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最上階の十三人―一階層、上がるたび、誰かが落ちる  作者: 二条理|アコンプリス


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第十三章 最上階の扉

 扉の向こうは、教室に似ていた。

 レンは一歩踏み込んだ瞬間、そう思った。

 もちろん、本物の教室ではない。黒板も、机も、椅子もない。だが、窓から差す朝の光の色が、どこか学校の朝を思わせた。まだ誰も来ていない教室。ワックスの匂いが残る床。遠くから聞こえる運動部の声。そんな、ありふれた記憶の残り香が、この部屋にはあった。

 部屋は円形だった。

 壁一面に縦長の窓が並び、その向こうには水没した街が見える。黒い水面ではなかった。朝焼けを映した水は、淡い金色に光っていた。ビルの上層階だけが島のように突き出し、道路も、橋も、街灯も、そのほとんどが水の下に沈んでいる。

 美しいと思ってしまったことに、レンはぞっとした。

 あの水は、人を呑んだ。

 久世ハルトを。

 大槻ショウを。

 深見カナタを。

 北条ミナトを。

 砂原ユイを。

 それなのに、朝焼けを受けた水面は、何事もなかったかのように静かだった。

 六人は、手をつないだまま部屋に入った。

 相沢レン。

 佐伯ツムギ。

 早乙女レイ。

 三枝ナオ。

 名瀬ミオ。

 葛西リク。

 全員が入ると、背後の扉が音もなく閉まった。

 鍵が抜ける。

 北条の鍵と、ひなの鍵。

 レンとツムギはそれぞれの鍵を取り、もう一度握りしめた。

 部屋の中央には、もう一枚の扉があった。

 それは奇妙な扉だった。壁に埋め込まれているのではない。部屋の中央に、ただ立っている。枠もない。支える柱もない。木製の古い扉が、一枚だけ、床から垂直に生えているように存在していた。

 教室の扉に似ていた。

 小さな窓があり、銀色の取っ手がある。塗装は少し剥げている。下の方には、誰かが爪で引っかいたような傷がいくつも残っていた。

 早乙女が息を呑んだ。

「これ……」

「防火扉じゃない」

 葛西が言った。

 声は掠れていた。

「学校の、教室の扉みたいだ」

 レンは扉を見つめた。

 確かに、教室の扉だ。だが、なぜここにある。水没した避難施設の最上階に、なぜ学校のような扉があるのか。

 ツムギが名簿を抱えたまま一歩近づく。

 その瞬間、部屋のどこかから声が聞こえた。

『あけて』

 子どもの声。

 早乙女が短く悲鳴を上げた。

 名瀬がペンダントを握りしめる。

 三枝は大槻の名前を呼びそうになり、口を押さえた。

 葛西は扉から一歩下がった。

 レンだけが、動けなかった。

 その声を知っている。

 思い出したくないほど、知っている。

『あけて』

 もう一度。

 今度ははっきり聞こえた。

 ひなの声だった。

 部屋の中央に立つ扉の向こうから、声がしている。小さな手で扉を叩く音も聞こえた。とん、とん、とん。最初は控えめに。やがて、少しずつ強く。

『だれか、いる?』

 早乙女の目から涙がこぼれた。

「ひなちゃん……」

 その名を呼んだ瞬間、部屋の窓が一斉に暗くなった。

 朝焼けの街が消える。

 代わりに、窓の外には過去の映像が映った。

 子どもたちが走っている。施設見学の日。防災学習フロア。禁止区域に入る少年少女。笑い声。誰かがふざけ、誰かが止めようとし、誰かが見ないふりをする。

 レンは、幼い自分を見つけた。

 小学生のレンは、廊下の端で立ち止まっていた。眉をひそめている。行かない方がいいと思っている顔だ。だが、止めていない。皆が中へ入るのを見ている。ひなが遅れてついていくのも見ている。

