終章 その5
そろそろ、時間だ。今日も学校はある。前にそうだったように恙無く、世界は回っている。
何事もなかったかのように。
何事もなく、安穏に。
傷を忘れた一日が始まる。
けれど、僕は忘れていない。
あの痛みも悲しみも、或いは、感じた負い目も何もかもが、体験済みの未来に置きっぱなしだ。
だからまだ、やるべきことが残っている。
『君は、行くの?』
伊予がそう問いかけてきた。
「ああ」僕は強く頷いた。「遅すぎたくらいだからな」
今から行うのは、言ってしまえば仕上げ、残務処理のようなもの。
けれど、ある意味では本筋よりもずっと大切なものだ。
僕は鞄を提げると、そのまま振り返りもせずに家を出た。
照りつける日差しも、アスファルトが熱される匂いも、街頭のモニターから聞こえるニュースやコマーシャル、雑踏を行く人々の会話も、何もかもが二回目では新鮮味もない。
道の端で、蚯蚓が干からびているのが見えた。ああ、どれもが、僕がなぞってきたのと同じ、代わり映えのしない――。
「――代わり映えのしない景色だって、言いたいのかしら?」
背後から聞こえてきたその声に、僕は足を止めた。
そして、振り返ったところで、思わず固まってしまう。
「……何よ、信じられないって顔ね」
そこに立っていたのは、山城先輩だった。
彼女は記憶の中の、七月七日に見た姿と違わぬ、傷だらけの姿のまま、そこに立っていた。
今日は六月二十二日のはずだ。この時点ではまだ、彼女は傷ついていないはず。
まさか、本当は巻き戻ってないのか――?
「……安心していいわ、変わらないのは、私だけよ」
ゆるゆると首を振りながら、彼女はそう口にした。
僕らは、学校までの道を並んで歩きだした。
見る人が見れば勘違いされそうな光景ではあったが、少なくとも今は、そんなことを気にする者は誰もいない。
澄んだ朝の空気を切り裂くようにして進む僕ら。先に切り出したのは、先輩の方だった。
「……あなたも、"患者"になったのね」
どこか悔しそうな声色で、彼女は言った。いや、もしかすると嬉しそうだったのかもしれないし、悲しそうだったのかもしれない。
僕にはその心境を図り知ることはできなかった。そのくらいには、僕たちの心は離れてしまっているようだった。
ただ、わかることもある。
僕が"患者"だと言うのなら、彼女が影響を受けないことにも納得がいく。
彼女だけはあの未来から――殺されることなく、流れ着いてしまったのだろう。
「……はい、そうみたいですね。とはいえ、僕もあんまりよくは覚えてないんですけど」
「突発性、だったのかもね。佑香さんと有佐さん、淡路さんも亡くしてしまったあなたは、その現実に耐えきれなかった。もう二度と同じ日々が戻ってこないという事実に、耐えられなかった」
「僕も、先輩に治してもらう必要があるんでしょうか?」
僕の言葉に、彼女はゆるゆると首を振った。今度は確かに、その顔に残念そうな色が浮かんだのがハッキリとわかった。
「いえ、治さなくてもいいわ。だって、今のあなたからは全くその気配がしないもの」
「気配が、しない?」僕は復唱した。
「ええ、きっと、ストレスの原因になっていた事件、それを未然に防ぐことができるとわかったからでしょう……私はそれを、正しいことだとは思わないけれど」
彼女はそこまで言うと、歩調を早めて、僕を追い越した。そして、行く手を塞ぐように目の前に回り込むと、僕の眼前にそのたおやかな指を突き出してきた。
「あなたが選んだのは、最悪の選択肢よ。殺した命の数も、"症状"の規模も、私の知る限りでは一番多大なものだと言えるわ」
「……わかってますよ。そんなことは、承知の上で僕はここにいるんだ」
「なら、約束しなさい。二度と"症候群"には頼らないと。次にあなたに発症の兆候があれば、私は、容赦なく――」
と、目を伏せた彼女に、僕は笑いかけた。
もしかすると困ったような笑みになってしまったかもしれないが、今は、それが正しいように思えたのだ。
「大丈夫ですよ、先輩。もし僕がまた間違えそうになっても、先輩が何とかしてくれるって信じてるので」
そう、僕は一人ではない。
僕が間違えば、僕が歪めば、僕が欠けてしまえば、それを正してくれる人が、近くにいるのだ。
青春とはきっと、そうして過ちを積み重ねていくものなのだ。
そこで命を落とさなければ、或いは、誰かの命を奪わなければ、いつかその積層を眺めて懐かしむことができるだろう。
先輩は、呆れたように肩を竦めた。納得してくれたのかもしれないし、これ以上言っても無駄だと思われたのかもしれない。
「……そう、それなら早く、行きなさい。あなたにはまだ、やるべきことがあるでしょう?」
けれど、最後にそう言って、彼女は僕に道を譲った。
押された背が体を加速させ、自然と僕は走り出す。
流れていく景色に、もう興味はなかった。ただ、どこか焦燥にも似た気持ちが、僕の脚を動かしている。
吹き抜けていく風が前髪を押し上げ、ゴウゴウと音を発てて耳の横を通りすぎていく。
昇降口を抜け、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
誰かに引き留められた気もしたが、立ち止まることはなく、僕は目的地まで駆け抜ける。
