第13話 最上階
扉をくぐった瞬間、音が消えた。
耳が壊れたのかと思うほど、世界が静まり返る。
相沢レンは思わず足を止めた。さっきまで、塔はずっと鳴っていた。鉄の軋む音、遠くの波の唸り、階段の一段ごとのきしみ。誰かが息を吸うたび、手すりを掴むたび、その全部が塔に拾われていた。
それが、ぴたりと途切れている。
「……ここが」
隣で、ツムギが小さく呟いた。
「最上階、なのかな」
レンは遅れて周囲を見回した。
そこは、塔の内部とは思えないほど簡素な部屋だった。
四角い空間。天井は低くないが、高くもない。壁は白い塗装がところどころ剥がれて、下から灰色のコンクリートが覗いている。
足元は乾いた床。水たまりも、濡れた鉄板もない。靴の裏がきゅっ、と静かに鳴るだけだ。
部屋の中央に、それはぽつんと立っていた。
「黒板……」
ツムギが、息を飲むような声を漏らす。
教室で見慣れたものより、少し背の低い黒板。
脚付きで、四角い。縁には白いチョークの粉がうっすらと付いている。
そこには、びっしりと文字が書かれていた。
レンは吸い寄せられるように近づいた。
黒板の上から下までを埋めているのは、名前の列だった。
相沢レン
砂原ユイ
北条カイ
牧野
早乙女レイ
ツムギ
米倉シン
……続く文字列。
見覚えのある字面。見慣れた並び。
十三人分の名前。
「名簿……」
レンは思わず、声に出していた。
それは、最初に自分が踊り場で書き始めた名簿と同じだった。
いや――ほとんど、同じ。
「順番が、違う」
ツムギが、黒板に顔を近づける。
「ここ。落ちていった子の名前、少し順番が入れ替わってる。
早乙女さんの位置、もっと上だったよね。
牧野くんも、本当は──」
「……ああ」
レンは、自分の胸ポケットに入れていた紙を取り出した。
ぐしゃぐしゃになった名簿。濡れて、乾いて、また濡れて。角は丸まり、インクはにじみ、点は掠れている。
その中の名前の並びと、黒板を見比べる。
「微妙に……違う」
確かに同じ十三人だ。
だが、書かれている位置が少しずつずれている。
早乙女レイの名は、レンの手元の名簿では下から三番目にあった。黒板では、真ん中より少し上。
牧野の名前も、レンの紙よりひとつ上に来ている。
点の位置も、少し違う。
「誰かが……書いた?」
レンは呟いた。「ここで、誰かが“書き直した”のか」
「最初から、こっちが“本体”とか」
ツムギの声は弱々しいが、ちゃんと冗談の形になっている。
「下で相沢くんが書いてたのは、“写し”で、本物はここに……とか」
「嫌な本物だな」
レンは苦く笑う。
黒板の右下には、小さな空白が残されていた。まるで誰かが何かを書き足そうとして、途中でやめたような、歯抜けのスペース。
その空白のすぐ脇に、白いチョークが一本、無造作に置かれている。
「……何か、聞こえる?」
ツムギが、きょろきょろと辺りを見回しながら訊いた。
レンも耳を澄ませる。
波の音は聞こえない。
風の唸りもない。
鉄の軋みも、階段のうなりも、塔の呼吸も、何も。
「何も、鳴ってない」
ツムギが自分の耳たぶを触りながら、確かめるように言う。
「いつも、どこかで何かが鳴ってたのに。
ここ、本当に“無音”だよ。
塔の音が、しない」
「塔の外、ってことか」
レンは自分の声が、この部屋の空気の中でやけに浮いて聞こえるのを感じた。
塔の中にいるのに、塔の音がしない。
ここは、塔のシステムの終端か、あるいは外縁。
その真ん中に、黒板と名簿。
足元に、水の気配はない。
空気は冷たいが、湿っていない。
床に転がるものも、椅子も机もない。
あるのは自分たち二人と、黒板と、チョーク。それだけだ。
「ねえ、相沢くん」
ツムギが黒板に近づき、指先で文字に触れるふりをした。
「この字……誰かに似てない?」
「誰かって?」
「相沢くん」
レンは言葉を失った。
改めて文字を見る。
癖の少ない、整った文字。
大きさや傾きはあまり変わらない。