 レンは拳を握った。

 止めろ。

 今さら、過去の自分に向かってそう思う。

 映像は進む。

 子どもたちが機械室に入る。古い扉が閉まる。警報音。水。叫び声。逃げる子どもたち。遅れるひな。

 そして、扉が閉まる。

 扉の隙間から、小さな手。

 レンは目を背けなかった。

 その手が、閉じ込められる瞬間まで見た。

 映像の中で、幼いレンは立ち尽くしている。足が動かない。戻ることも、助けを呼ぶこともできない。ただ、顔を青ざめさせている。

 誰かが言う。

『言ったら怒られる』

 誰かが言う。

『大人が気づく』

 誰かが言う。

『知らないって言えばいい』

 レンは、その声が誰のものかを聞き分けようとした。

 だが、すべてが混ざっていた。

 自分の声も、その中に混ざっていた。

「俺も言ったんだな」

 レンは呟いた。

 ツムギが彼を見た。

「レンくん」

「俺も、知らないって言った」

 言葉にすると、胸の奥が裂けるようだった。

「覚えてなかったんじゃない。忘れたことにしてたんだ」

 部屋の空気が重くなる。

 早乙女が膝をついた。

「私も」

 彼女は泣きながら言った。

「私も、何か聞かれた時、頷いた気がします。全部出ましたかって聞かれて、誰かが頷いて、私も……」

 名瀬がペンダントを握りしめる。

「私、泣いてた。白いハンカチの子が貸してくれたのに、その子のことも、ひなちゃんのことも、何も言えなかった」

 三枝は唇を震わせた。

「ショウも、怖がってたと思う。強がってただけで。だから……だから、あの時のことを思い出して、落ちる前に何か言おうとしたんだ」

 葛西は壁に背をつけ、目を閉じた。

「俺、覚えてる。少しだけ。逃げたあと、誰かが『もう戻れない』って言った。俺、ほっとしたんだ。最低だけど、ほっとした。戻らなくて済むって」

 誰も彼を責めなかった。

 責める資格など、誰にもなかった。

 部屋の中央の扉が、また叩かれる。

『あけて』

 その声は、責めているのではなかった。

 ただ、開けてほしいと願っている。

 それが一番苦しかった。

 レンは扉へ近づいた。

 取っ手に手を伸ばす。

 その直前、床から文字が浮かび上がった。

 上がる者は、落ちた者を連れていけない。

 レンの手が止まる。

 文字は扉を囲むように広がった。

 名前を置いていけ。

 部屋の空気が変わった。

 窓の外の映像が消え、再び朝焼けの水没都市が現れる。だが、部屋の中には見えない重さが満ちていた。名簿が、鍵が、名前が、すべて床へ引き寄せられているようだった。

 表示が続く。

 名前を置けば、扉は開く。

 名前を置けば、上がれる。

 名前を置けば、軽くなる。

 ツムギが名簿を抱きしめた。

「置かない」

 即答だった。

 床の文字がまた光る。

 名前を置いていけ。

 ツムギは首を振る。

「置かない」

 レンも言った。

「置かない」

 すると、部屋の中央の扉が少しだけ開いた。

 向こうから白い光が漏れる。

 だが、その隙間から風が吹き込み、ツムギの名簿が強く引かれた。

「ツムギ!」

 レンが名簿を押さえる。

 風は名簿を奪おうとしていた。紙が震える。防水ポーチのファスナーが軋む。名簿のページが開き、名前が次々に見える。

 久世ハルト。

 氏名不詳者A。

 氏名不詳者B。

 大槻ショウ。

 深見カナタ。

 ひな。

 高森アヤメ。

 北条ミナト。

 砂原ユイ。

 文字が紙から剥がれそうになる。

 名瀬が叫んだ。

「だめ!」

 彼女が名簿に手を添える。

 三枝も。

 早乙女も。

 葛西も。

 六人全員で名簿を押さえる。

 扉の隙間から、声が聞こえた。

『軽くなれるよ』

 それはひなの声ではなかった。

 大人でも、子どもでもない。水の底から響くような声。これまで表示板や無線の奥で聞こえていた声と同じだった。

『名前を置いていけば、上がれる』

 レンは歯を食いしばった。

「いらない」

『忘れれば、苦しくない』

「忘れたから、ここに来たんだ」

『覚えていても、戻らない』

 その言葉に、レンは一瞬、息を詰まらせた。

 戻らない。

 そうだ。

 覚えていても、久世は戻らない。大槻も、深見も、アヤメも、北条も、ユイも戻らない。ひなも、過去のあの日には戻れない。

 名前を持つことは、命を取り戻すことではない。

 ただ、痛みが増えるだけかもしれない。

『名前は重い』

 声が言う。

『重い者は、落ちる』

 名簿がさらに強く引かれた。

 ツムギが苦しそうに呻く。

 レンは名簿を押さえながら、叫んだ。

「重いまま行く!」

 声が止まった。

「軽くなって助かるくらいなら、重いまま落ちた方がましだ」

 言った瞬間、足元が沈みかけた。

 名瀬が悲鳴を上げる。

 葛西がレンを支える。

「落ちるとか言うなよ!」

「悪い」

 レンは息を整えた。

 そうだ。落ちてはいけない。

 落ちることを美化してはいけない。

 深見も、アヤメも、北条も、ユイも、正しく落ちたわけではない。落ちるべきだったわけでもない。落ちたことに意味を与えるのは、残された側の勝手だ。意味を与えなければ耐えられないからそうするだけで、落ちた者を犠牲という言葉で閉じ込めてはいけない。

