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最終話となります。
教会の地下への入り口は、寂れた岬から広がる花畑にあった。ご丁寧に立ち入り禁止の枠で括られたその花畑にはもう後は逝くだけの向日葵たちが。彼らは遠く、海から上がってくる太陽をただ見つめていた。
穴倉から這い出た私は、その場で兄が来るまで待っていられず、岬に立っている教会が見ようと向日葵を掻き分けて走る。
花畑を抜け、やっと見えた岬の教会は、炎に包まれていた。ぼうぼうと燃える教会は朝日より輝き、そして瑠璃色の空を覆い隠すように黒煙を吐き出していた。
「もしかして……! 兄さん……!」
矢も盾もたまらず、教会へ駆け寄ろうとした時――
「――俺は此処だ、愚弟め。煙で鼻がいかれたか?」
すぐ後ろ、振り返ると無数の向日葵たちの向こうから歩いてくる人狼が一人。兄は、無事だった。
「俺が火を点けたんだ。燃やしたほうが色々と都合が良いからな」
つまらなそうにしている兄さんは私の目の前までやって来ると、酷く暗い目で私を見ている。いや、正しくはもう存在しない左腕を、だ。
「……気にしないでください。私はお嬢様、吸血鬼の一族と契約を交わしているので簡単には死ねない体になっているので。その上、人狼だったためか、ちょっとおかしいんです、この体は」
思わず笑って誤魔化してしまった。だが、兄が何を悲しんでいるのか、何を苦しんでいるのか私には分かった。彼は、もう全力で闘えない事を悲しんでいるのだ。
「……賾虚はもう終わりだ。頭も幹部も何もかも、消えちまった。後は連絡役が何人か残っているが……まぁ、あいつらは何も出来ないからな」
何もなかったように兄は首を竦めて目を閉じた。その態度に、何故か私までがっかりしてしまった。何故だろう、答えは見つからない。
「いえ、こう言うのもなんですが……賾虚を潰した影響などは無いのですか? 例えば恨みを持たれる、など」
もしお嬢様の身に何かあったら、と不安になって訊ねてしまう。
「あんな狂犬みたいな奴ら、居なくなって喜ぶ者は居れど怒る者などいない。……困る者はいるかもしれないけどな。なに、そういった奴らはすぐに他の代わりを見つける」
長年属していた兄が言うならその通りなのだろう。そして私は、少し前から決心していたことを兄に打ち明ける事にした。
「兄さん、良かったら私と一緒に来ませんか? お嬢様には私からお願いしてみます。確か、庭仕事をする人が不足していたはず。やり直して、みませんか……?」
その淡い期待は、叶うことなく。
「断る。朝夕とお前の顔を見なくちゃならんのは、堪える。そんなのはガキの時分で充分だ。それに―――俺は殺し過ぎた。お前と別れてこの十年、殺し以外何もしてない」
そっぽを向いて、海から昇る朝日から目を逸らす兄はどうしようもないほど色を失っていた。
「そんな言い訳、理由になりません。その十年で得るべきだったモノはこれから補えば良いじゃないですか。誰かを殺めたことなど、何の理由になりません!」
思っているより大きな声が出た。私は、兄にどうしても一緒に居て欲しくて駄々っ子のようになってしまった。こんなに辛く、痛いと思った事がない程、心は泣いている。
「あなたがどんな人でも、どれだけ人を殺しても! あなたは私の兄なのですよ!? その責務を放棄することなど、弟の私が決して赦しませんっ。だから――――だから頼むよ、兄さん……一緒に居てくれよ……何でそんな事言うんだよぉ、兄さん、くそォ……!」
こうして泣くなんていつ振りだろう。幼い頃、兄に手を引かれた帰り道? 辛い訓練に耐えられなくなった時? 遠く、遠く滲む記憶は様々な風景を見せ、様々な兄の姿を見せた。
そんな私に、兄はいつものような嘲笑ではなく、困ったような温かい笑みを浮かべ、私の頭に手を乗せた。
「ったく、お前はいつまで経っても馬鹿だ。いいか、お前は俺の弟だ。それはどうしたって変わらない、俺の大切な弟だ。それにお前は、この十年間俺が居なくても闘ってこれたんだろう? それは何故か分かるか? それはな、お前が俺と同じ……いや、俺よりも大切なモノを見つけられたからだ。人よりロクに世間を知らない俺でも、それはとても貴いことだと分かる。俺はな、ルッゾ。俺もそんなモノが欲しいんだ。見つけたいんだ。もう殺さずに済む何かをな。それはお前と一緒に居たらきっと、いや、絶対に見つからない。だから俺は、お前と一緒には居られない」