点を打つ位置は、きっちりと右側に揃っている。
自分の字に、よく似ていた。
「……偶然、だろ」
「偶然、かもしれないけど」
ツムギは少し笑う。
「塔って、そういう“偶然”を使うの好きそうじゃん」
「やめろ。ぞっとする」
「私もぞっとしてる」
二人の足音だけが、乾いた床に細く響いた。
◇
レンはチョークに手を伸ばした。
触れようとした瞬間、肩がこわばる。
「罠だったらどうする?」
自分で自分に言い聞かせるように呟く。
「ここでチョークを取った瞬間、床が抜けるとか。
名簿を書き終えるまで出られないとか。
そういう、どうしようもない役割を押しつけられるとか」
「逆にさ」
ツムギが首をかしげる。
「触らなかったら、何も始まらないのかもよ」
「始まってほしいのか」
「終わらないよりは、マシかな」
彼女はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「ここ、静かで落ち着くけどさ。
ずっとここにいるって考えると、逆に気持ち悪い。
塔の音がしないってことは、“どこにも繋がってない”ってことでもあるし」
「……そうだな」
レンは短く息を吐き、チョークをつまんだ。
乾いた粉の感触が指に移る。
軽い。
ここまでさんざん命綱を握ってきた指先には、拍子抜けするほどの軽さ。
黒板の空白に、先端が触れる。
その瞬間だった。
「あっ」
レンは思わず声を上げた。
手が、勝手に動いた。
意思とは別の何かが、肘から先を掴んでいるような感覚。
チョークが黒板の表面を滑る。
キキ、とも、カリッとも違う、妙に柔らかい音。
粉が舞う。
レンは自分と自分の手の間に線が引かれたみたいに、身体の一部を誰かに奪われた感覚を覚えながら、それでも目だけで文字を追った。
明日の朝までに、救助は来ない
書き終えた瞬間、指先の力がふっと抜けた。
チョークがカランと床に落ちる。
「……見覚え、ある」
レンは喉を鳴らした。「この文」
「あるね」
ツムギも黒板を見つめながら頷く。
「一番最初の……」
レンの中に、記憶がよみがえる。
嵐の夜。
まだ下層が浸水し始めたばかりの頃。
最初の踊り場の黒板に、濡れたチョークで乱暴に書かれていた文。
一層ごとに、一人
それと一緒に、誰かが書いた短い文章があった。
“明日の朝までに、救助は来ない”。
その警告が、彼らの迷いを削り取っていった。
今、最上階の黒板に書かれたのは、その“見覚えのある文”だけだった。
「これが……最初の一文?」
ツムギが囁く。「最初の黒板に、誰かが書いた“最初のルール”」
「誰かって」
レンは自分の指先を見た。
さっきまでチョークを握っていた右手。
インクで汚れた指。
水でふやけた爪。
そこに今も、白い粉が薄く残っている。
「多分、“最上階の一人”」
ツムギが小さく言う。
「上まで来た人が、次の十三人のために書くんだよ。
救助は来ない。
だから上がれって。
だから戻るなって」
黒板の文字が、急に生々しい血のように見えた。
明日の朝までに、救助は来ない。
それは事実だった。
彼らには、誰も来なかった。
だから、上がるしかなかった。
「ここにいる“一人”が、書いたのか」
レンは呟く。
「俺たちに向けて」
「今度は、相沢くんが書いた」
ツムギが言う。「次の十三人に向けて」
「次……?」
レンは首を上げた。
黒板の向こう、今まで気づかなかった壁の一部に、もうひとつ扉があることに気づいた。
さっきくぐってきた扉とは反対側。
色も形も、ほとんど同じ。
ただし、その縁はまだ光っていない。
「あれ……」
ツムギもようやく気づき、目を見張った。
「さっきの扉と、対になってる?」
「かもな」
レンはゆっくりと歩み寄る。
ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触。
鍵穴はない。
軽く引くと、拍子抜けするくらい簡単に開いた。
その向こうに見えた景色に、レンは息を止めた。
