第10話 名前を呼ぶ
名簿の紙は、もうほとんど布みたいになっていた。
濡れて、指に貼り付き、角は丸く潰れている。その白い面に、相沢レンが打った黒い点は、ひとつ、またひとつと増え続けた。
十三人の名前の列。
その右側に並ぶ、小さな黒い点の列。
点が増えるたびに、呼べる名は減っていく。
いま残っているのは、六人。
相沢レン。
砂原ユイ。
北条カイ。
ツムギ。
牧野。
米倉シン。
声に出してはいない。名簿にだけ、文字は並んでいる。
塔の中で名前を口にすることは、ずっと避けてきた。名前は重い。呼べば、そこに意識が向き、足元が疎かになる。そう決めて、ずっと「お前」「君」「そっち」と曖昧な呼び方だけでやってきた。
その日、踊り場の黒板に書かれていた言葉は、それをひっくり返すような一行だった。
名は浮き輪
「ふざけてるのか、ほんとに」
牧野がかすれた声でつぶやいた。笑いはもう出ない。喉は乾いて、胸だけがやけに熱い。「浮き輪って、何の冗談だよ」
「溺れてるやつを、名前で掴まえるってことじゃない?」
ツムギが、疲れた顔でそれでも考えようとしていた。「名前呼ばれると、ぎりぎりでも戻れる。そういうの、あるよね」
「名前で呼ぶと、塔に“見つかる”可能性もある」
ユイは黒板を見上げ、平坦な声で言う。「ここまでは、名前を消す運用で安定させてきた。塔のログにも、たぶん名前は残ってない。数字と重さだけ」
「でも黒板は、名簿があるのを知ってる」
レンは胸ポケットに触れた。湿った紙の感触が服越しに伝わる。「名簿を見てるか、もしくは……こっちの『呼び方』を監視してる」
「見てなくても、数は合う」
米倉が眉をひそめた。「生体反応の数、心拍の数、足音の数。いくらでも数え方はある。“何か一つ”を忘れた時に、それだけ落とすのは、いちばん効率がいい」
「名は浮き輪、ね」
ユイは黒板の文字を指でなぞるまねをしてから、レンの方を見た。
「どうする。運用、変える?」
「変えたい」
レンは即答した。喉の奥で、何かが暴れる。「名前を、このまま黙って減らしていくのは……もう、耐えられない」
早乙女レイの名前。
最後尾の少女の名前。
窓ごと持っていかれたあの女子の名前。
踊り場で笑いを封印されて、静かに消えていった子たちの名前。呼ばないまま、点だけ増やしていくのは、あまりにも簡単だった。
「でも、呼べば重くなる」
ユイは事実だけを言う。「喜びと同じ。安堵も、恐怖も、全部質量。名前も、重い」
「浮き輪ってさ」
ツムギが黒板を見上げたまま、小さな声で続けた。「重くても、ないよりマシな時もあると思う。掴むものが何もない時よりは」
「浮き輪の数は減る」
牧野が名簿をちらりと見て、視線をそらす。「逆に、目の前で浮き輪をひとつずつ沈めてる気にもなるけど」
「だったら」
レンは胸ポケットから名簿を取り出した。紙は手の熱でさらに柔らかくなる。
「上がる前に、一度だけ。全員の名前を復唱する。儀式にする。“言ってから、上がる”。それだけにする」
「儀式」
ユイがその単語を反芻する。「運用に組み込むってことね。余計な雑談や慰めに名前を使う代わりに、“一回だけ”のタイミングで名前をまとめて出す。そこで重さを集中させる。あとは四語だけで上がる」
「うん」
レンは名簿を握りしめた。「全員で、囁くくらいの声で。順番に。上がる前に、一回」
「拍は?」
ツムギが小さく手を上げる。「ばらばらに呼んだら、逆に足元ぐちゃぐちゃになる。揃えたい」
「拍は、ツムギが取る」
ユイが即座に決めた。「耳はまだ生きてる。名前のリズムと足音のリズムを合わせる。黒板が“浮き輪”って言うなら、こっちは“メトロノーム”で返す」
「……難しい言葉」
ツムギは笑いながら、小さく指を鳴らした。「でも、わかった。やってみる」
儀式のやり方は、すぐに決まった。
名簿の順番通りに、レンが名前を読み上げる。
死んだ者も、生きている者も、関係なく。
ツムギが一定のテンポで指を鳴らし、その拍に合わせて全員が小さな声で復唱する。
