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88.「帰る」と言う勇気を、伊織は持っている

 哲也の事件の終幕から二日半の間、伊織は学校に行くことができなかった。伯父夫婦の葬儀と警察での事情聴取と、その他なんやかやの細ごまとした手続きや作業に追われ時間が経つのも忘れるぐらいの慌ただしさで、ほかのことをじっくり考えているいとまもないほどだった。

 伊織が学校に行けないことに申し訳なさそうな顔をしながら、楠見はかなりのところ、伊織に付き合ってくれた。葬儀の行われる世田谷の親戚の家に付き添って挨拶をし、警察署に連れていき、書類作業を手伝い、たまにうっかり気疲れを顔に出す伊織に「大丈夫か? 無理はするなよ?」と声を掛け。


 楠見の仕事量は伊織の比ではないほどのはずなのに。自分のほうこそ申し訳ない気持ちでいっぱいで、けれど「力になる」と言ってくれた楠見の言葉が本当であることを何度も再確認しては、ほっとした気持ちになる自分に苦笑する思いだった。


 そんな二日間だったので、ハルやキョウともまともにゆっくり顔を合わせていない。

 けれど顔を合わせないのには、もうひとつの理由があった。


 ハルとキョウもまた、学校を休んでいた。神剣を振るうのに多大なエネルギーを要するので、キョウは大きな仕事が終わった後はしばらく眠らせておくのだという。

 ハルはその付き合いだそうだ。


「いつものことだから、心配は要らないよ。キョウは物凄く眠たがりなんだよ。目が覚めたらすっきりしてるからさ」


 なんとなく言い訳めいたような、フォローするような口ぶりのハルに、逆に「もしかしたらキョウは本当に具合が悪いのでは……」と心配になったりもした伊織である。


 だから。

 三日ぶりに、午後からだが学校に行けた水曜日の放課後。


 学校から帰ってきて、マンション一階の喫茶・ベルツリーの窓の向こうにキョウの姿を見つけた時は、部屋にカバンを置いてくることも忘れて扉に飛びつき店内に入っていた。


「キョウ!」


 ベルを鳴らしながら勢いよくドアを開けた伊織に、キョウはジャガイモの皮剥きをしていたらしい手を止めて、


「おお。お帰りー」


 日曜日の出来事も、その後の二日の空白もなかったかのように、自然に笑う。

 そうしてまた、三日ぶりの再会にも特段なんの感情も表わさずに包丁を動かしだしたキョウに、けれど伊織もなんとなく、それまでのいろんなことを忘れてごく平静な心持ちになる。

 それは日常の一コマであるかのような。特別な事件など何も起こっていなくて、毎日普通に繰り返される光景を、いつものとおりになぞっているだけのような。


 そう。事件は終わって、みんな自分の場所に帰ってきた。そうして伊織も帰っていくのだ。

 けれどそこは、事件の前とまったく同じ場所ではないはずだ。事件の前とは違う自分になったはずだ。だから、区切りをつける――「帰る」と言う勇気を、今の伊織は持っている。


 テーブルに付き、キョウの斜め向かいに腰を下ろすと、

「あのさ、キョウ」


 微笑みながら水とおしぼりを置いていった鈴音にコーヒーを注文して、伊織は出来るだけ普通の会話のように話しかけた。

 キョウはジャガイモの皮を剥く手は止めずに、目だけ上げる。


「いろいろと、どうもありがとう」

「ん? 別に……」


 軽く頭を下げた伊織を見て、キョウは予想どおりの返事をして手元に視線を戻す。


「それでさ」

「ん?」

「いろいろと手続きも済んだし。アパートに戻るよ。長いこと、お邪魔しました。本当に、ありがとう」


 また頭を下げると、キョウは一瞬手を止めて、小さく首を傾げた。

「別に、いつまでいたっていいのに」


「うん……だけど、そうそうお世話になってばっかってわけにも行かないよ。俺も、ちゃんと自分で生活することは考えなきゃなって」


 キョウの目を見て言う。と、キョウは、


「そっか」

 わずかに笑顔を見せて、頷いた。


「だけどさ」そんなキョウから少しばかり視線を離して、伊織はテーブルに置いた手を見つめるようにして、「たまに学校の後でここに来て、こんな風におしゃべりして行っても、いいかな。それに、もしも良かったら休みの日に遊びに来たりさ。一緒にご飯食べたり、今はどんな仕事してるの? って聞いたり。もしかして俺の、能力? ……のことでちょっと困ったりしたら、相談してもいいかな」


