最終話 私の婚約者様は泣くのです。
「あれ?」
領地にある侯爵家の屋敷へ戻り、レニーは首を傾げた。
隣領の伯爵家の屋敷へ行ってきたのに、婚約者のチルダと会った記憶がない。
彼女の父親である伯爵と侯爵家の騎士団がダンジョンへ潜る日程について話をしただけだ。愛人のことで気まずさはあるが、チルダなら会ってくれるはずだ。一体なにがあったのか。
レニーは窓の外を見つめて溜息をついた。
さすがに今から押しかけることはできない。
今日連絡もせずに押しかけただけでも褒められたことではないのに、再度、しかも泊まりが確実になる時間に訪問するなんて論外だ。
「チルダ……」
彼女に会いたかった。
錬金術に夢中になっているとき以外の彼女は、いつもレニーに優しい。
家の名義は自分のものにしてくれと言っていた愛人の目的が、本当の恋人と暮らすことだったと知って傷ついたレニーのことも慰めてくれるはずだ。両親は、主人を誘惑するメイドなんて最初からおかしいのだ、と言って泣きつかせてさえくれなかった。
優しいチルダが一番好きだけれど、錬金術に夢中でレニーを構ってくれないときの彼女も嫌いではない。真剣な横顔に、いつも見惚れていた。
もちろん書庫の本を貸すと言ったときのように、自分の言動に反応して見せてくれる笑顔は最高に大好きだ。
嫌いというか、いただけないと思うのは、結婚までは、と言ってキス以上のことを許してくれないところくらいだ。レニーとチルダは婚約者なのに。
最後に会ったときのことを思い出す。
魔術書を返してくれた彼女を昼食に誘っても、ロティ王女と約束があると言って断られた。
その前日は認めるような発言をしていたが、本当はレニーが愛人に家を買ったことで傷ついていたのだろう。魔術書を返却した翌日には伯爵領へ戻っていたことを考えても、自分の罪は計り知れない。
(どうして覚えていないのかはわからないけれど、たぶんチルダは出かけていたんだな)
明日もまた会いに行こう。
レニーは伯爵家へ訪問を告げる手紙を書いて、部下に運ばせた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……チルダ?」
ベッドに座る彼女の姿を見て、レニーは今朝侯爵家の庭で手ずから摘んだ花束を落としてしまった。
チルダの顔は赤く、玉のような汗に覆われている。
レニーの好きな彼女の瞳が涙に潤む。
「こんな姿、お見せしたくありませんでしたのに」
「伯爵殿、これは一体どういうことです?」
「……ブラックドラゴンの呪いです」
苦しげに俯き、伯爵が言葉を絞り出す。
彼の足には悲しげな表情のチルダの弟、ノアが寄り添っていた。
伯爵夫人は身分の低い家柄の女性だといい、レニーの前に姿を現したことがない。父と姉には似ていないノアの顔を見れば、かなりの美人であることはわかるのだが。
「ブラックドラゴンの呪い? そんなものがあるとは聞いたことがありません」
「これまでは伯爵家の娘が社交界に出る前に発現していましたから。呪いに侵されたチルダがここまで長生きできたこと自体が奇跡のようなものです」
「姉上……」
「レニー様のおかげですわ」
チルダは儚く微笑んで、ひとつのブローチを見せる。
侯爵家の騎士団に混じってダンジョンへ潜ったレニーが、初めて採った魔石で作って贈ったものだ。
「この魔石がずっと守ってくださっていたのです。でも、もう……」
「レニー様の愛情が姉上から離れたからです」
「ノア!」
「そんなことを言わないで」
「でもでも……姉上……」
ノアがベッドの姉へと駆け寄る。
その途中でレニーの膝裏を蹴飛ばしていったのだが、そんなことには気づけないほど彼は衝撃を受けていた。
伯爵が顔を上げ、怪訝そうに言う。
「昨日、病床の姿を見せたくないという娘の気持ちを受け入れると、お約束してくださったではありませんか。どうして今日になってこの子を辱めるような真似を?」
「……すみません。忘れていたのです。きっとあまりに衝撃的で、頭が記憶することを拒んだのでしょう。……チルダ」
「はい。……私はレニー様のお子を産めないと思い、王都の方のお子を楽しみにしていたのですが、これでは間に合いそうにないですね」
レニーは伯爵家の床に膝をつき、滂沱の涙を流した。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
一カ月もしないうちにチルダは逝き、葬儀がおこなわれた。
領民も参加できるよう、木製の棺が領都中央の広場へ運ばれている。