一人ひとりの名前が、一拍ひとつの浮き輪になる。
実際にやってみると、そのリズムは驚くほど階段と相性が良かった。
「はい、一拍目」
ツムギの指が鳴る。
手のひらが打つ小さな音が、塔の骨の中に広がっていく。
「……早乙女レイ」
レンが囁き、全員がそれを追う。
早乙女レイ。
もういない。
それでも、その名が踊り場の空気に漂う。
「二拍目」
「牧野」
まだいる。
今ここで息をしている。
名前を呼ぶ声に、本人が少し肩を震わせる。
「三拍目」
「……」
名簿の一行一行を、レンは震えないように読み上げていく。黒い点のついている名前も、そうでない名前も、一律に。
彼らの声は囁きに近い。
叫び声ではない。
けれど、その囁きは階段に乗って、足裏から塔へと伝わっていくような感覚があった。
ツムギの指の拍が一定である限り、その囁きは乱れない。
囁きが乱れない限り、足音も揃う。
揃った瞬間、床は抜けにくい――それは、やってみてすぐにわかった。
「上がる」
儀式を終えて、いつもの四語が走る。
名前をひと通り呼んだあとで階段を上がると、塔の揺れ方がいつもと違った。
ぎくしゃくと嫌がらせをしてくる感じが、少ない。
足音が揃っているからか、塔としても扱いやすい負荷なのかもしれない。負荷が一様なら、壊しにくい。力を一点に集中させられない。
「……本当に、床が抜けにくい気がする」
牧野が息を切らしながら言った。「気のせいじゃないよな、これ」
「気のせいじゃない」
ツムギが耳に手を当てながら頷く。「音の割れ方が違う。ひとりひとりバラバラに歩いてる時は、鉄板の下で波みたいに振動が走ってた。いまは、一枚の大きい板で受けてる感じ」
「塔を“だませてる”?」
レンの胸に、ほんの少しだけ希望のようなものが灯る。
黒板の「名は浮き輪」を、逆手に取れたような気がした。
「だませてるというか」
ユイは慎重だった。「塔は名前そのものより、“バラつき”を餌にしてる。感情の揺れ、テンポの乱れ、そういうものを拾って落下ポイントを決めてる。名前を儀式に閉じ込めれば、バラつきを減らせる」
「だったら、続けよう」
レンは息を整え、踊り場につくたびに名簿を広げる。
名を呼ぶ。
拍を取る。
足音を揃える。
四語で上がる。
それを繰り返すうちに、塔の鳴り方は少しずつ変わっていった。
突然の揺れは減り、大きな崩落の前には必ず小さな「前触れ」が挟まるようになった。
ツムギの耳鳴りが、前触れを拾い上げる。
ユイの指示が、それに対して最適な足の置き場を決める。
レンの声が、その動きを四語で揃える。
名の儀式は、塔をだます最良の手段になった。
そう思えた。
その「一度」を迎えるまでは。
◇
それは、雨が少し弱まった階層で起きた。
縦穴を渡る梁はもう見えない。
鍵は北条の腰にある。
補助装置の恩恵はとっくになくなっていて、揺れはまた気まぐれに激しくなっている。
踊り場の黒板には、こう書かれていた。
名を忘れるな
「……あからさまだな」
牧野がため息交じりに言った。「試してきてるだろ」
「だとしても、やるしかない」
レンは名簿を取り出した。
紙はさらに薄くなり、指で押さえる場所には自分の指紋の跡が見える気がする。
「ツムギ」
「うん。いける」
ツムギは耳を軽く押さえ、指を構えた。
拍を取る。
指先の小さな音が、まだしっかり聞こえる。耳鳴りに飲み込まれていない。
「じゃあ、いくぞ」
レンは深く息を吸い、名簿の一行目に目を落とした。
「一拍目」
ツムギの指が鳴る。
「早乙女レイ」
囁きが重なる。
いない人の名が、塔の中に短く浮かぶ。
「二拍目」
「……津田」
かつてのクラスメイトの名前。もう、とっくに点が打たれている。
「三拍目」
「牧野」
名前を呼ばれ、牧野がかすかに肩を揺らす。
彼の唇が、わずかに動いた。自分の名前を、自分でも復唱する。
レンは、その僅かな動きを目の端で見ながら、次の行へと視線を滑らせた。
「四拍目」
「……北条カイ」
低い体温の名前。
「五拍目」
「相沢レン」
「六拍目」
「砂原ユイ」
