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流れ星  作者: 景雪
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軍隊

 海上はどこまでも穏やかで優しかった。餌でもくれると思ったのか、たまに海鳥が気まぐれでクルーザーに近付いてきたが、期待が無駄だと分かってすぐに飛び去っていった。

 「カズとユリコ。グランパの良い友人だったんだね」

 マイクは祖父の話をこんなに長く聞いたことがなかった。リチャードの話す口調の端々にあらゆる感情がぎっしりと込められているのを感じ、マイクは背中に冷水をたらされ続けるような妙な感覚を抱いた。

 「素敵ですね」

 ミス・ヤマダは短くそれだけ口にしたが、彼女の丸い瞳が水をためたように輝いているのを見て、祖父の前だというのにマイクはもう少しで彼女を抱きしめてしまいそうになった。

 「ミス・ヤマダ。まだ先は長い。奥で休んでいなさい」

 「ありがとう。ディック。でももう少し、お話を聞きたいわ」

 「起きたら聞かせてあげよう。ゆっくり寝てもまだ十分話してあげられるくらい長い航海になる」

 「分かったわ」

 ミス・ヤマダはそう言うと素直に船内に降りて行ったが、「二人でお話進めないでね!」と念を押すのを忘れなかった。マイクは運転を交代するためにリチャードの脇に立つ。水平線に接する直前の太陽は、緩やかな波間の上に、輝く皺を幾重にも作っていた。

 「グランパ。まさかカズとユリコに会わせてくれるの?」

 ほとんど真横に立ってマイクがリチャードの顔を覗きこむように言った。リチャードは答えずにただ黙ってクルーザーの進行方向を見つめていた。リチャードの横顔は、弱い炎のような夕日に照らされ、温度のある光と影を作っていた。


 目が覚めると、何もない海のはるか遠くに太陽が見えた。まだ落日していないのだろうか。そう思って腕時計を確認し、マイクは既に朝が訪れたことを知った。リチャードがかけてくれたのだろう、毛布を慌てて払って立ち上がり、マイクは操縦席に少しも変わらずに立ち続けているリチャードに声をかけた。

 「グランパ。ごめん。寝ちゃったよ。代わるよ」

 「休み休み運転したから問題ない。穏やかな朝だな」

 海鳥が数羽鳴く声が雲の切れ間に広がった。朝日は周りの雲を次々に自分の色に染めていき、船は徐々に朝の明るさに包まれていった。リチャードはマイクと操縦を代わり、操縦席に近い場所に腰を下ろした。

 「グランパ。方向は合っているの?」

 船舶免許を取得したばかりのマイクが海図から現在地を何とか割り出しながら聞いたが、リチャードは座ったまますぐに眠りに落ちたのか返事はなかった。マイクは海図に描かれた矢印通りに舵を保った。矢印の先はまだ未記入であり、目的地がどこであるかは分からなかった。


 「おはよう」

 ほつれた髪を指でときながらミス・ヤマダが顔を出すと、大して眠っていないのにリチャードは起き上がった。「グランパ。寝てていいよ」「ああ。休んでいるから平気だ」そんなやり取りをしている二人にミス・ヤマダが加わり、マイクは電気で沸かしたコーヒーを彼女に勧めた。太平洋の真っただ中で迎える朝は真夏とはいえ肌寒く、ミス・ヤマダは舌が焼けるようなコーヒーを有難がった。彼女は両手ではさみ込むようにマグカップを持ち、熱を少しでも体内に取り入れようとしていた。太陽が水平線から離れ、空の明るさが早朝のそれではなくなってから、ミス・ヤマダは十分体温が上がったのか口を開いた。

 「ディック。あの古い聖書、何か書いてあった」

 それを聞くとリチャードは閉じていた瞼を短く痙攣させるように反応を示したが、瞼は開けなかった。舵を握るマイクが横目でリチャードを見た。

 「日本語で、日記のような内容だった」

 リチャードは目を閉じたままだ。

 「随分古い日本語で全部は読めなかったけど、多分カズが書いたものだと思う。違う?」

 音も立てずにリチャードは目を開けた。しばらくミス・ヤマダの黒い瞳を見つめ、彼女の問いかけには答えずに話し始めた。


   * * *


 カズとユリコが日本に帰ってからすぐに、世界を取り巻く空気はどんどん重く息苦しくなっていった。ヨーロッパではドイツがポーランドを攻め、パリが陥落した。アジアでは日本が仏領インドシナに侵攻し、石油の輸出停止など諸外国から日本は追い詰められていった。アメリカは不干渉主義を貫きそのどちらにも積極的に関わろうとはしなかったが、これ以上不干渉を続けることはできない、というところまで来てしまったのが一九四一年だった。リチャードはポールを誘って行きつけの酒場に行ったが、その日は酒が腐っているのかと疑うほど全く酔えなかった。