 レンは言い直した。

「重いまま、生きて行く」

 部屋の中央の扉が大きく揺れた。

 床の文字が乱れる。

 名前を置いていけ。

 名前を置いていけ。

 名前を置いていけ。

 ツムギが声を上げた。

「久世ハルトくん!」

 名簿を押さえながら、彼女は名前を呼んだ。

 沈黙。

 だが、彼女は続けた。

「白いハンカチの子!」

 名瀬が続いた。

「青い波の刺繍!」

 三枝が叫ぶ。

「大槻ショウ!」

 早乙女。

「赤い靴紐の子!」

 葛西。

「深見カナタ!」

 レン。

「ひな!」

 全員で。

「高森アヤメ!」

「北条ミナト!」

「砂原ユイ!」

 風が弱まった。

 床の文字が薄れる。

 中央の扉の向こうから、今度は別の声が聞こえた。

『……いる』

 かすかな声。

 誰の声かわからない。

 もう一度。

『いる』

 レンは息を止めた。

 それは、ユイの声に似ていた。

 忘れたら怒るから。

 レンは名簿を押さえたまま、目を閉じた。

「忘れない」

 床の文字が消えた。

 風も止まった。

 部屋の中央の扉は、再び閉じている。

 ツムギは名簿を胸に抱きしめ、肩で息をしていた。

「大丈夫か」

 レンが聞くと、彼女は首を横に振った。

「大丈夫じゃない」

「そうだな」

「でも、置かなかった」

「ああ」

 六人はしばらく動けなかった。

 その沈黙の中で、扉の向こうから、ひなの声がまた聞こえた。

『みんなで、来たの?』

 レンは扉を見た。

「ああ」

『名前、持ってきた?』

「持ってきた」

 ツムギが名簿を抱えたまま答えた。

「全部は正確じゃないかもしれない。間違えてるかもしれない。名前がわからない人もいる。でも、持ってきた」

 少しの沈黙。

『じゃあ、呼んで』

 レンはツムギを見た。

 ツムギは頷いた。

 今度の点呼は、今までと違った。

 返事を確認するためではない。

 扉の向こうに届けるための点呼だった。

「久世ハルトくん」

 沈黙。

 しかし、窓の外の朝焼けが少し明るくなった。

「氏名不詳者A。白いハンカチの子」

 名瀬が続ける。

「青い波の刺繍のハンカチを貸してくれた子」

 光が揺れる。

「氏名不詳者B。赤い靴紐の子」

 早乙女が言う。

「危ないよって言ってくれた子」

「大槻ショウ」

 三枝の声は震えていた。

「怖かったのに、怖くないふりをしてた。私が覚えてる」

「深見カナタ」

 葛西が言う。

「機械に詳しくて、無線機を動かしてくれて、最後に返事した」

「ひな」

 レンが言う。

「閉じ込められた。置いていかれた。俺たちが、知らないと言った。ごめん」

 その言葉を言った瞬間、胸が痛んだ。

 謝罪で何かが済むわけではない。

 それでも、言わなければならなかった。

「高森アヤメ」

 ツムギが言う。

「見続けた。最上階は出口じゃないと教えてくれた」

「北条ミナト」

 レンは鍵を掲げた。

「鍵を持っていた。怖いと言った。最後に鍵を投げた。忘れるなと言った」

「砂原ユイ」

 三枝が言った。

「怖がりだった。置いていかれるのが怖かった。最後に、いるって返事した。忘れたら怒るって言った」

 部屋の中央の扉が、静かに開いた。

 今度は風が吹かなかった。

