戦場へ
あれほど強かった日差しはいつの間にかすっかり消え、クルーザーの周りには霧が現れるようになった。船が進むごとに霧は徐々に濃くなっていくように思え、未だ行先を告げられていないマイクとミス・ヤマダは、濃さを増す霧に一層不安感を募らせてしまった。気温が下がってきたので三人は冬に着るような厚手のジャケットを羽織った。マイクはたまらず、「どこに向かっているんだい?」と聞いてみたりするが、リチャードは「もうすぐ話す」と答えるだけで満足のいく回答は得られなかった。リチャードとマイクは計器を頼りに航行を続けたが、日の出も日の入りもはっきりとしないので一体今が何日なのかさえ分からなかった。一面霧に包まれて視界が一切きかなくなってしまった四方を怯えるように振り返るミス・ヤマダの不安を少しは和らげるように、リチャードは舵を握りながら話の続きを始めた。
* * *
リチャードとポールが輸送船でアリューシャン列島に向かうことを告げられたのは出撃一週間前だった。二人は慌ただしく家族や友人との再会を果たし、軍人の端くれたる意識を急速に準備し、身支度を整えていった。二人には悲壮感や諦観といった感情はなかった。自分たちは銃を持って最前線で戦うことはない軍医であるという自覚と、訓練を共にした屈強な兵隊たちが一緒だという安心感があったからだ。乗船する直前、当時日本名で熱田島と呼ばれていたアッツ島が攻撃目標だと知った。同島の日本軍守備隊約二千五百名と攻略部隊の米陸軍第七師団一万一千人との数の差を再確認し、リチャードもポールも戦闘は短期間で終了すると思い、自分たちの出番はあまりないかもしれないとお互いの顔を見合わせた。
上陸前の艦砲射撃は凄まじかった。二隻の戦艦を主とした大口径砲弾を嫌というほど叩きこみ、砲撃の音で聴覚に異常をきたす兵隊、精神的に不安定になる兵隊が続出し、リチャードたち軍医は初っ端から大忙しだった。睡眠薬が危うく足りなくなる心配があったので、後方に控えていた輸送船から急遽予備の睡眠薬を調達しなければならなかった。
「今が一番忙しいだろうな。だって、あれだけ撃ち込めばもう生きている者はいないだろう?」
リチャードは砲弾のせいで形が変わってしまった島影を、硝煙の向こうに指さした。ポールも同じ気持ちなのか、ただ黙って指のさす方向を見つめていた。
アリューシャン列島は一年を通して霧が多く、アッツ島の上に太陽が降り注ぐのは年に十日もないと言われていた。濃霧の中、無理に上陸しようと思えば、上陸用舟艇同士が衝突してしまったり、上陸目標を大きくはずれる可能性がある。アメリカ軍上陸部隊は洋上で待機し、好天を待つしかなかった。
霧が少し晴れた一九四三年五月十二日、主力部隊が上陸に成功した。日本軍陣地からは散発的な砲撃はあったが、生き残りの兵士がまだいるのだろうと上陸部隊は余り気に留めなかった。リチャードとポールもこの日に上陸し、簡易的に造られた陣地の一角に臨時野戦病院を開設した。まだ霧が晴れ切っていない島には植物がほとんど生えておらず、地獄というのはこういう景色なのだろうかとリチャードは思った。たまに敵陣から聞こえてくる小銃の小さ過ぎる発射音は、消える直前の蝋燭の灯火に思えた。
身体の先から凍っていくかと思えるほどアッツ島の夜は寒かった。真冬用のコート、手袋、ブーツを履いたまま横になったがうとうとさえできなかった。無理矢理閉じていた目を少し開けてみると、隣に横たわるポールも同じように薄目を開けていた。「寝られないのか?」「ああ」二人は声には出さないが目で合図をした。
その時、雄叫びのような奇声が寒空を引き裂いた。叫び声やうめき声、怒声や罵声が続く。味方の小銃音が数発鳴り、やがてまた夜の静けさが戻った。硝煙がいつまでも漂っていて無性に鼻についた。
サーチライトが照らされると、五、六人の日本兵と三人のアメリカ兵が倒れているのが見えた。アメリカ兵の一人はうめき声をあげていたのでリチャードは駆け寄り、急いで応急手当を始めた。他のアメリカ兵二人はもう息がない。死んだ二人の兵隊の瞼をリチャードは閉じてやった。
別のうめき声を聞き、ポールは全員死んでいると思っていた日本兵が一人だけまだ息があることに気付いた。腹に大きな穴が開き、血が止まらないのでもう長くはない。しかし日本兵は何かを訴えようとしているのか、顔を歪ませ口元から色の濃い血を吐きながら必死に口を動かしていた。ポールは自らの顔を日本兵の顔に近付けて聞く。「ナンダ?」彼は日本兵の口元の側まで耳を近付けた。
「ドクター。どいてくれ」
振り返ると、顔見知りの陸軍兵が日本兵に小銃を向けて立っていた。表情は驚くほど冷静で、それが逆に恐ろしく感じた。
「おい、やめ……」
ポールが言い終わらないうちに陸軍兵は引き金を引き、銃声が二発響いた。銃弾が撃ち込まれる度に日本兵の身体は波打ち、二発撃ち終わるとそれ以上一切動かなくなった。
「デビットもサムも殺されたんだ。ドクター。あんたはジャップの味方なのか?」
陸軍兵はそう吐き捨てると大げさに足音を鳴らしながら背中を向けた。ポールがリチャードの方に視線をやると、リチャードは、一目で力を入れていないことが分かる振り方で首を振った。殺されたアメリカ兵は心臓や胸を銃剣で一突きにされており、黒く粘度の高い血が雪を染めた。まだ陣地もろくに造れていないので、もっと大勢の日本兵が襲ってきたら桁違いの死傷者が出たことをアメリカ兵の誰もが理解した。リチャードは腰の拳銃を抜き、操作方法を忘れてはいないかシミュレーションした。幸運にも身体は操作手順を全て覚えていたが、止まらない右手の震えのために、拳銃の金属部分がカタカタと嫌な音を出した。
静まり返った寒空に遠方から声が聞こえた。声は弱くこだまし、日本語であるので全てを理解することはできなかったが、語尾の「ヤンキー!」という一言で、自分たちを罵倒する声だとアメリカ兵は理解した。「ジャップス!」アメリカ兵の一人が咥えていた煙草を吐き出しながら叫ぶと、声は同じようにこだまして小さくなっていった。




