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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 妙原奇天


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第2話 踊り場の黒板

 塔の内側で風が鳴った。吹き抜けの空気は冷たく、舌に塩の味が残る。相沢レンは濡れた紙片を胸ポケットに押し込み、階段で一人ひとりの位置を確認した。上に向かう列が再び組み直される。砂原ユイが短く指示を飛ばす。


「荷重を分散する。高い重心は真ん中。北条、中央。私とレンは両端の視認。ツムギは私のすぐ後ろ」


 北条カイが素直にうなずいた。あの腕力を活かすには、真ん中がいちばんいい。支点にできる。レンは頷き返し、腰のロープを強く締め直した。三本のロープは前後の二人と階段の柱に通されている。金具の擦れる高い音が耳に残った。


「語尾に気をつけて」


 ユイがぽつりと言った。誰かが振り向く。


「語尾?」


「こういうとき、人は“選ぶ語尾”になる。断定、弱気、同意。それが伝染する。伝染した言葉が足を鈍らせる。だから、短く、決める。上がる。止まる。見る。掴む。以上」


 妙な説得力があった。レンは呼吸を整え、短く復唱する。


「上がる。止まる。見る。掴む」


 列の中から何人かも同じ言葉を返した。硬い階段が、少しだけ受け止めやすくなった気がする。暗がりの踊り場、壁に固定された小さな黒板に白い文字が増えていた。誰が書いたのか、いつの間にか一文が変わっている。


 約束は、落ちる。


 誰かの悪意のジョークか、塔の悪い比喩か。濡れたチョークは震えた跡を残し、最後の点だけが太い。レンは喉を鳴らす。


「約束、って……何のことだ」


「便宜的な希望のことだよ」


 ユイがすぐ答える。目は黒板ではなく、階段の角度を見ていた。


「“全員で上まで行ける”とか、“次は誰も落ちない”とか。“祈れば助かる”とか。ここでは、そういうのは落ちる。詰めるべきは条件。足場、距離、順番、重さ。選ぶ」


 選ぶ。二度目のその単語に、後方で息を呑む音が重なった。ツムギが耳に触れる。しばらく目を閉じ、かすれ声で言う。


「音が近づくと……階段が固くなる」


「固く?」


「うん。さっきは、嫌がってた。今は、待ってる。誰かを、乗せるみたいに」


 塔に意思が宿っていると言われたら、笑い飛ばすべきだ。けれど笑える空気は遠い。米倉シンが配電盤の前でしゃがみ込み、焼けた痕を指でこすった。焦げの粒が落ちる。


「ここ、外からいじられてる。焼け具合が均一じゃない。誰かがこの配電盤を使って揺れを作った形跡がある。外部起因か内部かはわからないけど、人為の手が混ざってる」


「塔が勝手に怒ってるだけじゃないってこと?」


「両方だろうな」


 米倉は肩をすくめ、顔を上げた。上層の薄い灯りが、彼の頬に不規則な影を落とす。


「意思を持つ塔と、意思を持つ人間。結局、どっちもこっち側にとっては“揺れ”だ」


 カイが短く鼻で笑った。「難しい言い方するなよ。わかる言葉で言え。上か下か、どっちへ行けば死なない」


「上だよ」


 ユイの返事は早かった。レンはその背中を見る。彼女の動きには迷いがない。迷いがない、だから怖い。人は迷うことでブレーキをかける。迷いを捨てるのは速いが、曲がり角が見えないまま速度を上げるのに似ている。


「行こう」


 レンが言い、列が動いた。二層目へ続く階段は、さっきより角度が急だ。手すりの冷たさは変わらないが、吸い付くような重さだけが増した。沈んだ下層から吹き上げる湿気が足首を撫でる。金属の段差が時々、小さく鳴る。塔の骨が、体重を検査するように。


「牧野、ライトの紐は手首に巻いておけ」


「わかってるって」


 冗談ばかり言っていた牧野が振り向き、笑おうとしてやめた。唇が固い。光源は彼の手の中で震えていた。バッテリーは残り少ないはずだ。レンは振り返り、目で合図した。牧野は了解と親指を立て、視線を落とす。


