずった。ユイがかぶせるように言う。


「別の可能性もある。見張りに行く、取りに行く、引き換え。言葉は曖昧。つまり運用の余地がある」


「でもアンカーは一人、踊り場に残る」


 レンは貼り紙を見たまま口にした。文字は簡潔だ。情けはない。

 室内の床に、白いチョークの線が引かれている場所があった。細く、正方形の枠。角には“ここに座る”と小さく書かれている。そこに背を当て、レバーとワイヤを体で受け止め、両手で押し続ける――姿勢が思い浮かぶ。


「一回限り、揺れを止められる」


 米倉が文字をなぞった。「止められるのは、たぶん数分。電力の再配分と、振動ダンパの手動固定。塔全体の癇癪を薬で抑えるみたいなものだ」


「数分」


「その数分を使って二層分を駆け上がれ、ってことだ」


 沈黙。風の音が壁を擦る。設備室の天井から、遅れて水の滴る音がした。

 レンは喉を鳴らし、名簿の角を親指で押した。紙はふやけ、指に貼りつく。

 誰かが息を吸う音。


「やるしかない」


 最初に言ったのは、北条だった。「今の揺れのままじゃ、どこかで中央ごと抜ける。数分でも固まるなら、行ける。問題は――」


「アンカー」


 ユイが言葉を奪う。「残る人を決める。戻るか戻らないか。返却の意味」


「戻る時間はない」


 米倉が正直に言った。「数分止めて、二層分駆け上がって、また戻る? その間に揺れは戻る。戻ったら、今度は二層分、倍の距離を揺れの中で降りて、もう一度上がる。現実的じゃない。アンカーは、戻れない」


「じゃあ返却は」


「意味は見なくても、わかる」


 牧野が唇を噛んだ。ツムギは耳を押さえたまま、設備室の外の階段を見ている。

 外の空気が微妙に変わった。風の前の無音が一拍だけ長い。ツムギが小さく言う。


「いまは、静か。たぶん、いまなら」


 誰も動かない。動けば決まる。決まれば、誰かが抜ける。

 沈黙に、短い声が割って入った。


「私がやる」


 早乙女レイが一歩、前へ出た。

 彼女の右脚は膝から下が重そうに見えた。さっきの踊り場で窓枠ごと持っていかれた女を庇ったとき、脛を強く打ったのだ。立っているだけで力が逃げるのがわかる。それでも彼女の指はまっすぐで、肩は落ちていない。


「脚はもう限界。でも、手は動く。ここなら役に立てる」


「待って。決めるのは早い」


 レンはすぐに踏み出した。レイの前に立ち、目を正面から受け止める。濡れた前髪の向こう、彼女の瞳は澄んでいる。痛みが奥にあるのに、表面は落ち着いている。


「戻れないかもしれない。戻れない可能性が高い」


「戻れないでしょ」


 レイはあっさりと言った。声は薄いが、芯はある。「だから、いまここで使う。みんなが上に行くなら、意味が生まれる。脚は足手まとい。手はまだ、押せる」


「返却って、何かの仕掛けかもしれない。倒れてるだけかもしれない」


「たぶん違う。でも、言葉が何を指すかは、上まで行った人にこそ考えてほしい」


 レイは小さく笑って、肩をすくめた。冗談は封印したはずだが、そこに笑いは出ない。口角のわずかな上がりは、覚悟の印みたいだった。


「私の座る場所、決まってる。そこに座って、ガイドを押さえる。右手でこのレバー、左手でこのワイヤ。角度はここ。腰はこの線の内側。姿勢、崩しちゃだめ。わかった?」


 米倉は頷き、押さえの順序を素早く説明し直した。ユイが短く付け足す。


「制御開始の合図は、あなた。終了合図は誰にも許可しない。もし誰かが呼びかけても、返事はしない。声は重い。動作だけ」


「了解」


 レイは座り、背を壁に当てた。ガムテープの角が服に粘る。両手をレバーとワイヤに添え、指の腹で押し込む。

 レンは近づき、彼女の手首にロープを回した。結び目は、固く、ほどけやすい結び。支点は柱。意味のない儀式かもしれない。けれど、彼女が最後に何かを必要とするとき、それが役に立つかもしれない。


