8、フィーラ
足を止めて、魔法の残滓がさっぱり青空に溶けてしまっても、クレアとゾーラはしばらくほうけたようにその場で固まっていた。
あまりにお粗末なダンスに呆れかえってしまったのかもと不安になったとき、クレアが両腕をおもむろに胸のあたりまで持ち上げながら、あんぐり開けた口に深く息を吸った。
「フィーラ!」
「お、お嬢様……!」
「だって、もう、そう呼ぶしかないわ! これほど愛らしい妖精がほかにいるかしら!」
「ですがそれは、女性が女性に捧げる言葉ではありません! 少々はしたないですよ」
「まあモルド、性別ごとに使用を定められている言葉があるだなんて知らなかったわ。いったいどこの国の法律なのかしら。少なくとも、わたくしの知るなかにはないわね」
意外なほど慌てだしたアドラーシさんと、興奮と憤慨に赤くなったクレアが言い合う。
彼女の叫んだ『フィーラ』が原因ということはわかるけれど、わたしにはその言葉がなにを意味するものなのか検討もつかない。
「妖精語だよ。『可愛いひと』とか『愛しいひと』みたいな意味で、特別な相手の愛称に使われる。むかーしの、ラブラブだったある妖精王夫妻の奥さんの名前が由来らしい」
戸惑うわたしに、ゾーラが教えてくれる。
「妖精語……!」
「そうよ。人間だと恋人や婚姻相手に使うばかりだけれど、妖精たちのあいだではもっと気軽に使われているらしいの。魔法を使うあなたって、本当に、妖精そのものといったお姿だったわ。愛らしくて、神秘的で……わたくしはあなたをこそ『フィーラ』と呼びたい」
熱心なまなざしに見つめられては、悪い気もしないし、断る理由もない。クレアの後ろで頭を抱えるアドラーシさんが見えたけれど、彼もそれ以上止めるつもりはないようだ。
「な、なんだか照れるけれど、うれしいわ」
「そう、じゃあオレもそう呼んじゃおうかな。あー、クォルツくん、許してくれる?」
唐突なゾーラの矛先に、向けられたクォーツよりも先にわたしの肩が跳ね上がる。
こっそりと、目だけを動かしてようすをうかがってしまう。そんな呼び方許さない、なんて堂々と言ってくれるひとではないとわかっているけれど、わたしを想っているのなら、ここであっさりうなずくことはないはず……
「オードリーに聞けよ」
期待は一瞬で打ち砕かれる。
彼は顔をしかめることすらなかった。
「……いいわゾーラ。『フィーラ』でも『可愛いひと』でも『愛しいひと』でも、好きなように呼んでちょうだい」
「……りょーかい。じゃ、オレたちのフィーラのために、式を組んでいきますかー」
ことさら明るい声を出しながらも、ゾーラはこちらを向きざま申し訳なさそうに眉を下げた。
わたしはそっと首を横にふる。
実際、『フィーラ』をはじめて知ったわたしからすれば、変わったあだ名が増えたという程度の感慨だ。アドラーシさんが感じているような抵抗もない。むしろ二人に受け入れてもらえた証のようで、うれしくさえある。
……でも、クォーツの態度は見事に胸に突き刺さった。
クレアたちが手伝ってくれたおかげで、自動送風の魔法式は想定よりずっと早く組み上がった。
せっかく信頼してくれたのだから、みっともないところは見せられない。クォーツのことはいったん頭から追い出して、あとはひたすら甲板に陣を刻みつけた。
赤い陽が海にくっつこうかというころ。
無事に魔法が発動したことがたしかめられて、わたしたちは冷えきった甲板の上からようやく解散することになった。
夕食の時間まではまだ少し時間がある。
「ずっと待たせてしまってごめんなさい。寒かったでしょう、途中で部屋に戻ってもよかったのに」
「そういうわけにもいかないだろ。俺はあんたの杖なんだし」
たしかに杖は肌身離さず持つものだけれど、彼は人間だし、本当に肌身離さずというわけにもいかない。「わたしたち、本当になにか契約を結んで一緒にいるわけでもないのだし、あなたはあなたの過ごしやすいようにしてもらっていいのよ」そう言っても、彼は素知らぬ顔をして聞こえていないふりだ。
結局、まっすぐ自分の部屋には戻らずにわたしの部屋のある階でおりて、わたしが部屋の前にたどり着くまでしれっとついてきた。
「うれしいけれど、見送りなんて大丈夫。つぎからはそう気を遣わないで。それじゃあ」
本当は、甲板でのやり取りがまだちくちくとしていて、なるべく早く別れたかった。
それなのにクォーツは、扉を開けたわたしを押しやるようにして一緒に部屋のなかまで入ってきてしまう。
後ろ手に握られた白い杖の先で、あっけなく扉が閉ざされる。
鍵のかかる音がした。
「見送りじゃない。し、こんな簡単に押し入られといてなにが『大丈夫』だよ」
「そ、それはあなただから油断して」
「ゾーラにも入られただろ」
クォーツは足を止めずに近づいてこようとするから、わたしは後ろへ後ろへ追い立てられることになる。
あげくベッドに膝裏を打ちつけて、悲鳴もあげられずふとんにあおむけに倒れる。
身を起こすよりも先に、クォーツに乗りかかられた。
わたしの身体ごと、ベッドが沈みこむ。
どこも触れられていないのに、檻のようにおろされた腕や脚のせいで逃げ出せない。
「かくまってほしいと言われたのよ」
「……やっぱりな。知らないあいだに打ち解けているから、そうじゃないかと思った」
「彼からも、不用意に男のひとを入れるべきじゃないって注意されたわ」
「納得はしていない顔だな。いまも、こんなめにあってるのに」
「こんなめ? なにも痛いことはされていないけれど」
「そうか。たしかに痛いめにあわないことには、どうしようもないかもしれないな」
呆れたようなため息。
見おろすクォーツの瞳は、いつもより冷たいのに、どこか熱をおびている。それだけでまるきり知らないひとに覆い被されているような気がして、いまさら腰がざわつく。
「あんたにとって、はじめて親しくなった男が俺だろ。最初のころは名前呼ぶくらいで赤くなってたんだから、慣れてないのはわかる。森育ちで、そこらへんの情緒がいまひとつなのも。だからまあ迂闊なのは仕方ない。そこはべつに、あんたが悪いことじゃない」
でも——と。
おもむろに顔が近づいて、耳もとにかすかに吐息が触れた。それだけで背筋に、力が抜けるようななにか不思議な感覚があって、
「あいつに『フィーラ』って呼ばせたのは、俺を嫉妬させようとしたからだったよな」
甘やかな感覚に浸らせない、鋭い声。
「わざとなら容赦しない」
唸るように低いのに、杖を他人に突きつけるときの声とはまったく異なった。ずっと奥深いところに、どろどろとした熱源がある。
それに溶かされてしまったように、うまく頭が働かない。
「またキスするの?」
くちびるが触れようとしていた。
そのはずだったのに、たずねたとたん、クォーツはぱっと身を起こしてしまった。
「しない」
やけどしそうなほどの熱がいきなり離れて、思わず身震いするところに、短く言い捨てられる。
いったいなにが起こったのか——起こらなかったのか、混乱するわたしをそのままに、クォーツは部屋から出ていってしまった。