頭を撫でられながら、諭すように宥められる。兄の口調は自然と私の知る、幼い頃のそれになっていた。
「でっ、でも……兄さんっ、また逢えなくなるっ、かもしれないじゃないか、嫌だ、そんなのは……! やっと逢えたのに、全部忘れて、もう逢えないと思ってたのに……!」
情けないほどに、今まで隠していた不安と涙が零れ落ちる。
「忘れてしまっても、記憶が無くなってしまっていても、お前は俺を思い出した。心配するな、お前が何度忘れても、俺が思い出させてやる。思い出せなくても、見守っていてやる。そして、お前の幸せを誰よりも願っていてやる――今までも、これからもな」
そう言ってくしゃくしゃと頭を撫でると、兄は私から離れた。
「この狭い秋皇、色々と廻ってみるさ。そして、お前の左腕が治せないか、調べてみる。なに、手紙くらいは送ってやるから心配するな。そのうち、俺にも大切なモノが見つかったら顔を出す。その間、お前はお前の大切なモノを立派に護ってみせろ。いいな、約束だからな」
私の胸に拳を軽く押し当てる兄は、目を細めて笑っていた。
「はい……っ、約束、します……!」
「よーし、良い返事だ。それじゃあ、な」
拳を離して肩を叩き、兄は岬から去って行く。ポケットに手を突っ込んで、ただただなだらかな坂道を下っていく。私は耐え切れなくなり、大声で叫んだ。
「兄さーんっ! お元気でーっ!!」
手を振る私に、彼は振り向く事もせずにただ片手を上げて答えた。そしてゆっくりと、名残惜しそうにゆっくりと坂に隠れ、ついに姿を消した。そしてまた私は泣いた。孤独な狼が、月に向かって吼えるように。
屋敷に帰ってきた私はまずは驚かれ、泣きつかれ、そしてどつかれた。流されるままに服を脱がされ、治療され、休みを言い渡され、自室での謹慎をする羽目になった。
身体は既に回復していたが、他の人には「片腕がない」ということがとても大ごとに見えるようでいくら私が職務への復帰を嘆願しても聞く耳を持ってくれなかった。
休み中、何度もキヌが私の部屋に訪れた。本人は「見舞いと世話」と言っていたが、きっと彼女はただサボりたかったのと、私をからかいたかったのだろう。
「『はい、お嬢様に戴いたこの名に誓って!』だなんて啖呵を切っておいて、帰ってきたら片腕失くした上に体中ボロボロで血まみれ、世話が無いねぇ」
「どう見ても半死半生の重傷なのに、『私の居場所はお嬢様の隣ですので』だなんて、執事としても自覚が足りないねぇ。こりゃまた後で鍛え直しだよ」
「……うん? 何だいその顔は? もうアンタみたいな老いぼれに学ぶ事など無いと? お前は家事だけしとけと? ……あたしゃ、何だかまたトンデモ料理が作りたくなってきたよ。アンタの昼飯、トマトと米を砂糖で煮込んだ雑炊決定だから」
と、休みのはずが休みにはなり得ず、ひたすらにキヌのお小言を聞かされ続けた。お嬢様は――ついに一度も足を運ばれにならなかった。
キヌにお嬢様の様子を訊ねても、「いつもと変わらない」と答えるのみで、どうされているのか分からない。私が帰ってきた時、抱きつかれたのが最後だ。まだ休養を取って間もないのに、とても長い時間逢っていない様な気がする。
何度か逢えるか訊ねてみたが、答えはいつも「部屋で休んでいろ」の一点張り。このままでは身体が鈍ってしまう。それではお嬢様を護る事が難しくなる。私は部屋で身体を鍛える事にした。片手でもそれに適した戦い方があるはずだ。さっそく新たな道を模索しようと躍起になっていたが、すぐさま他の者に見つかってベッドに縛り付けられた……文字通りに。
医者の見立てを随分と前倒しにして私は「全治した」と医者からお墨付きをもらった。その日の内に復帰を申し出たが、次の日に改めて、と断られてしまった。確かに、しっかりと準備して、完璧な状態で仕事に戻るべきだろう。私は納得して、部屋で身体を鍛える事にした。
