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愛について







 水底から水面へ、泡は次から次へのぼっていく。

 いつものように朝から晩まで働いて、空腹の僕はアリウムへ。座った席はまた水槽の後ろで、ガラスの向こうの泡の流れは、決して逆戻りせず、途切れることもない。

 店内には音楽が流れ、客はいつもの通り多くない。僕が席に着いてから程なくしてアツミが現れ、僕達は話しながら夕食を摂った。もっぱら話すのは僕で、聴くのはアツミ。

「へえ、そんなことがあったんですか」

 アツミは、テーブルの下で長い脚を組み替えた。

「君にも協力して貰ったから、報告」

「それはそれは、義理堅い。では俺からも」

 彼はふらっと立ち上がってカウンターへ、戻ってきてビールのグラスを僕の前に置いた。

「お疲れ様です」

「……自転車だって、飲酒運転なんだよ」

「押して帰ればいいじゃないですか」

「くたくたなんだよ、僕は。朝からずっと立ちっぱなしなんだぜ」

「今座ってますよ。いいじゃないですか」

「あのね」

 僕はビールのグラスを持ち上げた。豊潤な金色、どっしりと冠になった泡、苦い誘惑。ままよ、と口をつけた。一口目がなんともうまい。消えていく味を追いかけてグラスを傾けると、するする黄金の液体は喉を滑り落ちた。

「いい飲みっぷりですね」

「あー……やばいな。飲むとすぐ眠くなっちゃうんだよ」

「俺、送り狼は遠慮しますから。あ、もう一杯?」

「頼んでない。あ、頼むけど」

 アツミは今度は両手にグラスを持って戻ってきた。二杯目もすぐに僕の胃袋に収まる。アツミも一息にビールを干したが、こちらは水を飲んだみたいにけろりとしている。

 うう、目が回り始めたぞ。

「結論からすれば、ミズキを殺したのは、妹のハルカだったってことですか」

 僕はまた、水槽の泡を見る。下から上へ。上から……下へ?

「それは聞かなかったな」

「聞かなかった。へえ。同情ですか」

「違うよ、知らなくてもいいかなって。僕の知りたいことはさ、あれだよ」

 アツミは「アレ」「アレ」と繰り返す僕が、もう酔っ払ったと見切ったらしい。

 あれ、あれ、アレだよ、──ザクロみたいだったと、ハルカが言ったこと。

 僕の知りたかったのは最初から、ハルカの言う『ザクロ』の意味だったのかもしれない。

 彼女のための果実、その形、色、におい、味、感触。

「知っているつもりで、知らないこともありますしね。例えばこのビールの味。よく味わうために目を閉じるなんてのは論外です。目で見て、鼻で嗅いで、耳で聞いて、初めて味がわかる。感覚を総動員してじゃなきゃ、味はわからない。ほら、鼻を摘まんで飲んでご覧なさい、味なんてわからないから。俺達が味だと思っているものは、大体味じゃないんですよ」

 アツミは弁が立つ。嫌みなほどに。しかし、聞き流す彼の声は耳に心地よい。低く甘く、酔いのように僕の耳に沁みる。

「聴いてませんね」

「聞いてるよ、すごい聞いてる」

「俺、さっきの話でひとつ気になることがあって。ナオトさんは、ハルカにミズキの恋人は幻の存在だったと言ったんでしょう」

「言った。恋人なんていなかったんじゃないのって言った」

「それって、もう誰にも真偽はわからないですよね。真実を知るミズキは死んでしまったんだから。いなかったかもしれないし、いたのかもしれない」

「えぇ? いないだろ。いたら多分……あの妹は気づく。それくらい、彼女は姉を」

 心配していた? いや、これは的確ではない。憎んでいた? 支配していた……傾倒していた……。

「いや、これは酔っ払いの妄想かもしれないけどさ」

「妹から逃れるために、ミズキは赤い爪を必要としたのかも知れない? ナオトさんはそう思うわけだ。爪を剥ぐほどの苦痛、しかも自分で!」

「恋人はいたと言った方が、妹が納得すると思った……いや、おかしいだろ、爪を剥ぐ恋人なんて。普通いないだろ」

「そう、彼女がそんな恋人を、想像したとも考えにくい」

 アツミはからになったビールグラスの水滴を、指でつなぎ始めた。橙色の照明が、テーブルの上に彼の人差し指の影を濃く落とす。

「こういうのはどうでしょう? 彼女は、妹の犠牲の上に成り立つ自分の平穏な生活に耐えられなくなった。妹に支配される人生から逃げたくなった。彼女は追い詰められて、どんどん視野が狭窄していく。頭の働きも鈍っていく。……そんな時、たまたま入った、居心地のよいカフェで、彼女はひとりの男に出会う」



 男は彼女に興味を示す。彼女の瞳に絶望を見つけたからだ。

 男は彼女に優しく話しかけ、彼女の緊張を解す。そして、彼女の悩みを聞き出す。

 アルコールやおいしい料理は、そのためのスパイスに過ぎない。

 彼女は人に受容されることに飢えている。彼女がもっとも欲しがっていた物を与える。満たされる快楽が、彼女の判断力を壊していく。彼女はすべてを吐露してしまう。



「どうしたらいいかわからない、と彼女は言う。あわれな彼女に男は教えるんだ。彼女の手を取って、その爪を褒めながら、爪くらいしか褒めるところもなかったしね。

「爪は、妹が選んだマニキュアで飾られていた。彼女は、妹の容姿に憧れていた。妹が選んだものを、彼女は拒むことはできなかった──妹はとてもきれいな指をしていると言っていましたよ、マニキュアなどしなくても。マニキュアは、彼女が妹の姉であるために必要な、彼女への恭順の証……とまで言うと大仰かな。でもね、追い詰められた人間にはそのくらい強い言葉を使った方が、すんなり入るんです」