「落ちるなよ」


「落とさねえよ」


 短い会話が、ユイの指示のリズムに沿って切り落とされていく。


「上がる。止まる。見る。掴む」


 みんなが繰り返す。塔が、それを聞いているような錯覚があった。


 次の瞬間、錯覚は叫びに変わる。


 牧野の手首から、ライトがふっと消えた。滑った。濡れた金属と濡れた手袋の間に、見えない膜が生まれたように。ライトは弧を描き、吹き抜けの縦穴へ吸い込まれていく。白い丸い光が、深い底へ、点になり、すぐ闇になった。


「掴め!」


 誰かが叫び、全員が手すりを握り直した。その衝撃で列がたわむ。中央のロープが鳴く。たわみが端へ走る。端にいた少年が足を滑らせ、体が外側へ倒れかける。


 ユイが引いた。レンも引いた。だが一歩遅かった。端の板が音を立てて割れ、足が消える。少年の肘が残り、レンが掴む。指先が冷たく、骨のかたちが掌に硬い。ユイの手がロープを締める。


「北条!」


 レンの呼び声に、カイが動く。真ん中の彼は列をまたぎ、体をひねり、片手で飛び出しかけた少年の襟首をつかんだ。そのまま、腕力だけで持ち上げる。尋常じゃない力だった。だが彼が踏んでいた段差から嫌な音がする。


「おい……」


「だめ、そこ!」


 ユイの叫びと同時に、北条の足場が折れかけた。金属の層がはがれ、黒い海が覗く。レンは反射的に、空いている手で北条の手首を掴んだ。もう片方の手はロープを強く握ったまま離さない。掌の皮が熱くなり、指が切れる感触が走る。


「支点、支点!」


 米倉の声が後ろから飛ぶ。ロープのカラビナが鳴り、柱に引っ掛けられる。ユイが結び目を固め、体重を預ける。列全体が軋み、叫び、止まらない波の上で浮いたり沈んだりするように揺れた。


「持つ。持つから、離すな」


 レンは言った。自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえる。北条の手首は驚くほど太かった。筋肉の硬さが震えている。どこかで、階段がまた短く鳴いた。


「くそ……!」


 北条が歯を食いしばる。片腕で少年を引き上げつつ、自分が落ちる位置にいた。支点が彼の肩に乗っている。列の中心。塔がそこを狙うのは理だ。合理だ。冷たい計算が、目の前で進んでいる。


「選べない」


 ツムギが小さく言った。耳を塞ぎ、目を閉じ、震える。ユイは彼女の肩に手を置いて、それでも声は冷たかった。


「一人落ちる規則は破れない。選ばないと、塔が選ぶ。乱数じゃない。条件で決まる。私たちが決めないと、塔が決める」


 誰も返せなかった。レンは指先の力だけで世界にしがみついていた。自分一人の力では足りない。ユイの繋いだロープだけが、列をまだ相手にしてくれている。


 沈黙が、降りた。数秒。永遠のような数秒。海の音が近い。塔の骨が低く鳴る。


 その沈黙の底で、ひとつの囁きが生まれた。


「ごめん」


 誰の声だったのか、わからない。列のどこか、近くのようで遠い。風に溶けるような小さな声。次の瞬間、足場のどこかが軽くなる。ほんのわずか、二人分。レンの腕にかかっていた重さが、ふっと抜けた。北条が自力で段に戻り、膝をつく。少年が泣き声を上げてしがみつく。


 塔は揺れを止めた。まるで機嫌を直したみたいに。階段が固くなり、踏みしめる足の下で、あの嫌な軋みが消える。


「今……」


 ユイが低く言う。「二人分、軽くなった」


 誰かが落ちた。それも二人。名前が喉につかえて出てこない。レンは唇を噛む。手首の震えがやまない。誰の姿が消えたのか振り返ればわかるのに、振り返る勇気が生まれない。返せない。返した瞬間に、塔がまた選ぶ気がした。足音が、さらに軽くなる気がした。


「名簿」


 ユイの声が現実に戻す。レンはポケットから紙片を抜き、震えるペン先を押し当てた。黒い点を一つ、また一つ。紙はすでに濡れている。インクが滲み、点はひろがる。名前の横に小さな丸。具体の死に短い記号。人間の重量は、文字だと軽い。


「上がる」


 ユイが言い、全員が従う。北条は膝を叩いて立ち上がった。顔は汗と海水で濡れ、目は赤い。それでも前を見る。その背中に、さっきの囁きがまだ貼りついている気がした。


 ごめん。誰が、誰に。


 牧野のライトが消えた闇の縦穴から、冷たい空気が上がってきた。底は見えない。見ようとすれば足がすくむ。見ない。見るのは踏むところだけ。ユイの短い言葉が、また列をつなぎ直す。


