第1話 ちっちゃくて可愛い文学少女
関東某所。
駅近に建つ小さな専門学校。
入学からもうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
ズラリと並んだパソコンが吐き出す微かな排熱。
真新しいカーペットの匂いが混ざる朝の教室。
そこに、もう聞き飽きたくらい気さくな声が転がる。
「──結城、ちょっと消しゴム貸してー?」
左隣から手を伸ばしてきたのは、十八歳の好青年。
第一印象からして『バンドマン』という概念が服を着て歩いているような、小林裕介さんだった。
無造作に遊ばせた長めの茶髪に、耳元で光る小さなシルバーアクセサリー。席の傍らにいつも黒いギターケースを置いている彼は、私が無言で差し出した消しゴムを「ナイス」と笑って受け取った。
あろうことか彼は、高価な液晶タブレットの上にクロッキー帳を広げ、書きかけの楽譜らしきものをゴシゴシと豪快に消している。
「ほい、サンキュ」
カチカチと小気味良い音を鳴らす私のマウスの脇に、仕事を終えた消しゴムがポン、と放り投げられた。
「まだ必要なら使っていて良いですよ」
「いえいえそんな。その時また声を掛けますですわ」
……わざとらしい口調。
それが皮肉だと分かっている私は、マウスを動かす手を止め、一度だけ彼の目を見た。
「……」
「……同い年なんだからさ、普通にタメ口で良くね?」
数秒間のジト目をプレゼントしたものの、特に反論を返すこともなく、この人は相手をするだけ無駄なんだよなと心の中で納得し、私は何事もなかったかのように視線をモニターへと戻した。
「はいはい、分かりましたよ。好きに喋って下さいな」
……どうやらお互い様だったらしい。
裕介さんは海外のホームドラマを彷彿とさせる大袈裟なジェスチャーで肩をすくめると、さらに左隣のダンディな生徒へと、コミカルに視線を送ってみせた。
杉田竜介さんは三十歳。
元シェフという、デザイン学科のクラスメイトにあるまじき立派な経歴を持っている。
スマートに細く引き締まった肩に、綺麗に整えられた無精髭。そこがパソコンの前であろうと、座っているのが背もたれの軋むデスクチェアだろうと、杉田さんの背景にはいつも深夜のバーがチラついてしまう。
入学当初、席が連なっていた縁で、ゲームオタクな私と、バンドマンな裕介さん、そして元シェフの杉田さんという凸凹な三人は、自然と行動を共にするようになっていた。
──そして。
今日も甘い匂いがふんわりと舞う。
シャンプーなのか、ハンドクリームなのか。
私の右隣には、まるで私のスケッチブックから抜け出してきたような、理想の姿をした女の子が座っている。
それは、ちっちゃくて可愛い文学少女。
そう、自己紹介の時に私は自分の目を疑った。
彼女、東雲紗雨さんは、いつも少し長めの前髪で目元を隠すように俯き、三つ編みおさげがとても可愛らしい、三つ年上の女の子。
教室の騒がしい集団からは静かに距離を置いていて、彼女の周りにはカプセルトイやクレーンゲームで集めたような小さな動物のぬいぐるみたちが、パソコンをぐるりと囲むように配置されている。
作業に集中している時の大人びた横顔と、それを見守るファンシーな小物のアンバランスさが妙に気になって、私は彼女の姿を無意識のうちに視界の端へ収めている事が多かった。
「──はい、じゃあ今回はここまで。あ、いや、待った! 忘れてた! 最後にプリント回すから後ろまで送って!」
ホワイトボードの前で慌てる若い先生の声。
チャイムに縛られない授業と休憩の曖昧な境界線は、まるで異世界にでも迷い込んだかのように不思議な感覚で、あんなにも長く息苦しかった高校生活が、今では少しだけ懐かしく思える。
先生がプリントを配り始めると、途端に教室の空気が緩む。
企業のオフィスのように正面に対して長机が横向きに並べられている都合上、一番左端の杉田さん、そして裕介さんを経て回ってくるプリントの束から自分の分の一枚を抜き取り、残りを右の席へと回していく。
「はい、東雲さん」
「……ありがとうございます」
彼女が少し慌てて手を伸ばした拍子。
デスクの端にあった小さなぬいぐるみにふわりとカーディガンの袖が触れ、音もなくカーペットに転がり落ちた。
「あ……」
彼女が拾い上げようとするより早く、私は無言で丸い形にデフォルメされた犬を拾い上げ、デスクの端に置き直した。
至近距離でまたあの甘い匂いがした。
長い前髪の奥から覗く黒い瞳が、少しだけ気まずそうに、背の低い彼女は、いつも上目遣いで私を見上げてくる。
「……ごめんなさい」
「……それ、犬ですか?」
「え……」
話し掛けられると思わなかったのか、彼女はビクッとして一瞬だけ顔を上げた。
……が、すぐに俯きモゴモゴと返事をする。
「……多分」
別に好きなキャラだから置いているわけじゃないらしい。
よく分からないけど可愛いから置いている。
そんな感じ。
「……可愛いですね」
「……!」
ほんのりと頬を染める東雲さんは、白く細い指先でぬいぐるみをそっと掴み、そして自分の小さな陣地を再構築するように、大事に手元へ引き寄せる。
その仕草が小動物のように愛らしくて、私は彼女が……多分、出会った瞬間から好きだった。
全90話で完結予定です。
少しの間、お付き合い頂ければ幸いです。