参列客の囁きがレニーの耳朶を打つ。
「……ブラックドラゴンの呪い? そんなものがあったのか?」
「……間引きを始めるまでは多かったらしい。今回は、きっと彼らが下層まで潜ったせいで」
伯爵にブラックドラゴンを刺激しないで欲しいと言われていたにもかかわらず、魔石目当てに下層まで降りていた侯爵家騎士団の面々が体を縮めている。
隣に立つレニーの父も顔を強張らせていた。領地が隣で自分の爵位のほうが上で、魔術学園の同級生だったのをいいことに嫌がる伯爵にゴリ押ししてレニーとチルダを無理矢理婚約させ、自領の騎士団による間引きをねじ込んだのは彼だった。
母は棺にしがみついて泣いている。
「チルダ……チルダちゃん!」
侯爵夫人は息子の婚約者であるチルダを実の娘のように可愛がっていた。
浮気者の夫と、その夫にそっくりな息子の愚痴をこぼせるのはチルダだけだったのだ。ほかで話して婚家の醜聞を撒き散らすわけにはいかない。
伯爵夫人はベールを被っているので表情はわからなかった。彼女と手をつないだ跡取り息子のノアは泣きたいのに泣けない、といった複雑な顔をしている。生意気な口を利いてもまだ五歳、姉の死を理解できていないのかもしれない。
葬儀の後、チルダの棺は伯爵家の霊廟に収められる。
普通なら石の棺なのに、どうして木製の棺なのか、レニーにはわからない。もしなにかがあったとき、脆い木製の棺ではチルダの遺体を守れない。
棺の中のチルダはレニーが贈ったブローチを胸の上で握り締めていた。
「皆様、我が娘チルダのためにお集まりいただきありがとうございます。チルダの棺はこの後、伯爵家の霊廟に運んで火をかけます」
「伯爵殿っ?」
厳粛な葬儀の最中だというのに、レニーは思わず声を上げてしまった。
伯爵の発言が理解できない。
そんなことをしたら、霊廟で眠るチルダの顔を見に行くこともできないではないか。
見つめるレニーに、伯爵が静かに首を横に振る。
「ブラックドラゴンの呪いで亡くなった娘は……吸血鬼となって甦る可能性があるのです。これまでの娘達も燃やされ、書類や家系図からも存在を消されました。チルダも領民を傷つけたいとは思っていないでしょう」
「わああぁぁぁっ!」
「……っ」
母の泣き声が激しくなる。
父である侯爵が顔を歪めた。
レニーはただ呆然と立ち尽くすしかない。ブラックドラゴンの鳴き声で死者が蘇り吸血鬼となる話は聞いていた。吸血鬼は人の姿をした魔獣だ。前の王太子を魅了した妖しい女の正体も吸血鬼だったのではないかと言われている。チルダの遺体を焼かないでくれなんて言う資格は、手を出したメイドのために家を買った自分にはない。
(家の購入資金にした魔石で、チルダのアクセサリーを作れば良かった)
そうすれば一年でも、一カ月でも、一日でも彼女は長生きしたかもしれないとレニーは思う。
一生消えない後悔が胸を覆う。
後で悔やんでも遅いから、後悔というのだ。
★ ★ ★ ★ ★
「……ここまでする気はなかったのですけど」
霊廟での火葬は家族だけで、と侯爵家の人間を追い返して、私は棺から出た。
「お前が死ぬとなったら、これくらいしないと周囲が納得しないだろう」
もう侯爵家の騎士団は間引きに来ないことになったので、父は上機嫌だ。
「命がかかっていたのだから仕方がないでしょう。侯爵令息と結婚していたら、チルダの心は死んでいました。私も仮死薬を飲んで牢を出た後は周囲を騙していることに落ち込むこともありましたが、今は愛し愛されて幸せですよ」
「姉上も今度は良い方を見つけてくださいね」
「そうですね」
とりあえず私は冒険者になろうと思っている。
必中の羽はまだあるし、ブラックドラゴンの寝床を探せば良い防具も見つかるだろう。
しばらくしたらお父様の妹(呪いで死ぬと思われて最初からいないことにされていたが身分の違う恋人の愛で生き延び駆け落ちした設定)の子どもという体で戻ってくるつもりだ。魔術学園の卒業論文だけは完成させて、生前に預けていたということでロティ王女から提出してもらう。
「可愛がってくださった侯爵夫人には申し訳ありませんが、私は私で幸せになります」
浮気したレニー様と夫婦生活を送るのは無理だった。
うん、無理ですよね。だってあの方は下半身が莫迦なのですもの。
こうして、浮気された伯爵令嬢は、死んだ振りをして新しい人生に踏み出したのでした。
レニー様にいただいたブローチは持って行きますけどね。
私のことで泣いている姿に絆されたりなんかしていません。
……ただのお守り、初恋の思い出ですよ。