夜になり、つい我慢できなくなって庭に出て広い空間を使って勘を取り戻すべく、存分に身体を動かした。目線を感じ、そちらに顔を向けるとお嬢様の部屋があった。つい先ほど閉じられたのかカーテンが少し揺れ動いており、その向こうに小柄な人影が見えた。その影は動くことなく、ずっとそこで立っていた。
私が稽古を再開すると、程なくしてまた目線を感じた。だが次はその主を確認することなく、稽古に打ち込んだ。それは夜遅くまで続けられたが、目線は最後まで感じられ、お嬢様の部屋の灯りも消える事が無かった。
待ちに待った朝。正直に言って眠る事が出来なかった。だが委細問題ない。何よりも今は、お嬢様に逢いたい。朝食が出来たという事で、今お嬢様の部屋の目の前に居るが扉を叩く手が震えている。だがしかし、躊躇うことなく私は扉を叩いた。
「はい」
扉の向こうから聞こえる声はまぎれもなく、お嬢様のモノ。そしていつも通り扉を開け放ち、挨拶をする。
「おはようございます、お嬢様。今この時から復帰させていただきます。どうかまたよろしくお願いします」
朝日差し込む部屋は眩しく、その光から顔を背けるように頭を下げる。お嬢様の姿ははっきりと見えなかったが、怒っては……おられないと思う、いや思いたい。
「……シロ。シロは『おはよう』より言わなくちゃいけない言葉があると思うんだけど。人は帰ってきたら、待っていた人に何て言うんだっけ?」
そうだ、私はまだ伝えていなかった。大切な人に、大切な言葉を。
「――ただいま、戻りました」
顔を上げて己の帰還を告げた。約束は果たされなければならない、それが「わがまま」の条件だ。
部屋で陽光を浴びているお嬢様。微笑み、佇む姿は彼女の母に似ていた。
「はい、お帰りなさい。もう体の調子は大丈夫? 片手が無いと色々不便だと思うから、何かあったら言ってね。一応、色々と義手について調べているんだけど……後で一緒に見に行こうね」
笑ってそう言ってくださるお嬢様は、きっと私に気遣ってくれているのだろう。私としても辛そうな顔で心配されるのは飽き飽きしていたので笑ってこれからの事を考えてくれる方がありがたい。もう、気を落としてもいないのに「頑張って」と言われるのは……正直、堪える。
「ありがとうございます。至らぬ私の為に。ですが当分はこのままで居たいのです。己に対する戒めと、有事の際に対応できるように。隻腕であることに不自由を感じなくなってから、義手について検討させて頂きます」
折角の提案だが、今はこの身体に慣れておきたい。この身体で、これからはお嬢様を護っていくのだから。
私の要望にお嬢様は嫌な事一つせず、了承してくれた。
「分かった。あと……シロのお兄さん、ルッゾ……さんだっけ? あの人と何をして、そしてどうなったのか。クロさんに何となく話を教えてもらったけど、当事者から聞くべきだよね、私はこの屋敷の主代理なんだから」
どうにもお嬢様は強くなられたようだ。笑顔で無言の圧力を掛けられるのは、首を真綿で絞められるのと同義だ。
「兄は、賾虚を一人で壊滅させようとしていたようです。彼の臭いを追って、岬の隠し通路を通って地下室――あの燃え落ちた教会の下ですね。あそこは教団の本拠地だったそうです。そこで私が着く頃には、兄は誇張ではなく、何十人もの信奉者と渡り合い、そして殺害していました。私がした事と言えば兄の手助けと、教祖の朱羅を兄と共に破った事ぐらいです。私は力が足りず、左腕を失ってしまいましたが……あの人は最後の最後まで強がって、何ともないような素振りをしていました」
思い出し、寂しさとおかしさ、そして懐かしさが心を埋めた。じわりと胸に温かさを感じる。
「手負いの私を逃がすと、兄は教会に火を点けました。彼に言わせれば『燃やしても誰も恨まない』とのことで。そして兄は国中旅をすると言って、行ってしまいました」
「……やっぱり、シロとお兄さんって似てるね」
お嬢様の口から予想もしなかった言葉が飛び出したので、私は驚き、否定した。
「わ、私はあんな人格破綻者では無いと思うのですが! あの人は暴力と理不尽の具現者みたいな人ですよ!?」
お嬢様は口元を隠して笑う。どうにも私の発言がとても面白かったようだ。何故?