「……嘘だろ」
階段の踊り場。
狭い足場。
濡れた床。
鉄の手すり。
壁にかかった黒板。
見慣れた景色。
第1話の、あの夜の景色。
そして、その踊り場には――
「十三人いる」
ツムギが震える声で言った。
十三人。
あの日と同じ数の生徒たちが、そこにいた。
嵐で濡れたレインコート。
肩にかけたリュック。
膝に抱えた救命用の毛布。
緊張と不安と、まだ完全には壊れていない日常の顔。
誰もが知っている顔だった。
相沢レンの顔。
砂原ユイの顔。
北条カイの顔。
牧野の顔。
早乙女レイの顔。
ツムギの顔。
米倉シンの顔。
そして、もう二度と見られないと思っていた、ほかのクラスメイトたちの顔。
それが、全部揃ってそこにあった。
「……ループ」
レンは呆然と呟いた。
「繰り返してる。
俺たちが上まで行ったあと、また最初から。
同じ夜が、同じ塔が、同じ十三人が」
「違う」
隣で、ツムギが首を振った。
「ちょっと違うよ」
「何が」
「全部」
ツムギは、じっと踊り場を見つめる。
「立ってる位置、少し違う。
相沢くん……いや、“向こうの相沢くん”、前はもっと右側にいた。今は、黒板に近い。
北条さんも、前より半歩分だけ手すりから離れてる。
靴の濡れ方も違う。
レインコートの色も、少し」
レンも目を凝らす。
確かに、細かいところが違っていた。
レン自身と思しき少年は、名簿を書き始める前なのか、まだ紙を胸ポケットから取り出していない。
砂原は、相変わらず冷静そうだが、視線の向け方が違う。
早乙女レイは左足を少し引いている。
牧野は、前よりも緊張した顔で、ライトを握りしめていた。
ツムギの言う通り、靴についた水の跡も、当時とは違って見えた。
記憶の中の自分たちと、今目の前にいる自分たちが、微妙にずれている。
「……やり直し、じゃない」
ツムギが小さく言う。
「コピーでもない。
少しずつ、何かが違う。
これは“分岐”だよ」
「分岐」
「うん」
ツムギは、耳に手を当てた。
「ほら。音も違う。
階段の鳴り方、波の高さ、風の唸り方。
全部、“こっちで見てきた現実”と少しずつずれてる」
レンは、開いた扉の向こうの世界に意識を集中する。
聞こえてくるのは、見覚えのある、しかし少しだけ違う世界の音だった。
誰かの笑い声。
誰かの震えた息。
誰かが黒板にチョークを当てる音。
そして、その黒板には――
「“一層ごとに、一人”って、まだ書かれてない」
ツムギが気づいて言う。
「あるのは、“明日の朝までに、救助は来ない”だけ」
最上階の黒板に書いた、あの文。
それが、向こうの黒板にも、濡れた字で浮かび上がる。
「つまり――」
ツムギは、レンを見た。
「最上階の一人は、次の十三人の黒板を書く“観測者”になるってことだよ」
「観測者」
レンはその言葉を繰り返す。
「塔そのものじゃなくて、“塔を見ている誰か”」
「うん」
ツムギは頷く。
「塔は“場”を用意するだけ。
揺れ方とか、勾配とか、黒板の場所とか。
でも、“何を伝えるか”“どんなルールを見せるか”は、ここにいる一人に委ねる。
それが、“最上階の一人の役割”」
「今までも、そうだったのか」
レンは、ぞっとする。
「“一層ごとに、一人”
“戻ることは、落ちること”
“名は浮き輪”
“言葉は質量”
“誓約を結べ”
あの全部が……」
「誰かが、ここで書いたんだと思う」
ツムギは黒板をちらりと見る。
「ここまで辿り着いた“誰か”が、自分たちの経験と思考と、後悔と、希望を混ぜて。
次の十三人に向けて、“こうした方が生き延びられるかもしれない”って文を残していった。
でも、塔はそれすらも餌にして、また別の分岐を増やしていった」
「そうやって、何度も分岐を作ってきた」
「うん。
最上階の一人は、毎回“観測者”になって、黒板を書く。
それを見た次の十三人が、また違う選択をして、違う落ち方をして、違う名前の順番で減っていく」
レンは、扉の向こうの十三人から目を離せなくなっていた。