「七拍目」
「ツムギ」
「八拍目」
「米倉シン」
囁きが、踊り場の空気に薄く重なっていく。
一人ひとりの名前が、一拍ごとの浮き輪になり、その浮き輪が塔の揺れから彼らの足を守っている――そんなふうに信じたかった。
「以上。上がる」
儀式を終え、レンは名簿を胸に押し当てた。
四語が走る。「上がる」「止まる」「見る」「掴む」。
その階段は、最初の二十段ほど、信じられないほど安定していた。
足音が揃う。
揺れが素直に伝わる。
塔は嫌がらない。
レンの中の恐怖が、ほんの少しだけ薄くなっていく。
――やれる。
――このままなら、全員で。
そんな考えが、喉の奥のどこかに霞のようにたまっていく。
それを自分で否定する余裕が、少しずつ削れていく。
「右の端、二段先、薄い」
ツムギの声が飛ぶ。
ユイが「中央」と返す。
重なった足が同時に段の継ぎ目を踏む。
板が悲鳴をあげかけて、やめる。
助かった。
その瞬間だった。
「……あれ?」
ツムギが、小さく首をかしげる。
「どうした」
レンが訊くと、ツムギは困ったように笑った。
「今の名前のリズム……ひとつ、足りなかった気がする」
心臓が、一拍遅れて脈打った。
レンは足を止めそうになり、必死で踏みとどまる。止まれば塔が選ぶ。止まるな。上で確認しろ。そう自分に言い聞かせる。
「誰の名前だ」
北条が短く言う。
誰もすぐには答えられない。呼んだ。呼んだはずだ。名簿を見ながら、一人ずつ。
早乙女。津田。牧野。北条。相沢。砂原。ツムギ。米倉。
八拍。八人分。
死んだ者も、生きている者も。
「……本当に、ひとつ足りなかった?」
牧野が、自分の名前を確かめるように呟く。「俺、呼ばれたよな」
「呼んだ」
レンは即答した。「牧野の行、ちゃんと」
「でも、拍が。指が」
ツムギの手が震える。「八回じゃなくて、七回だったような……いや、数え間違いかも」
「落ち着け。上で――」
ユイが言いかけた瞬間。
床が、鳴った。
今まで何度も聞いてきた、あの嫌な音。
鉄が「ここまで」と言う時の音。
塔が、「今だ」と判断した時の音。
その音は、隊列の中央あたりから聞こえた。
「……あ?」
牧野の足元の段が、波打つように沈んだ。
彼の靴が鉄板から浮き、膝が折れる。
結ばれていたロープが一瞬、張りつめる。
「掴む!」
レンが叫ぶ。
北条が支点を作り、米倉が結び目を押さえる。
ツムギが「中央」と絞り出し、ユイが「引き寄せ」と命じる。
だが、段そのものが、牧野を嫌っていた。
鉄板の継ぎ目が彼ひとり分だけ薄くなり、ひとり分だけ深く沈む。
ロープを引けば引くほど、彼の足は空を掴む。
支点を増やせば増やすほど、板は彼だけを選んで外側へ傾く。
「おい、待てよ!」
牧野が笑うみたいな声を出した。「こういうの、なしだろ!」
ロープが、指から滑りそうになる。
レンの掌に血が滲む。
ツムギの耳鳴りが悲鳴に変わる。
ユイの合図が、間に合わない。
「名前、呼んだだろ!」
牧野が叫んだ。
それは塔に向けた叫びなのか、自分たちへなのか、誰にもわからない。
次の瞬間、板がひときわ大きく沈み込み、牧野の身体は縦穴の闇に吸い込まれた。
ロープの結び目が悲鳴とともにほどける。
手すりに叩きつけられた音が、すぐに遠ざかる。
静寂。
足元の段は、何事もなかったように戻っていた。
まるで最初から、そこには誰もいなかったみたいに。
踊り場の壁に、新しい黒板があった。
そこには、こう書かれていた。
数は合った
レンの膝から力が抜けた。
喉の奥から、何かがこみ上げる。
今度こそ吐きそうになって、歯を食いしばって堪える。
「……俺が」
声が震える。「俺が、忘れたのか」
「違う」
ユイが即座に否定した。「名簿を見て読んだ。順番は合ってた。誰の名前も飛ばしてない」
「でも、拍が」
ツムギが、両手で耳を覆った。「七回しか鳴らせてない気がしたの。最初の拍か、どこかで一回、指が止まった気がして」
「塔は、言葉じゃなく“回数”で測った」