 ──これはとても暗示的だね。

 男は彼女に言う。低く、甘い声で。彼女が妹に支配されている証が、この爪の輝きだと告げる。

 ──こんなもの、剥いでしまえばいい。この爪ごと、君のなかから、妹の存在を消すんだ。そして、それを見せつけて言ってやればいい。もう言いなりにはならないと。

 これは儀式だ。魂を解放するための。痛みが大きいほど、安らかな解放が訪れる。







「アツミくん、まさか、君」

「ドミノって、倒したくなるじゃないですか」

「なにいきなり。ドミノ? ドミノ倒すの? ならないよ! 倒れたらまた作り直すのにどれだけかかるのか考えたら……っていうか、君の言ってるの、自分が作ったドミノの話じゃないよね!?」

「そうです、誰かが大切に作ったドミノ」

「うわぁ……、うわぁ、アツミくん、君、殺されるよ」

「ドミノを倒したからって? たかがドミノですよ」







 ミズキはスマートフォンを取り出す。

 うまく動かない指で、彼女の妹にメッセージを送る。

 何と書けばいいか、ミズキは迷わなかった。なぜなら、彼女は爪を剥いだあとだったから。失禁するほどの痛みに、床を汚した排泄物の始末をする惨めさに、彼女の自信は裏付けられていた。私は解放された。共犯者という役目から。

『今日、美容院に行きました。男の美容師さんだったけど、とても良かったです。ハルカに聞いてほしいことがあります。私には恋人がいます。この爪は私の恋人がやってくれました。すごいでしょう? 今日の美容師さんも褒めてくれました。もうお姉ちゃんは男の人が嫌いじゃないし、ハルカとは普通の姉と妹として、仲良くしていきたいです』







 普通の。

 普通の姉と妹、普通の家族、普通の学生、普通の女の子、普通の子供。







「ドミノのせいで俺が嘘ついたって言われてるの?」

「ナオトさん、真実は残酷ですよ。目を閉じていれば、まずいビールをうまいビールだと思い込むこともできる」

「さっき目を開けて飲めって言ったじゃん!」

「優しさとは何かってことですよ。殺す相手がいると思えば、まだ生きていけるでしょう。魂の殺人って、ナオトさん聞いたことあります?」

「ない。アニメか何か?」

「違いますよ、やだなあ、酔っ払いは」

「酔ってないよ」

「酔っ払いはみんなそう言いますね」

「アツミくんって優しくないよね」

「俺は優しいって言われますよ、よく。……あれ、ナオトさん? ナオトさん? おーい……」

 酔いが回って、回って……僕はそのまま、眠り込む。短い夢。







 何よ今更、とハルカが叫ぶ。ハルカは泣いている。美しい顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにして、美しい髪を振り乱して。

 あんたはあたしの言うこと聞いてればいいのよ、ミズキの髪を掴んで体を引き倒す。

 馬乗りになって、何度も拳で顔を殴る。

 ブス! ブス! あんたみたいなブス、死ねばいいのよ!

 あんたがいなければよかった! あんたがいなきゃ、あたしはもっと!

 あんたみたいなブスがいたから、あんたのせいであたしは!

 比にならない程の強烈な痛み。怒り狂ったハルカの暴力がミズキを襲う。

 何この爪ぇ! 普通じゃないでしょ!? 頭がおかしいんじゃない! 恋人なんかお前なんかが!! 

 殴り、蹴り、踏みつける。叩きつける。

 お姉ちゃん、どうしてぇ。捨てないでぇ、あたしを捨てないでぇ。

 視野が狭まっていく。息が詰まる。

 おねえちゃぁん、なんでぇ。

 痛みによって、ミズキの魂は解放される。──魂、心、それが、死後も存在するのなら。

 死は終わりだ。不可逆の時間の流れが、生を死に変える。



 ハルカは小さな背中を向けて、蹲っている。彼女は何かを拾い集めて、貪り食っている。──あれは血の味がする果実、君が求め続け、誰も与えてくれなかった果実。

 それを求め、君は与えられる側から奪う側へ、殺される側から殺す側になる。君にとって殺すことは相手を食べて、愛する行為。これはもう裏返らない。──これはとても悲しいね。

 だって、そのザクロはきっと、君の望んだ味をしていなかった。

 君が死を与えたことで、君の最愛の──たぶん、そうなんだよね、君が愛したお姉さんの苦しみは終わった。けれど君は生きている。

 君の心は生きている限り殺され続ける、君が愛した人々によって。







 肩を揺すられて僕は薄目を開けた。

 アツミが僕の顔を覗き込んでいた。金色の虹彩の中心、真っ暗い深淵。

「もう、ほんとに寝ないでくださいよ、ほら、そういえばお酒飲んだら恋愛トークしようって約束してたじゃないですか! 酔いが醒めるまでもうちょっと飲みましょう」

 滅茶苦茶だ。

 渡されたグラスを僕は受け取る。泡は下から上へ。何を話してたんだっけ、僕は少し笑う。忘れるのは上手な方だ。

「いいよ、じゃあこれから、愛について話をしよう」


お読み頂きありがとうございました。

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