「上がる。止まる。見る。掴む」


 ツムギが小さく繰り返す。声は震えているが、言葉の端は揃っていた。揃うことが、いまは力だ。


 二層目の踊り場まであと数段。黒板のある踊り場に、薄い光が漏れている。あの白い文字の面影が、もう遠くからでも見える気がする。約束は、落ちる。約束という言葉は柔らかいのに、落ちるという動詞は硬い。柔らかいものが硬さに叩き潰される図が浮かぶ。レンは頭を振る。想像は足元を滑らせる。具体だけを見る。


 最後の三段で、塔がまた低く鳴った。嫌な音ではない。合図のような音。レンは手すりに体を寄せ、踊り場に足を置く。固い。確かに固い。ツムギの言う通り、いまは“乗せられている”。


「到達」


 ユイが短く言った。全員が踊り場に散開し、壁に背を預ける。濡れた背中に冷たい鉄。呼吸が一気に粗くなる。誰かが咳をした。遠くの海鳴りに、咳が重なって消える。


 黒板は、先ほどの文字の下に新しい行を持っていた。誰かがここに先回りして書いたのか、誰かが今書いたのか。濡れたチョークの粉がまだ斑点のように残っている。


 約束は、落ちる

 選ばない約束は、もっと速く落ちる


 誰の言葉かはどうでもよかった。内容は、いまの列そのものだ。ユイが眉間を押さえる。米倉がチョークの粉を指でつまみ、匂いを嗅いだ。


「海の匂いが強すぎて、何もわからん」


「さっきの“ごめん”、聞こえた人」


 ユイの問いに、数人が小さく手を上げる。レンも上げた。北条は上げない。代わりに拳を握っていた。


「誰だと思う」


 沈黙。名前を言えば、重さが定まる。塔が満足する。そんな迷信が、いまの全員にとって現実だった。レンは名簿を見下ろす。黒い点が二つ。名前の列は乱れ、滴が線を作っている。紙はもう限界だ。折り目がふやけ、角は柔らかい。


「確認だけする。いま、何人?」


「十一」


 ユイが即答する。レンは頷き、紙に十一と書いた。数字は、現実へ意識を戻すための錨だ。


「次は制御室。ここから一本上だ」


 米倉が図面を広げる。紙は油を吸って丈夫そうだ。指でなぞったルートは、さっきよりも狭い階段を通る。踊り場を抜けてすぐの鋼製扉、その先にブレーカーがある。塔の揺れを制御できるかもしれない場所。できなければ、次の二人分の重さがまた削られる。


「開くのか」


「電磁ロックじゃない。機械式だ。錆びてるけど、回れば開く」


 北条が立ち、握力でハンドルを試す。嫌な音をさせながらも、少し動いた。やれる。


「その前に、列の確認」


 ユイが再び順番を言う。北条は中央固定。レンは先頭のすぐ後ろ。ユイは最後尾でツムギの後ろ。米倉は二列目で図面と周囲の配線を見る。冗談を言っていた牧野の名は、もう呼ばれない。誰も触れない。触れたら、崩れる。


「語尾を決める」


 ユイは最後にそう言った。短く、乾いた声で。


「開ける。入る。切る。戻る」


 四つの動詞が、踊り場の空気に突き刺さった。レンはうなずき、扉へ向き直る。ハンドルの先で金属が軋み、錆が粉になって落ちた。北条が力を入れ、レンが補助する。米倉がネジの一部に潤滑油の代わりに何かを塗る。ユイが後方を見張る。ツムギが耳を塞ぎ、同時に目を開いた。耳を塞いだまま、目だけで世界を見る技は、彼女の防御だ。防御のまま、前へ進む。


 扉が開いた。内部は暗い。配電盤が並び、赤い非常灯が弱く瞬いている。焦げた匂いと金属の温度が混ざった空気が、鼻に刺さった。レンは思わず息を止める。米倉が最前列に出て、メインブレーカーの位置を確認した。