「相沢」


 レイが名前で呼んだ。レンは顔を上げる。


「上で、私の名前を言わないで。ここで止まる名前を、上まで連れていかないで」


 レンは喉が詰まるのを感じた。言葉が出ない。合図なら言えるのに。

 ユイが背後からレンの肩を押した。「語尾」


「上がる。止まる。見る。掴む」


 レンが言い、レイは笑って頷いた。笑いは声にならない。まぶたの動きと、指先の圧で伝わるだけだ。


「開始」


 レイが短く告げ、右手のレバーをさらに押し込む。左手のワイヤが低く唸り、天井のどこかで重たいものが噛み合う音がした。

 塔の揺れが、止まった。

 全員の足裏に、いままで感じていた微細な震えが消える。階段が、固い。固く、黙って、乗せてくれる。


「いま。二分」


 米倉が時計のない空間で体内時計を切った。「二分は確実。三分はギリ。欲張るな」


「走らない。速く歩く」


 ユイが決める。「中央固定。端は避ける。合図は小声。名前は言わない」


 レンは扉へ視線を投げ、最後にもう一度レイを見た。彼女は目で「行け」と言っていた。

 レンは頷き、列を動かす。「上がる」


 階段が、思った以上に軽い。

 足が求める分だけ段差が受け止め、体が前へ出たぶんだけ塔が許す。足音は揃い、手すりを掴む手は汗で滑らない。風は、いる。けれど、風圧はさっきより薄い。ツムギが「いまは来ない」と短く告げる。北条が体を傾けて支点になる。牧野が口を閉じたまま、眉だけで合図する。米倉の指が素早く結び目を確かめ、ユイは最後尾で呼吸を刻む。


 一層分が、数十歩で終わる。

 踊り場を過ぎる。黒板は見ない。見る時間がもったいない。言葉は落ちる。合図だけでいい。

 次の階段。角度は増す。けれど固い。足に裏切りがない。段差が短く鳴ることもない。


「あと四十秒」


 米倉の声。レンは頷き、速度を上げすぎないよう自分の足を管理する。速度は救いにも凶器にもなる。いまは救いだけに使う。

 ツムギが低く言う。「風、薄い」

 ユイが答える。「進む」

 北条が小さく吐く。「了解」


 二層分。

 最後の七段で、レンは一度だけ振り返った。設備室の扉は半開き。中のレバーの影が見える。レイの指は動かない。押し続けている。姿勢は崩れない。

 視線がぶれて、レンは前を向きなおす。前だけ。合図だけ。いまは生きて上がる。


 踊り場に到達した瞬間、塔が深く息を吐いた。

 止めていたものが終わる音。レイの指が震え、レバーの圧が微かに緩む音が、遠いのに届いた気がした。揺れが、ゆっくりと戻ってくる。最初は微細、次に波。塔の気分が帰ってくる。


「戻る?」


 牧野が思わず言い、ユイが首を振る。「戻らない。戻ったら二つ落ちる。いまは前。合図」


「上がる」


 レンは言い、名簿の紙を指で押さえた。紙の端に、水音が染みる。

 しばらく進み、振動が元の濃度へ近づいたころ、塔が低く鳴った。踊り場の壁。黒板はそこにもあった。濡れた粉で新しい行。


 返却、完了


 誰も声を出さなかった。

 ツムギが耳を押さえたまま目を閉じる。北条は顎を固く結ぶ。牧野の口角が下がり、米倉が図面を胸に押しつける。ユイは黒板から目を外し、列だけを見た。


「進む」


 ユイの声は、いつもと同じだった。感情は言葉の外に置く。感情は重い。

 レンは名簿を取り出し、レイの名前の横にペン先を置いた。点ではない。小さな円を描く。雨でにじむ線が、輪になって、紙に残る。落下ではない。切り捨てでもない。そこに、意思があったことの印。


 塔のご機嫌は、なぜか少しだけよくなった。

 風は鳴っているのに、雨音が遠のいて聞こえる。外の黒が、灰に近づく。照明の明滅は相変わらずだが、消える間隔が短くなった。

 レンは、ほんの一拍、肩の力を抜いた。抜きすぎない。抜けば落ちる。小さく、短く。


「上がる」


 声は安定していた。

 合図が流れ、列が続く。ユイは最後尾で目だけで頷き、ツムギは耳で風の分岐を拾い、北条は支点で揺れを食べる。牧野は唇を閉じたまま、目の笑いで励ます。米倉は指で結び目に命を足す。

 レイの円は、ポケットの中で柔らかい。汗でまたにじむ。にじむたび、輪は太くなる。太くなる輪は、落ちたものではないと、レンに言い続ける。


 次の踊り場。黒板の角は古く、そこにも文字があった。

 濡れて薄く、けれど読める。


 返して、上がれ

 残して、上がれ


 ユイが短く目を細め、レンは首を縦に振った。

 返して、上がる。残して、上がる。

 どちらも、いまの列の姿だ。返したものは、たしかにある。残したものも、たしかにある。どちらも背中に重い。けれど、その重さは、さっきよりも形が決まっている。形が決まった重さは、持ちやすい。運べる。足が前へ出る。


「止まる」「見る」「掴む」


 四語が骨に染み、鉄に伝わる。塔はそれを聞いて、またわずかに機嫌を変える。

 揺れは戻った。規則も戻った。

 一層ごとに、一人。

 でもいま、たしかに二層分、誰も落ちなかった時間があった。

 その時間を作ったのは、早乙女レイだ。


 レンは階段の角で一度だけ目を閉じ、すぐ開けた。

 上へ。

 円は、胸の中で、まだ揺れていない。

 四語がまた流れた。

 上がる。止まる。見る。掴む。

 合図は、祈りより固く、歌より短い。

 塔の骨は鳴り、風は吠える。

 雨音は、遠い。

 返却、完了。

 その文字を背中に置いたまま、彼らは上へ伸びた。

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