 「ディック」

 「ああ」

 「俺は、軍隊に行こうと思う」

 この日誘ったのはリチャードの方であったが、実は彼も軍医になることを決心していた。ポールに先に言われてしまったことになる。

 「実は俺も、軍隊に行こうと思う」

 「そうか」

 二人はしばらく見つめ合い、右の掌を握り合った。リチャードは、あれ程軍隊が嫌いだった自分の急激な変化に戸惑っていたが、ポールも同じことを考えていたかと思うと戸惑いはだいぶ薄らいだ。二人は、ドイツ軍が破竹の快進撃を続けるヨーロッパ戦線について語り合いながら、やがて自分達はヨーロッパのどこかに行くのだろうかと想像した。一度だけ旅行したことがあるパリの街並みがどう変わってしまったかに想いを馳せると、リチャードは気分が沈んでしまい酔えない安酒を更にあおった。

 「カズ、どうしているかな?」

 ポールのその言葉は沈んだ気分を払い去ってくれた。

 「元気にやっているだろうよ。彼は日本人だ。日本にいれば安全だ」

 カズがアメリカに残っていたら……リチャードはアメリカ国内の日系人が追いやられている立場を思い、そう言った。

 「そうだな。ユリコも元気にやっているだろう」

 カズが祖国に帰国した翌年、子供が生まれたことを知らせるハガキがリチャード達に届いたが、それっきり便りは途絶えていた。“ニッコウ”を案内してもらうのはまだ先になってしまうかもしれないな。リチャードは氷が溶けて上澄みが薄くなってしまったバーボンのグラスを見つめながらぼんやり思った。


 リチャードはポールと同じ養成機関で軍医になる訓練を受けた。軍隊特有の厳しさや理不尽さはそれほど経験しなかった。軍医という特別な役職という理由だけではなく、軍隊に属する人間を一人でも多く作り出さなければならない切迫した状況を如実に表していた。

 やがて日本が真珠湾を攻撃しアメリカは第二次世界大戦に参戦した。アメリカに住む多くの日系人が強制収容所に入れられ、日本は本格的にアメリカの敵になった。リチャードとポールは訓練の間にカズやユリコについて話すことがあったが、他の誰にも聞かれないよう小声で話さなければならないくらい、米日関係は悪化していた。

 「カズも軍医になっていたりしてな」

 「ユリコも軍医で仲良く夫婦軍医か」

 二人はかろうじて冗談を言い合う余裕は持ち合わせていたが、ヨーロッパでのドイツの勢いと太平洋での日本の勢いは共に止まらず、心の決して一部分とは言い切れない領域に焦燥と不安と落ち着きのなさを抱かずにはいられなかった。アメリカ西海岸には日本軍が上陸するという出所がない情報が度々飛び交い、国民は精神的に疲弊させられていった。日本軍は英領香港、英領シンガポール、蘭領インドシナ、米領フィリピンを占領し、太平洋の多くの地域に日の丸が翻った。アリューシャン列島のアッツ・キスカ両島も日本軍に占領され、両島はアメリカ領であることがほとんど知られていない絶海の孤島であったのだが、米国領に日の丸が翻った事実にほとんどのアメリカ国民が屈辱に打ち震えた。

 日本軍の勢いが一気に失速したのは一九四二年六月から八月にかけての珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦闘だった。それまでほとんど無敵だった日本海軍の機動部隊は二つの海戦で空母五隻を喪失し、ガダルカナル島の陸上戦では盧溝橋事件で名を馳せたカーネル・イチキを支隊長とする日本陸軍最強の一木支隊が全滅した。米豪連絡網を断つ目的でニューギニア攻略を企図した日本軍は、日本本土の二倍以上で、その面積のほとんどを人跡未踏のジャングルが覆うニューギニアに翻弄され、数万人の兵士、大量の軍事物資をむざむざと浪費していった。戦争当初の日本軍は恐ろしいほどに強かったが、手を広げ過ぎた。広大な太平洋に手広く兵力を分散する余力を、日本は持ち合わせてはいなかった。日本軍を打ち負かしていく度に、アメリカ国内は沸きたち、戦意は高揚していった。一九四三年四月、アドミラル・ヤマモトを殺害したことが報道されると、彼がパール・ハーバー奇襲の立役者だったからアメリカ人は老人から子供までお祭り騒ぎをするように祝った。

 リチャードとポールは同じ歩兵部隊の軍医将校として配属されたが、訓練と言える訓練もせず、戦線からははるか遠い場所で過ごしていたので、今、戦争が行われていることを忘れてしまえた。二人にとって、カズと同じ肌や瞳を持った人間が、鉄帽と小銃で武装して襲いかかってくる情景を思い浮かべることはできなかった。金髪で無口で面白味も何もないドイツ人を相手にした方が、いくらか戦争を体験している気分に浸れるような気がしていた。二人が広い世界のどこで戦争の一端を担わされるのか、まだ情報のかけらさえ教えてもらえなかった。

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