自分たちと、よく似ている誰か。
でも、少しだけ違う誰か。
あの十三人は、これから何を選ぶのか。
誰がどの階層で落ちるのか。
誰がアンカーになるのか。
誰が誓約を破るのか。
誰が誰を送り出すのか。
それは、まだ決まっていない。
ただ一つ決まっているのは――最上階の観測者が、どんな言葉を最初に渡すか、ということだけだ。
「戻ろう」
ツムギが静かに言った。「扉、閉めよ」
レンは名残惜しさと恐怖の入り混じった感情を押し殺し、ゆっくりと扉を閉めた。
ギィ、と鈍い音。
世界が再び無音になる。
最上階の部屋。
黒板と名簿。
チョーク。
相沢レンとツムギ。
◇
「……で」
静けさの中で、ツムギが突然、場違いなほど明るい声を出した。
「書くの、あなたでしょ」
レンは思わず、ツムギの顔をまじまじと見た。
「今の流れで、それ言う?」
「言うよ」
ツムギは笑っていた。
疲れているはずなのに、顔が、目が、どこかすっきりしている。
「だってさ。
ここまでずっと、ルールを読み取って、運用して、名前を書いて、点を打ってきたの、相沢くんでしょ。
黒板の文に一番振り回されて、一番助けられて、一番憎んできたのも、相沢くん」
「憎んでたの、わかるのか」
「わかるよ。隣で見てたもん」
ツムギは、黒板に近づいた。
「だからさ。
“観測者”になって、次を選ぶのは、相沢くんだと思う」
「俺が、また誰かを落とすルールを書くのか」
レンは喉の奥から出てきた言葉を、止められなかった。
「俺たちが生きてるのは、誰かが書いた“一層ごとに、一人”のせいだ。
あの文があったから、俺たちは上がるしかなくて、そのせいで、あんなふうに順番に……」
「“せい”でもあるし、“おかげ”でもある」
ツムギが静かに言う。
「もしあの文がなかったら、たぶん最初の階層で全員沈んでたよ。
揺れに飲まれて、誰も何も決められなくて。
“一層ごとに、一人”ってルールがあったから、少なくとも“どう生き残るか”を考える余地ができた」
「だからって、書いたやつを許す気にはなれない」
「許さなくていいよ」
ツムギは肩をすくめる。
「許すとか、許さないとかじゃなくてさ。
“同じ場所に立つ”ってことじゃない?」
「同じ場所」
「うん」
ツムギは黒板の端に指を伸ばし、触れない距離で止めた。
「ここまで上がってきた“誰か”が、ここでチョークを握って、この部屋の静けさの中で、自分の後悔とか、願いとか、最適化とか、全部ごちゃまぜにして“一文”を書いた。
その一文を、今度は相沢くんが見る側になった」
レンは黙って聞いていた。
「今度は、“書く側”になる番だよ」
ツムギは、ゆっくりとレンを振り返る。
「相沢くんが、“誰かの観測者”になる番」
「……俺は」
レンは言葉を選んだ。「俺は、誰かを助けたいとか、かっこいいこと言うつもりはない。
自分だってギリギリで、何度も逃げ出したくて、誰かを見捨てそうになって、そのたびに自分のこと嫌いになった」
「知ってる」
「“最適化”だって、正しいのかどうかなんてわからない。
ユイの“最適化”がなかったら、もっと早く全滅してたかもしれないけど、もっと違う終わり方もあったかもしれない。
あいつが一歩下がったのだって、俺は納得してない」
「それも知ってる」
ツムギの声は、少し震えていた。
「でもさ。
相沢くんが“納得してない”ってことは、ここで同じルールを書き直すことは、しないってことでもあるんじゃない?」
「……?」
「だって、あの“一層ごとに、一人”ってルール、相沢くんは好きじゃなかったでしょ」
「大嫌いだ」
「だったら、それ以外の文を書けばいい」
ツムギは言う。
「観測者の役目って、“前の誰かのコピー”になることじゃなくて、“前の誰かと違う一文を書くこと”なんじゃないかな」
レンは黒板に視線を戻した。
明日の朝までに、救助は来ない。
その下には、まだ何も書かれていない。
「……でも、何を書けばいい」