 言ってキョウへと視線を向けると、キョウは一瞬伊織の目を見て、それからまた笑った。


「ん。いいよ」


 ホッと肩の力を抜いた伊織のほうへと、キョウはジャガイモがてんこ盛りに載ったボウルを押しやる。


「そんでさ、たまにジャガイモの皮、剥いたりしねえ?」

「あ、……はい」


 返事をしながら伊織は、可笑しな気持ちになった。勉強に、アルバイトに、生活に。頑張って。たまにこの店に来て、キョウと一緒にジャガイモの皮を剥く。なんて素敵な高校生活じゃないか。


 思わず笑ってしまったその時、入口のベルが鳴る。


「ああ、いたいた。伊織くん――」


 言いながら厚い封筒を手にした楠見が店内に入ってきて、伊織へ、それからキョウへと目をやって。


「キョウ――お前は『体調不良』で学校を休んでるんだと思ったんだけどな」


 キョウの隣に腰掛けながらそう言う楠見の小言にも、何かしらに安堵するような、どこか暖かい雰囲気が混じっていた。

 キョウは軽く横目で楠見を見上げて。


「さっき治ったんだ」

「そうか。それじゃ、明日っから学校に行けるな」


 にっこりと笑う楠見。キョウは少々バツが悪い顔で再びジャガイモへと視線を戻した。

 鈴音にコーヒーを注文して、楠見は伊織に向き直る。


「で、伊織くん。哲也くんが目を覚ましたって、警察から連絡をもらったよ」


 哲也の名前が出て、伊織は姿勢を正す。

 あの後、哲也は警察に逮捕された状態で、病院に運ばれた。「無理な能力」だったという、哲也の持って生まれた器に合わない膨大なサイの能力は、哲也の身体を少なからぬ蝕み続けていた。キョウのタイマによって能力の負担がなくなりはしても、健康な状態を取り戻すには少し時間が掛かるだろうと聞かされている。


「あの……大丈夫、なんですか?」

「うん。しばらく療養が必要になるとは思うけど、心配は要らない。それから、事件の完全な解決にも、もう少し掛かると思うけど」

「ああ……はい」


 萎れた伊織を、楠見は優しく見つめていた。


「たぶん哲也くんは、起訴はされない。どうしたって、彼が家に火をつけたという証拠は見つからないからな。いずれ釈放されるだろう」

「……はい」

「だけど、哲也くんにとってはそのほうが、重い罰になるかもしれないな」


 楠見は視線を落とした。


「社会から正式に罰せられることはない。その罪を、彼は一生抱えていくことになる」


 まるで自分が罰を言い渡されでもしたかのように小さく肩をすぼめた伊織に、楠見は労わるような眼差しを向ける。


「それでも、彼の身は責任を持って守るよ。彼は一連の事件や組織のことに、大きな関わりを持っている。警察から出たところで、そこらへんに一人で放り出されてはいつまた身に災いが降りかかるか分からない。だから、しばらくの間、哲也くんを組織の手の届かないところに匿わなければならない。きみも、すぐには彼に会えないことになるけれど――」


「はい……」


 それは、薄っすらと覚悟はしていたことだった。

 多分、哲也とまた会える日は、すぐにはやってこない。けれど、


「でも、また会えますよね?」

「ああ」


 祈るように言った伊織の目を見て、楠見はきっぱりと頷いた。


「……それで、伊織くん。きみの今後のことなんだけどね」


 話がそこに及んで、伊織はまたハッとして背中をピンと伸ばす。

 ここ数日、考える暇もなく忙しく過ごしながらも、それでもその合間を縫って考えていたことだ。


「きみは――」


「あの……っ!」


 勢い込んで、伊織は声を上げていた。

 その勢いに驚いたように目を見張る楠見。ジャガイモと取っ組みあっていたキョウまでもが、その声に視線を上げる。


「あの……お願いが、あります」


 かすかに残る迷いを振り切って、伊織は膝の上で手を握りしめて言葉を手繰る。

 助けてくれると言っていた、そして実際に助けてくれた、楠見に。もうひとつだけ。不躾だとは分かっていても。


 伊織は深く、頭を下げた。


「おっ、お願い、です……お金を貸してもらうことはできませんか? その……俺、この高校に通いたいです。だけどお金がなくて……生活はアルバイトしてどうにかします。だから、学費だけ……後で必ず返しますから……本当に、本当に失礼なお願いだって、分かってて……だけど!」



