9、ようこそフェリシテ
悪夢を見た。二日続けてだ。
急いで解かなきゃいけないのに、気まぐれな魔法式が勝手に数字や文字を移動させてしまうせいで、見返すたび答えが合わなくて何度も最初から解きなおすことになる。
進んで戻って、進んで戻って、気づけば足踏みばかりで一歩も前には進めていなくて。
そのうち足の裏から根が伸びて、地面にしっかり縫いとめられてしまう。動けないわたしの足もとをネンネが、クォーツが、なにか楽しそうに話をしながら通り過ぎていく。
「——フィーナ、オードリーちゃん」
「へっ」
自分の喉から飛び出したしゃっくりみたいな声におどろいて、現実に引き戻される。
濃い緑色がこちらをのぞきこんでいた。
やっぱり右のほうだけ、ほんのり赤みがかって見える。光の加減でまるきり色が変わる宝石があったはず、なんて思ううちに、ぼやけていたゾーラの輪郭がはっきりと結ばれる。
「ごめんなさいゾーラ……なにか言った?」
「いーや、名前を呼んだだけ。なんとなく、心ここにあらずー、ってかんじだったから」
「ああ……昨晩の夢を思い出していたの」
甲板には朝日が照っている。
もうじき水平線に現れるはずのフェリシテの街並みを待って、船縁には先生方やクレアたちが肩を並べている。そのなかには、いまはとなりに立ちたくない後ろ姿もある。
そんなふうに人並みに景色を楽しもうとするひとじゃないくせに。こういうときは大抵みんなの後ろで、俺は興味ありませんけど、みたいな顔をしている。彼のほうも、わたしのとなりに立つことを避けているのだろう。
「どんな夢だか聞いても?」
「解けない魔法式を、ああでもないこうでもないって、延々と解いているの。……昔から熱のあるときによく見る夢なのだけれど」
「熱? もしかして、いまも」
「いいえ、たぶんちょっと、知恵熱が出ていたのだと思う。いまはすっかり大丈夫よ」
「半分うそで半分ほんとってところかな。ね、せっかくだしもっと近くで海を見よう」
さらりと本心を射抜いて、ゾーラはわたしの手を取った。
そのまま船縁へ、クォーツのほうへと引っぱられる。思わず足を錨のように踏んばるけれど、わたしの耳もとに「大丈夫」と囁いて、彼はクォーツのとなりにみずから立った。
そうして並ぶと、クォーツよりもゾーラのほうがいくらか背が高いのがわかった。
肩の大きさ、厚みもゾーラのほうが上回っている。彼をあいだに挟めば、クォーツは覆い隠されて、いまより視界から遠ざかる。
「ありがとう」
ゾーラの右に進み出ながら小声で伝えると、赤光りする瞳がにっこり細められた。
微笑みを返してから、手すりに頬杖をつく。目の前すべてが空と海でいっぱいになって、気づけばほっとため息をついていた。
クォーツを見たくない。
そんなふうに思うときがくるなんて考えてもいなかった。出会う前からずっと、彼のことを追いかけつづけて、小指を絡めてからはもう二度と離さないつもりでいたのに。
だいたい、情緒がいまひとつってどういう意味? どうしてキスしなかったの? あのときわたしがたずねてなければ、たぶん、絶対くちびるはぶつかっていたはずなのに。
本当はわたしのこと、好きじゃないとか……まさか。だったら、ゾーラに『フィーナ』と呼ばせたことをあんなに怒らないはずよね。怒っているなら、嫉妬しているなら、それってやっぱりわたしのことが好きってことにならない?
「フィーナ、しりとりしよう」
「……え?」
突拍子のない提案に、思わず手のひらからあごが浮く。
「しりとり。フェリシテ名所名物縛り」
「ちょっと待ってよ。はじめて行くところなのに、その縛りは厳しすぎるんじゃない?」
「オレだってはじめて行くよ。それにきみ、予習は入念なタイプだろ? 自信もそれなりにあると見た。顔がにやついてる」
「うそ」
たしかに負ける気はしないけれど、にやつけるほど顔はゆるんでいなかったはずだ。
「うん。うそ」
ゾーラはわたしとひじを突き合わせるように頬杖をついた。
「いや、やっぱりうそじゃない。いま笑った」
「それはずるいんじゃないかしら」
「それってどういう〝ずるい〟? オレがかっこよすぎて、惚れちゃいそうって?」
石みたいだった頬があっけなくほぐれた。
やっぱり手品師みたいだ。魔法を使わなくても、言葉だけで心のなかの重しを笑いに変えてしまえるなんて。ううん、これだってちゃんと相手を観察して計算されたことなんだから、魔法って呼んでいいかもしれない。
「まずオレからね。ロズガレット」
「ロズガレット! 薔薇の谷、ナランタ地方の薔薇入りクッキーね! それじゃあわたしは〝と〟……と、と、……トルーパ!」
「ああ、トルーパフルーツ。たしかにトルーパといえばフェリシテ産だね。温暖で乾燥してるし、やっぱり柑橘系がよく育つのかな」
「さあ、つぎはあなたの番よ。ゆっくり考えていいわ、負ける気しないもの。今日のために、片っ端から旅行記を読みあさったの」
「蝶」
三人目の参加者がしりとりを終わらせる。
後ろをふり返るより先に、わたしとゾーラの肩にそれぞれ手が置かれて、ゾーラだけがあちら側に向かって乱暴に押しのけられる。
分け入ってきた横顔が、じろりとわたしを睨みおろした。
「クォーツ!」
「優等生はしりとりで交流するものなのか。まあ、終わったからあいつは用済みだな」
「用済みって……ゾーラになんてこと言うのよ! だいたい、用があるかどうか決めるのはあなたじゃなくてわたし。それで、わたしはまだ彼とお話ししたいと思ってるわ!」
クォーツはくちびるを潰して黙りこんだ。
眉を動かさず、まぶただけで細められた青は一見冷淡なようでいて、奥からほの暗い熱がしとしと溢れていた。昨日、ベッドに押し倒されたときに浴びせられたものと同じだ。
鋭利な言葉を投げられるよりも、よほど効果的だった。わたしは慌てて彼の耳を引っぱって、ゾーラに聞こえないよう小声で言う。
「ちがう。わたし、クォーツをいやな気持ちにさせようと思ってゾーラと話したんじゃないわ」
「わかってる」
ため息が落とされた。
「わかってるけど、ままならないんだよ」
「……こっちはわからないし、ままならないわよ」
「オレのほうはだいたいわかったよ。それで、ひとまず思い通りってところかな」
クォーツの奥からゾーラがウインクする。
「ほら、フェリシテが見えてきた」
わたしたちの視線を爪の先に集めて、ゾーラが海の向こうを指差した。
とんがり屋根が、背比べをするように次々と水平線を突き破る。しだいに明らかになる街並みはピンク、ブルー、イエロー……幼いわたしが塗り絵をしたみたいにどこもかしこも鮮やかで、裾のほうでは無数の漁船や荷船が所狭しに真っ白な帆をなびかせていた。
自然と、つま先立ちになって身を乗り出していた。潮の香りに、パンのにおいや人々の笑い声まで混ざって感じられる気がした。フェリシテの東玄関、ツェルタッツェ港……旅行記に添えられてあった絵より何倍も大きくて、まぶしくて、たぶん永遠に忘れない。