喉の奥が乾く。
「“救助は来るよ”って嘘を書くのか。
“誰も落ちなくていい”って書いて、本当にそうなるのか。
適当なことを書いて、向こうの十三人を余計に混乱させるだけじゃないか」
「適当じゃなくていい」
ツムギはゆっくりと首を振った。
「相沢くんが、この塔で本当に怖かったこと、本当に守りたかったこと、本当に後悔してること。
それを一番よく知ってるの、相沢くん自身でしょ」
レンは唇を噛みしめた。
怖かったのは何か。
落ちる瞬間の叫び声か。
揺れの予兆か。
黒板の文か。
それとも――名前に点を打つ瞬間か。
守りたかったのは何か。
公平さか。
確率か。
善意か。
それとも――名前そのものか。
後悔しているのは何か。
あの時手を離したことか。
あの時止めなかったことか。
あの時声をかけなかったことか。
それとも――最初の黒板の文を、完全に信じてしまったことか。
「……名前」
レンはぽつりと呟いた。
「え?」
「怖かったのは、名前が消えていくことだった」
自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てきた。
「落ちる瞬間のことは、今でもはっきり思い出せる。
でも、一番嫌だったのは、そのあと名簿に点を打つときだった。
点を打って、いつかその紙が破れて、名前の形が消えて、誰がどこで落ちたのかも、どうして落ちたのかも、全部わからなくなっていくのが、一番怖かった」
ツムギは黙って聞いている。
「だから、儀式を作った。
上がる前に名前を呼ぶ。
落ちたあとも名前を呼ぶ。
点を打つ代わりに円を書いたり、拍を増やしたり、確認の足音を鳴らしたり。
全部、“名前を残すため”だった」
「うん」
ツムギは小さく頷く。
「だったらさ。
次に書くルールも、“名前”から始めればいいんじゃない?」
「名前から……」
「“一層ごとに、一人”じゃなくて、“一層ごとに、全員の名前を呼べ”とかさ」
ツムギは笑いながら言った。
「塔にとっては大した違いじゃないのかもしれないけど。
でも、内側にいる十三人にとっては、案外、大きな違いかもしれない」
レンは、黒板に視線を落とした。
明日の朝までに、救助は来ない
その下に、空白。
チョークは床に落ちたまま。
彼はそれを拾い上げた。
「……ツムギ」
「ん?」
「もし俺がここで観測者になったら、お前はどうする」
ツムギは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、笑った。
「さっき扉を覗いたとき、向こうにも“ツムギ”がいたよね」
「ああ」
「じゃあ私は、あっちの子に任せる。
耳がまだちゃんと聞こえていて、相沢くんをまだ“相沢くん”ってだけで呼んでて、塔のことをまだ何も知らない“ツムギ”に」
「……他人事みたいに言うなよ」
「他人事じゃないよ」
ツムギはレンに近づき、軽く額を合わせるように顔を寄せた。
「ここまで来た私も、確かに“私”だけど。
向こうでまた立ち上がる“私”も、ちゃんと“私”だから。
どっちかだけが本物とか、そういう話じゃない」
「でも、お前はここにいる」
「いるよ。
相沢くんの隣に。
最上階の、静かな部屋に」
ツムギは目を閉じる。
「だから、“観測者”になる相沢くんに、ひとつだけ注文」
「注文?」
「うん。
“名前を呼ぶ儀式を、最初からルールにしておいて”」
レンは思わず笑った。
「どれだけ儀式好きなんだよ、お前」
「好きだよ。
だって、儀式ってさ、“この瞬間はちゃんと意味があるんだよ”って印みたいなものでしょ。
塔にとってはただのデータかもしれないけど、私たちにとってはそういうの、けっこう大事なんだよ」
「……わかった」
レンは黒板の前に立った。
チョークを握る。
今度は、手が勝手に動く感覚はない。
肘から先まで、自分の意思で動かせているとわかる。
黒板に、白い線が走る。
明日の朝までに、救助は来ない