 目を閉じて、一息に言う。緊張が全身を震わせる。

 頭を下げたまま、数秒の沈黙。


「あ、あのな、伊織くん?」

 戸惑ったように呼びかけられて、伊織は顔を上げた。


 驚いた顔の楠見と、これもまたびっくりしたようにジャガイモを持ったまま手を止めているキョウ。


「あのね。俺はその話で来たんだけど――」

 若干声を和らげて、苦笑するような面持ちで楠見は言った。


「結論から行くとね。きみは学校に通い続けることができる」

「……え?」


 戸惑う伊織の目の前に、楠見は持ってきた封筒から書類を出して置いた。


「扶養者保険ってのがあってね。学費を支払ってくれるはずだった人に万一のことがあった場合でも、在学中の学費を補填する制度があるんだよ」

「……え?」


 差しだされた書類に目を落としながら、伊織は間の抜けた声を上げていた。


「正確に言うと、きみの入学金と前期分の学費を出したのは、哲也くんのいた組織の連中らしいんだけど、まあ学校はそんなこと知らないだろうし、『扶養者に事故があった』として処理しよう。きみの場合は扶養者が『両親』じゃないし、いろいろと面倒な手続きがあるかもしれない。それに全額免除とまでは行かないかもしれない。けれど、少なくとも高校を卒業するまでは、心配は要らないよ」


 微笑む楠見に、やはり何やら肩すかしをくらったように。けれども話の内容を理解するよりも先に、直感的に大きな安堵感に包まれて、伊織は呆然と目を向けていた。


「一人で生活するのは大変かもしれないけれど」

 楠見は優しく笑う。

「ちゃんとサポートするから。キョウ、お前も、な?」


「ん?」キョウはぱちりと目を見開いて、それからこくりと頷いた。「うん」


 その励ましに。それに安堵のあまり、伊織は涙がこみ上げそうになるのを堪えながら、必死に二人の目を見て、


「あの、ありがとうございます!」

 改めて頭を下げる。

「俺……頑張ります。アルバイトでもなんでも……!」


「うん。そのこともなんだけどね。伊織くん、アルバイトはこれから探すんだろ? あてはあるか?」

「えっと……」


 力強く言ったものの、あてなどはない。言葉に迷う伊織に、楠見はまた微笑みかけた。


「あのね。もしも今ほかに候補がなかったら、きみ、良ければ俺のとこでアルバイトしないか?」


「……え?」

 呆然と、楠見の顔に目を向ける。

 たぶん間の抜けているであろう伊織の顔に苦笑しながら、楠見は言葉を継いだ。


「学校のほうじゃなくて、『裏の仕事』のね」

「え……だって、俺」


 いまいち自分の能力もよく分からない。楠見たちの仕事に役に立つとも思えない。キョウやハルのように能力を使って難しい仕事をこなすなんて、どうにも考えられない。

 そんな伊織の気持ちを察するように、楠見は微笑みを保ちながら、


「いや。難しいことじゃないよ。事務的な作業を手伝ってもらえたらって思ったんだ。資料の整理だとか、電話番だとか、そんな細かいことだよ。影山さんは基本、学校のほうの仕事で忙しいし。ヒマそうにしているキョウに頼むんだけど」