有佐は教室にいた。その傍ら、机に凭れるように佑香が座っていて、楽しそうに語りかけていた。普段は表情が乏しい有佐も、ほんの少しだけ笑みを浮かべているように見える。
ああ、そうだ。間違いなんかじゃない。間違いなんかで、あっていいはずがない。
あの二人が一緒にいられない世界なんて、どれだけ正しくても、僕は認められない。
僕は大股で、二人に歩み寄る。佑香が驚いたように目を剥いた。教室中の視線が、皆こっちに集まってきている。
けれど、知ったことか。構わず口を開いた。
「よう、有佐。放課後は空いてるか?」
視線が奇異のものから、下世話な興味に変わる気配がした。どこからか指笛を吹く音まで聞こえる。
有佐は困惑した様子だった。それもそうだ、僕と彼女が本格的に知り合うのは事件が起こってからの話で、今日の時点ではほとんど接点もない。
ない、ということになっている。
「ちょっと。急に何の用なの?」
間に割って入ってきた佑香が、敵意のこもった目で睨んでくる。
その瞳の輝きを見る限り、どうやら今日は入れ替わりは行われていないようだった。
「何って、放課後デートの誘いだ。期末試験の前に腹一杯遊んどかないとな」
「……何も、こんな風に誘わなくてもいいじゃない。そもそも、有佐と仲良かったっけ?」
「いや、今はまだ、だ」
でも、きっといつか。
だって彼女は望んでいるのだ。自分を外の世界に連れ出してくれる誰かを、ずっと待っている。
なら、きっと大丈夫だ。僕がふざけて、因幡が悪乗りして、佑香が呆れる。
そんな騒がしい日々の一ページに、彼女だって加われる。
一緒に馬鹿やって、笑い合える。
「え、えーっと。……お姉ちゃんの友達の信濃くん、ですよね?」
有佐は耳までを真っ赤にしながら、驚いた様子だった。
しばらく困った様子で視線をさ迷わせてから、ボソボソと呟く。
えーっと、なんて白々しい。僕らはもう既に、何度も言葉を交わしたじゃないか。
あるいは、それは"佑香"としてであって、"有佐"としては初めましてだと、彼女が言うのなら、それでもいい。
彼女がそれを望むならやり直そう。"はじめまして"をもう一度。
僕らの青春を、もう一度。
「ほ、ほら、私、暗いし……こんなだし……。そういうの誘うなら、お姉ちゃんの方にしておいた方がいいんじゃないですか?」
堪えきれなくなって、思わず吹き出してしまう。今の彼女は様々な思いに押し潰されて、今にも壊れる寸前のはずだ。
なのに、それでもまだ、そんなことが言えるのか。
結局、そういうことだったのだ。彼女に足りなかったのは、自分の気持ちを言葉にすること。自信がなくても、自分がちっぽけに思えても、目を見てハッキリと伝えること。
それさえできたなら、きっと。
「はっはっは、やめろよ、有佐。そうだな、僕は――」
きっと、僕らの青春は"惨禍"なんかに沈まない。
はろーわーるど、でっどえんど。
生きていていいと勘違いしてた? 筆者の文海だよ、胡乱だね。
さて、あとがきなんて書くつもりは本当はなくて、この物語が完結した時点で私の役割はもう終わって、完全に手を離れてしまったわけなんだけどさ、ちょこっとだけ、話してもいいかなと思っちゃったから、付き合ってね。
この物語のテーマは青春、だからこそ犯人は笑えちゃうくらいに幼稚な愛を理由に殺人を犯したわけなんだけどさ、ここで一つ、私は気になることがあるわけだよ。
愛って、何?
私は人として欠けたところがある、というか、とある人物の欠損部位をかき集めて人の形に押し固めたのが私だからさ。
描いておいて何だけど、私には彼女らの気持ちがわからない。何一つわからない。本当にわからないし、理解に苦しみ抜いて吐き気すら催す。
あなたたちが軽々に口にするそれは、性欲と何が違うの? 独占欲と何が違うの? 種の保存本能、己の命よりも優先するものになりうるの?
別に、他人のスタンスを否定するつもりは欠片もないけどさ、それがもし単なるポーズで、ヤリたいだけの本音を包み隠してるなら、あまりにも醜いよね。
それとも、何? 誰かを愛することで、愛って名前をつけた庇護のもとに置くことで、ここにいていいと認めてほしかったの?
浅薄だね、君は浅薄だ。他人に自分の存在証明を委ねるなんて、愚かにも程がある。それならまだ陰茎に従って生きる劣悪な雄の方がいくらかマシだ。端的に言うのなら、気持ち悪いとすら思ってしまうよ。
命の尊厳を自分の手から離すなよ、そうだろ?
だから、私には愛がわからない。だから、君たちの想いが帯びる熱もわからない。だから、青春群像の結末がハッピーエンドであるべきとも――思えない。
ひとりで生きて、ひとりで死のうよ。誰だって、ひとりでしか生きられないんだからさ。つまんない洒落じゃないよ? 本音だから、ね。
とはいえ、もしも、君の中に燻るそれが、まだ燃やしてない君の身体――薪に火を焚べて、しっかりと消し炭にしてくれる程度の熱量かあるのなら、馬鹿にはできない。
それならば、君はそれを誇るべきだ、君たちはそれを誇るべきだ。それでこそ、わたしたち欠損だらけの出来損ないが羨むに足るんだから、ね。
あ、それはそれとして、読了ありがとね。君らのお葬式には、私も参列するから、よろしく頼むよ。
真っ白な服を着ていくから、さ。