その下に、彼はゆっくりと書いた。
階段を上がる前に、全員の名前を呼べ
チョークの先端が震える。
それでも、字は崩れない。
「……いいね」
背後で、ツムギが小さく息を漏らした。
「それ、“名は浮き輪”の改良版だ」
「浮き輪は、先に配っておいた方がいいからな」
レンは続ける。
誰も名前を忘れるな
誰かの名前を故意に呼ばなかったら、その階層は一人分、余計に落ちる
「こわ」
ツムギが苦笑する。
「でも、塔には効きそう」
「塔のルールに、こっちのルールをぶつけるんだ」
レンはさらに書き足した。
戻ることは、落ちること
しかし、誰かを迎えに戻る者を、塔は二度落とせない
「それ……」
「迎えに戻って落ちたやつが、いたから」
レンは呟く。
「次は、そうさせない」
最後に、彼は名簿の列の下に小さく書いた。
一層ごとに、一人
だが、その一人を選ぶのは塔ではなく、お前たち自身だ
チョークの先端が折れた。
ぱきん、と乾いた音。
粉が黒板の足元にこぼれる。
「……こんなもん、かな」
レンは息を吐いた。
黒板に並んだ文字は、塔のルールにしてはあまりにも感情的で、観測者の文にしてはあまりにも生々しかった。
でも、それが今の自分の精一杯だと、はっきりわかった。
「すごいよ」
ツムギが、黒板を見上げながら言った。
「すごくややこしくて、すごく相沢くんっぽい」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてる。
前の観測者たちが書いた文も、きっとその人たちっぽかったんだと思う。
“最適化”って言葉を選んだユイさんみたいに」
レンは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
ユイがここで何を書いたのかは、もうわからない。
別の分岐のどこかで、“一層ごとに、一人”と書いた誰かがいたかもしれない。
“戻ることは、落ちること”と書いた誰かも。
“名は浮き輪”と書いた誰かも。
今、自分はその列の一番新しい端っこにいる。
「……行くか」
レンは振り返った。
扉は、静かに彼らを待っている。
あの向こうには、もうひとつの踊り場と、十三人がいる。
「観測者になるのに、下に降りるの?」
ツムギが首をかしげる。
「観測って、“上から偉そうに眺めること”じゃないだろ」
レンは笑った。
「少なくとも、俺にとっては違う。
俺は、“中にいた側”として、あいつらを見たい。
黒板を渡したあと、どうするのかを」
「じゃあ」
ツムギは扉の前まで歩き、レンの隣に立った。
「一緒に見よ」
「耳は大丈夫か」
「静かな方がいいって約束、覚えてる?」
ツムギは笑った。
「ここ、十分静かだった。
だから今度は、“続きのある方”を選びたい」
「……そうだな」
レンはドアノブに手をかけた。
「続きのある方に、行こう」
扉が開く。
音が、世界に戻ってくる。
階段の軋み。
波の唸り。
風の叫び。
十三人分の息遣い。
黒板の前には、一人の少年が立っていた。
胸ポケットから紙を取り出そうとして、迷っている。
相沢レンだった。
だが、少しだけ姿勢が違う。
少しだけ視線の高さが違う。
少しだけ息の吸い方が違う。
「行こう」
ツムギが、レンの手を握る。
「観測者さん」
「……やめろ、その呼び方」
レンは笑いながら、扉の敷居をまたいだ。
最上階の静けさが背後で遠ざかる。
塔の音が、再び骨に染み込んでいく。
黒板には、さっき書いたばかりの文字が現れ始めていた。
明日の朝までに、救助は来ない
階段を上がる前に、全員の名前を呼べ
その文を、向こうの自分が読み上げようとしている。
それを見届けながら、レンは思った。
――これはやり直しじゃない。
――これは続きだ。
十三人の足音が、また塔を登り始める。
その音を、今度は上からでも横からでもなく、“一緒にいる場所”から聞きながら、相沢レンはチョークの粉の残る指を、少しだけ強く握りしめた。