 横目でキョウを見やりながら、楠見はため息をつく。


「こいつは事務仕事が嫌いでね。頼んでも、すぐにどっかに行っちまうんだ」


「俺、ヒマじゃないっ!」


 抗議の視線を向けたキョウに眉を上げて、楠見はまた伊織へと「ほらね、こんな具合なんだよ」と目配せする。


「かと言って、サイの事情をまったく知らない人間に任せることももちろんできないし。厄介な仕事だよねえ。だからきみに頼めると、助かるんだけど」


「伊織、気をつけろ。楠見はブラック企業だぞ!」


 眉を顰めて言うキョウの頭に手を置いて、微笑んでいる楠見に、


「あ、あの……いいんですか?」

 ぼんやりと問う。


「ああ、生活するのには困らない程度のアルバイト料は保証するよ」


 瞬間、背中を押されたように伊織は席を立ちあがっていた。


「あの……っ! お、お願いします! 俺……履歴書取ってきます!」

 慌てて掛けだす。ドアに手を掛けたところで、一度振り返り、

「あの、予備の履歴書ありますんで! すぐに取って戻りますんで!」


 呆気に取られたような楠見とキョウに見送られながら、伊織は店を出ていた。


 まだ眩しい光を保っている晩春の太陽に、一瞬目が眩む。

 これからの生活に。冒険に。心が騒ぐ。


 それはきっと、楽しいばかりじゃない。苦しいこともあるかもしれない。けれど、立ち向かっていけると、伊織は確信していた。






「履歴書だって。……要るのかな」

 店内に取り残されて、楠見は隣のキョウへと目をやった。


「……彼は大人しく見えて、意外と結構な鉄砲玉だな……」


「ん」

 キョウは楠見を見上げて。

「けど、いいのか? 伊織、仲間にすんのか?」


「ああ。いいだろう?」軽く肩を竦めて言う。


「けど……大丈夫か?」

「彼の能力のことかい? 仕事に使うような力かどうかは分からないけど……でも、うっかり能力を発現して困ることがないように、近くにいたほうがいいだろう? 彼を追っていたヤツらに関しても、組織から釘は刺してもらえるだろうけど、まだ完全に問題が片付いたわけじゃない。それだけでなく、いつまた誰かに狙われないとも限らないしな」


「……ん」

 ジャガイモに目を落とし、キョウは包丁を動かす。

 その表情に、どことなくホッとしたような、嬉しそうな気配が感じられて。


「それで、お前」そんなキョウに目を向けて、楠見は言う。「お前は彼の、アルバイト先の先輩なんだ。ちゃんとフォローして、いろいろ教えて助けてあげるんだぞ?」


「……ん」

 神妙に頷くキョウ。


 そちらに視線を預けたまま、楠見はしばし、考える。

 能力を失い、解放された哲也。

 そしてそれを実現させ、また一人のサイを救ったキョウは――自分だけは決して、永遠に解放されることのない、神に選ばれたこの少年は。

 どんな気持ちでいるのだろう?


 想像して、そして想像など及ばないことに思い至って、楠見はキョウの頭に手を置いた。


「キョウ。お疲れさま」

「……ん」


 包丁を動かしながら、キョウは小さく頷いた。


「パフェ食うか?」

「ん。チョコパフェ」


 少年の頭に手を載せたまま、楠見はカウンターを振り返る。

「鈴音さん、チョコパフェ二つ……いや、伊織くんも戻ってくるかな。三つ、お願いします」


 鈴音は微笑んで、斜めに首を傾げるようにして頷いた。


「それでな、キョウ」

「ん?」

「次の仕事のことなんだけどな」


 言った瞬間、キョウの包丁がぴたりと止まる。


「……は?」

「だから、次の仕事だよ。さっき船津さんから電話があってな。どうやらサイの男性に付きまとわれて、困っている女性がいるみたいなんだ。それを助けて欲しいって、依頼がな」

「……はあぁっ?」


 キョウが包丁を持つ手を楠見に向ける。

 楠見はその包丁を押しとどめて、


「なんだい、その反応は。仕事がしたくて堪らないんじゃないのか、お前は」

「だからってー! ちょっと間を開けろって言ってんだよ!」

「だって、もうしっかり休んだだろう? 次の仕事に入ったっていいだろう?」


 笑った楠見を抗議の眼差しで見やって、それからキョウは、カウンターの鈴音に体ごと振り返る。


「鈴音さん! チョコパフェ、クリーム大盛で」

「何っ? そんなサービスがあるのか――鈴音さん、俺のも大盛でお願いします」

「鈴音さん! アイスも増量!」

「アイスもお願いします」


 揃って顔を向ける楠見とキョウに、鈴音は困ったような、それでいて朗らかな笑いを向けた。


「なんだよ楠見ー! ……鈴音さん、俺のアイスさらに得盛りな!」

「いや、三つとも得盛りにしてください!」

「チョコシロップも!」

「ああ、あと二つも」

「バナナも!」


 カウンターの内側。鈴音の手元で、アイスクリームとホイップクリームとバナナとチョコシロップは、伊織が履歴書を手にして再び店に戻ってくるまで延々と器に積み上げられ続けることになった。

おしまい

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