 扉の向こうは白い光ではない。

 小さな部屋だった。

 その奥に、さらに一枚の扉がある。

 扉の前に、少女が立っていた。

 ひな。

 レンはそう思った。

 彼女は、映像で見た小さな女の子の姿をしていた。おさげ髪。大きなリュック。少し不安そうな目。けれど、その姿ははっきりしていない。光の中に滲む影のようでもあり、古い映像から抜け出した残像のようでもある。

 早乙女が口元を押さえた。

 名瀬が涙をこぼす。

 ツムギは名簿を抱えたまま立ち尽くした。

 ひなは、レンを見た。

『あけにきてくれたの?』

 レンは喉を詰まらせた。

「遅くなった」

 ひなは首を傾げた。

『みんなは?』

「いる」

 レンは答えた。

「ここにいる」

 ひなは六人を見回し、それから名簿を見た。

『そこにも?』

「そこにも」

 ツムギが答えた。

 ひなは少しだけ笑った。

 その笑顔が、レンには一番苦しかった。

『じゃあ、開けよう』

 彼女は奥の扉を指さした。

 そこには、二つの鍵穴があった。

 一つは真鍮の鍵。

 もう一つは、ひなの鍵。

 レンとツムギは顔を見合わせた。

 北条の鍵をレンが持つ。

 ひなの鍵をツムギが持つ。

 二人で扉の前に立つ。

 ひなは言った。

『開けたら、戻るよ』

「どこに」

 レンが聞く。

『最初に』

 アヤメの言葉が蘇る。

 最上階は出口じゃない。

 最初に戻る場所かもしれない。

 早乙女が震える声で言った。

「戻ったら、みんな生きてるんですか」

 ひなは答えなかった。

 三枝が聞く。

「ショウも?」

 名瀬が聞く。

「白いハンカチの子も?」

 葛西が聞く。

「北条も、ユイも?」

 ひなは、小さく首を振った。

『戻るだけ』

「戻るだけ?」

『覚えているかどうかは、みんな次第』

 レンは鍵を握った。

 戻る。

 それは救いではない。

 また始まるということかもしれない。もう一度、十三人、あるいは十五人で。誰かが落ちる階段を。誰かを選ばされる建物を。もう一度。

 だが、今度は名前がある。

 最初から。

「開けよう」

 ツムギが言った。

「でも、置いていかない」

 レンは頷いた。

「ああ」

 二つの鍵を差し込む。

 同時に回す。

 扉の向こうから、眩しい光が漏れた。

 そして、声が聞こえた。

 たくさんの声。

 久世の声。

 大槻の声。

 深見の声。

 アヤメの声。

 北条の声。

 ユイの声。

 知らない二人の声。

 ひなの声。

 その全てが、本当に聞こえたのかはわからない。

 でも、レンは確かに聞いた。

『いる』

 扉が開く。

 その先にあったのは、出口ではなかった。

 一階のホールだった。

 赤い非常灯。

 灰色のタイル。

 閉じた正面扉。

 黒い水面の見える窓。

 そして、床に倒れている人影。

 まだ誰も落ちていない。

 すべてが始まった夜と同じ景色だった。

 ただ一つだけ違っていた。

 レンの手には、北条の鍵がある。

 ツムギの腕には、名簿がある。

 そして、胸の中には、置いていかなかった名前があった。



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