「ここだ。まず照明系統を切って再投入。それから揺れの原因のラインを探る」


「やってくれ」


 レンが言い、米倉がスイッチに手を伸ばしたとき、背後でユイの声が飛んだ。


「待って」


 空気が固まる。ユイは視線を廊下へ向けたまま、わずかに顎を上げる。


「また、固くなった。階段が。誰か、上がってくる」


 足音は最初、風の冗談だと思った。けれどそのリズムは明確だった。一、二、三。吹き抜けの底から、確かに上へ向かう。十一人の足音に、もう一つが重なる。それは十二にも十三にも聞こえる。人の耳は数に弱い。けれど列の誰もが、同じ方角を見た。


「閉めるか」


 北条が扉に手をかける。ユイは首を振らない。レンは決める。この場で立ち止まれば、塔が決める。選ぶことをやめたとき、約束はもっと速く落ちる。黒板の白い字が背中を押す。


「米倉、やれ。ユイ、後方警戒。北条、支点」


 短い指示が飛ぶ。語尾は断定。連鎖する。米倉が手を動かし、ブレーカーが落ちた。闇が濃くなる。すぐに、再投入。赤い灯が一度消え、薄い白が点いた。揺れが、わずかに和らぐ。塔の骨が深く息を吐いたみたいに。


「もう一本」


 米倉がラインを探り、二つ目のスイッチを切る。今度は、足元の微細な振動が収まった。階段の固さが均一になる。ユイが短く息を吐く。


「いまは、乗せてない。誰にも」


 塔の気分が変わるなら、人の気分も変わる。列の肩の高さが揃う。レンはあらためて扉の内側を見た。壁に貼られた古いマニュアル。消えかけた印字の端に、ボールペンで走り書きがあった。


 落ちる前に決めろ

 落ちた後で言うな


 字は汚い。けれど切迫感があった。ここに立った誰かが書いた、過去の救助者か、過去の生存者か。いずれにせよ、塔は長く働いて、長く落としてきた。


「戻る。階段の様子を確認して上へ」


 ユイの声に、レンは頷く。北条が扉を押し戻し、半開きのまま固定する。ツムギが一歩先に立ち、耳を塞いだまま、目で階段の角度を測る。米倉は図面を畳み、自分の胸に押し当てる。誰も冗談を言わない。かろうじて、生きている。


 踊り場へ戻る。黒板の下を通る。白い粉が湿気で重くなり、短い線が少し垂れていた。レンは足を止めない。止まると、選ばない時間が生まれる。


 階段の下から、足音がまた一つ。風ではない。人だ。十一の数に重なる意味は、余計な意味しか持たない。レンは名簿に目を落とさない。代わりに、ロープの状態を見る。結び目は生きている。掌の皮は少し破れている。痛みは現実の証拠だ。現実に触っていなければ、塔の言葉のほうが強くなる。


「上がる」


 レンが言い、ユイが繰り返す。列が従う。北条の背には、さっき救った少年がぴったりついている。肩越しに、少年が小さく言った。


「さっきの“ごめん”、おれ……じゃ、ない」


「わかってる」


 北条は短く返し、それ以上は言わない。重みを言葉にすれば、また塔に聞かれる。塔は聞く。聞いたら、数を合わせる。そんな気がしてならない。


 二層目から三層目へ向かう階段の角度は、さらに上向きだった。足元の鉄が、肘の高さに近づく。手すりを越えて見える海は、黒い口を開け続けている。上には、灯り。灯りは弱い。弱いが、ある。レンはそこへ狙いを定める。感情を置いていく。後で拾える感情は、たぶん少しだけだ。全部は無理だ。


 背後で、足音が一つ増えた。列は振り向かない。ユイが最後尾で見張る。ツムギが目で追う。米倉が配線を避ける。北条が支える。レンが決める。


 上がる。止まる。見る。掴む。


 語尾が、まだ揃っていた。約束は落ちる。だが、決断は落ちない。決断は、落とす側に回る。塔が選ぶ前に、人が選ぶ。人が選ぶことは、いつだって誰かを落とす。それでも、その選び方は、残せる。残した跡が、後ろを歩く誰かの足場になる。


 レンはそう信じるしかなかった。信じる、という語尾が柔らかすぎるなら、言い換える。決める。上がる。


 塔の骨が、また一度、低く鳴った。今のところ、それは肯定に聞こえた。レンは名簿の紙をポケットのさらに奥に押し込み、指先の血と汗をズボンで拭いた。黒板の白は背後に消え、前方の薄い灯りがわずかに広がる。列は一歩、また一歩、塔の気分より先に進んだ。


 誰かの囁きは、もう聞こえなかった。

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