第1話 波と足音
風が塔を叩いていた。
嵐の夜、海上避難塔の外壁は、まるで怒り狂った獣に殴られているように震えている。
金属のきしみが天井を這い、吹き抜けの隙間から潮の匂いが満ちていた。
相沢レンは踊り場の鉄柵にもたれ、名簿を作っていた。
濡れた紙にボールペンのインクがにじむ。人数は十三。年齢も性別もばらばら。
避難訓練で偶然集まった十三人の“生存者”たちだった。
「一層ごとに、一人──?」
誰かが黒板を見上げてつぶやく。
塔の管理室の壁に貼られた古びた掲示板。その上に濡れたチョークで書かれた一文があった。
“1階層上がるごとに、一人落ちる。”
冗談か、それとも警告か。
レンは一瞬、誰かの悪ふざけかと思った。だが、その筆跡は震えていた。笑いながら書いた文字ではない。
「こういう時、規則は“ゲーム”じゃなく“条件”だよ。」
砂原ユイが言った。
短く切った髪が濡れて額にはりついている。彼女は、落ち着いていた。
足場の悪い階段の上で、全員が右往左往する中、ユイだけは冷静に状況を見ていた。
「条件、って……?」
「つまり、“守らなきゃ死ぬ”ってこと。」
その一言で空気が凍る。
吹き抜けの底から、波の音が響いてくる。
潮が塔の下層を完全に飲み込んだ音だ。
北条カイが前に出た。筋肉質で、短気そうな目をしている。
「なら、さっさと上へ行くしかねえだろ。下はもう沈む。ここにいたら、全員アウトだ。」
「でも……。」と誰かが言いかける。
レンは顔を上げた。
「上がるとしても、手順を決める。誰が先に行くか、誰が持ち物を運ぶか。人数を数える。」
そう言って、紙の名簿を指でたたく。
波音の代わりに、紙の湿る音が響く。
「……リーダー気取りかよ。」
米倉シンが皮肉っぽく笑う。
白い息が照明の光を切り取った。
その手には、油まみれの図面が握られていた。
「ブレーカー室の設計図を見つけた。揺れの原因、ここだ。制御が生きてる。つまり、塔の電力系統がどこかで狂ってる。」
「だからどうするんだよ。」
「電源を落とせば、少なくともこの“揺れ”は止まる。……けど問題は、そこまで行くルート。」
米倉が図面を広げる。線は波のように歪み、ところどころに赤い印がつけられていた。
ユイが指でなぞる。「この赤、何?」
「制御階層。塔の“心臓”部分。下から四層目。」
「今いるのは?」
「三層目。」
レンは短く息をついた。
つまり、あと一層上がれば、そこに到達する。
だが、黒板の言葉が脳裏にこびりついて離れない。
一層ごとに、一人。
「それでも行くしかない。」レンは言った。
「ここに留まれば全員沈む。上がれば、少なくとも“可能性”は残る。」
「命の計算か。」
カイの声には棘があった。だが誰も否定しない。
水音が壁の下から聞こえていた。塔が、沈み始めている。時間がない。
全員が階段に足をかけた。
鉄の手すりは冷たく、ぬるりとした潮気がまとわりつく。
照明は断続的に点滅し、暗闇と光が交互に彼らの顔を切り取る。
「ツムギ、大丈夫か?」
小柄な少女が、踊り場で立ち止まっていた。
ツムギ。高校生らしき年齢で、震える手で耳を塞いでいる。
「聞こえる……。」
「何が?」
「階段が、ひとり分の重さを嫌ってる。」
その瞬間、電灯が一斉に閃いた。
金属音、足音、叫び。塔が軋む。
誰も何もできなかった。
足元のタイルが剥がれ、端にいた男がバランスを崩す。
伸ばした手が空を切り、次の瞬間、波の中に吸い込まれていった。
音が消える。悲鳴と沈黙。誰も突き飛ばしていない。
ただ、塔が、ひとり分を“落とした”。
ユイが唇を噛む。「……一層ごとに、一人。」
レンは震える手で名簿に黒い点を打った。
十三は、十二になった。
インクが滲み、点が黒い血のように広がる。
塔は、動いた。
それが、彼らへの“合図”だった。
*
その後の沈黙は長かった。
外の風が少し弱まり、潮の音だけが続いていた。
皆が息を潜めている。波打つような恐怖が、全員の足を縫いとめていた。
「……誰も、突き落としてないんだよな?」
誰かが言った。
ユイが首を振る。「あれは自然落下。塔の構造が限界。」
「でも、どうして“ひとり分”なんだ?」
その問いには誰も答えられなかった。
レンは名簿を握りしめたまま、波の底を見下ろす。
闇が渦を巻いている。そこに、人の形を探すのをやめた。
「上がろう。」レンは言った。
「彼の分まで。」
沈黙の中、誰かが小さくうなずく。
人がひとり消えた空間は、思ったよりも広かった。
*
階段を上るたびに、塔は軋む。
波が下層を満たし、鉄骨が悲鳴を上げる。
手すりの温度が上がった気がした。いや、それは自分の体温か。
「おい、これ見ろ。」
カイが指さした先、壁に亀裂が走っていた。
そこから漏れる水。淡い光のように、しずくが連なっている。
「まだ浸水してんのかよ。」
「いや……これ、下じゃない。」
米倉が図面を覗き込み、眉をひそめた。
「この階層、配管の中を水が通ってるはず。つまり、内部水圧が逆流してる。」
「内部……?」
「塔そのものが、呼吸してるみたいに。」
その表現に、誰も笑えなかった。
塔が“生きている”なら、あの黒板の文も、ただの警告じゃない。
「一層ごとに、一人。」
誰かが呟くたび、波音が答える。
まるで肯定のように。
*
夜半、四層目に到達した。
そこは制御室へ続く踊り場。
金属扉には錆びついた警告板があり、赤いランプがまだ点滅していた。
「ブレーカーは奥だ。」米倉が言う。
その声にレンがうなずく。
だが、扉を開ける前に、ユイが立ち止まった。
「待って。」
「どうした。」
「今、誰かが……下で、歩いた。」
全員の足が止まる。
波の音ではない。確かに、人の足音。
しかも、リズムが一つずれていた。
十三のはずが、十二。
けれど、足音は──十三。
「そんな……。」
ツムギが泣きそうな声でつぶやく。「戻ってきた……の?」
塔が低く唸る。
扉の奥で、何かが動いた。
それが風か、水か、あるいは“誰か”か、わからない。
レンはゆっくりと振り返る。
階段の下。そこには、誰もいなかった。
だが──波音の合間に、確かに聞こえた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
足音が、彼らのすぐ後ろまで、上がってきていた。
「……全員、上がるぞ。」
レンの声は震えていなかった。
名簿を握りしめた手が、血でにじむ。
それでも、前を見るしかない。
「上がらなければ、全員沈む。」
その言葉だけが、塔の闇を押し返すように響いた。
誰もが黙って従う。
鉄の階段を、十二の足音と──ひとつの“影”が、ゆっくりと登っていった。
*
明滅する灯りの下で、塔はわずかに傾いた。
海が吠える。
そして、また一つ、鉄板が落ちる音。
レンは名簿に目を落とす。
黒い点が、ひとつ増えていた。誰が打ったのか、わからない。
十三は、もう、十一になっていた。