米倉が黒板を見た。「数は合った。でも、“拍”がひとつ足りなかった。塔にとっての“名前”は、音の記録と回数の一致。そこにズレがあったやつを落とした」
「つまり、“忘れた”んじゃなくて、“揃えられなかった”」
ユイが唇を噛む。「儀式は、塔にとっても“ルール”になってる。ルールを破ったやつを、塔は正確に見てる」
「じゃあ、俺がミスしたせいで」
ツムギの肩が震えた。「私が……」
「違う」
レンは名簿を握りしめたまま、ツムギの肩に手を置いた。指が震えているのを自覚しながら、それでも言葉を出す。
「ミスしたのは、俺だ。リーダーだからとか、そういうことじゃなくて。俺は“忘れない”って決めたのに、拍の数を確認しなかった。もう一回数えようって、言えなかった」
黒板の「数は合った」が、彼らの背中を冷たく撫でていく。
「……次は、忘れない」
レンは名簿にひとつ、新しい点を打った。
牧野の名前の横。
あまりにも細い線でしか、彼の存在を残せない。
「儀式をやめる?」
ユイが問う。
レンは首を振った。
「やめない。やめたら、塔の好き放題になる。さっきまで、確かに“だませてた”。それは事実だ。ここでやめたら、牧野の分の“浮き輪”も捨てることになる」
「でも、間違えたらまた」
「間違えないようにする」
レンは自分の声が無理やり強くなっているのを感じた。
強がりだ。わかっている。それでも言う。
「次からは、呼び終わったあとに“確認の拍”を取る。ツムギの指だけじゃなくて、全員で足を一回鳴らす。名前の数と、拍の数と、足音の数を揃える。三重チェックだ」
「三重チェック」
米倉が小さくうなずいた。「塔の“学習”に対抗するには、それくらいの冗長性はいるな」
「それと」
ユイが言葉を継いだ。「誰か一人が指揮を取り続けるのもリスクだ。拍を取る役を、交代制にする。ツムギの耳が限界なら、次は私。次はレン。塔が“耳”を狙ってきた時の保険」
「耳、まだいける」
ツムギは顔を上げた。目の周りは赤いが、瞳は濁っていない。
「牧野くんの分も、ちゃんと拍を取る。さっきは……ごめん」
「謝るのは上でにしろ」
北条が、最後尾から短く言った。声は低く、しかし優しかった。
「ここで謝ってたら、塔に“終わった話”にされる。上に行ってから、いくらでも謝れ。笑って、殴って、それから泣け」
レンは、北条のその言葉に救われるような気がした。
上で、謝る。
上で、名前を呼ぶ。
その約束がある限り、ここで諦めるわけにはいかない。
黒板の「名は浮き輪」と、「数は合った」。
二つの言葉が、背中に貼りついたままだ。
「……もう一回やろう」
レンは名簿を握り直した。
手のひらに、紙の柔らかさと、自分の体温と、さっき落ちていった重さが混ざっている。
「ここで、もう一回。牧野の名前から、呼び直す」
ツムギが指を構えた。
目は真っ赤だが、その指先は真っ直ぐだった。
「一拍目」
指が鳴る。
「牧野」
全員の囁きが重なる。
もういない者の名を、もう一度、ここで浮かべる。
「二拍目」
「北条カイ」
「三拍目」
「相沢レン」
「四拍目」
「砂原ユイ」
「五拍目」
「ツムギ」
「六拍目」
「米倉シン」
名は減っている。
浮き輪の数は、確実に減っている。
それでも、その一つ一つはまだここにある。
「確認の拍」
レンが言う。
全員が同時に、右足を軽く床に打ちつけた。
小さな音が一つ。
塔の骨に、六人分の足音が、一拍だけ正しく届く。
揺れは――来なかった。
「上がる」
レンは震える声を押さえ、前を見た。
階段はまだ続いている。
名を呼ぶ儀式は、これからも続ける。
名前は浮き輪だ。
塔は言葉を測っている。
だとしても、こちらだって、名前で互いを掴まえ続ける。
「次は、忘れない」
それは自分自身への宣言でもあり、塔への挑戦でもあった。
四語が、また走る。
上がる。止まる。見る。掴む。
名簿の黒い点は増え続ける。
呼べる名は減り続ける。
それでもレンは、最後の一つになるまで、名前を呼ぶのをやめないと決めた。
塔の中で、六人分の足音と、六つの名前が、まだかろうじて揃っていた。