「ううん、自分を蔑ろにして一人でどうにかしようとする所とか、すごく似てると思うよ? だってお兄さんも言ってたもん。『本人は「自分は大丈夫」だとか思い込んでて始末に負えない』って」
あぁ、そう言われてしまった何も言い返せない。確かに、その通りだ。
「また、お兄さんに会えるといいね……」
「えぇ、そうですね。手紙を出してくれるそうなので、楽しみにしています。さぁ、そろそろ朝食へと――」
私が手を伸ばして促すが、お嬢様は動くことなく、窓辺で太陽を浴びている。薄い笑顔を浮かべているその姿は、夜でもないのに何処か妖しさを感じさせた。そう言えば今更だが、お嬢様は眼鏡を掛けておられない。それだけではなく、顔を隠すように長く伸ばされていた髪も所々編み込まれ、何と言うか……風通しが良くなっている。
「……………………はぁ」
「お、お嬢様……?」
溜息を吐かれ、脱力されたお嬢様は恨みがましく私を睨み付ける。私は何かしてしまったのだろうか……?
「あぁもう! 何で私、こんな面倒くさい人を好きになっちゃったかなぁ」
「はぁ……?」
思いがけない言葉に、ろくな反応が出来ずに阿呆のように間の抜けた返事を返してしまった。好き? 誰が? お嬢様が私を? ……何で?
呆けた私を見て、ばつが悪そうにお嬢様は似合わない咳払いをして仕切り直した。そして、続きの言葉を紡ぐ。
「こほん、シロ……もう『誓って』なんて言わない。これは『お願い』、ただのお願い。だから主従の関係とか気にしないでね。私は、これからもずっとシロと一緒に居たい。だからシロ、シロもこれからもずっと一緒に居てくれる……?」
いつものようにせがむ様なモノではない。ただ、お願いされた。誓いと約束、それよりもおぼろげな、どちらかが忘れただけで途切れてしまう曖昧な『お願い』。破る事はたやすく、守る事は難しい。何故お嬢様はそのようなものを選んだのか。それはきっと―――
「そのような『お願い』では、いつ忘れてしまってもおかしくないですね」
一瞬、お嬢様の顔が悲哀に染まる。
「――でも、いつまでも一緒に居れば、忘れてしまってもすぐに思い出せますね。片方が忘れてしまっても、もう一方が教えてあげればいいのですから」
ぱあぁ、と明るい表情になられたので、私も思わず鏡のように微笑んでしまった。
「それじゃあ……!」
「えぇ、私もお嬢様とずっと一緒に居られるように願いましょう。互いが、互いに教え合いましょう―――二人の間には確かに愛が存在している、と」
「シロっ!」
胸に飛び込んできた大切な人を右腕だけで強く抱き締める。柔らかい匂いが鼻腔をくすぐる。私は、これからこの人と共に生きていくのだ。きっと様々な苦難が待ち受けているだろう。何度悩む事になるか分からない。だが、それでも、きっとこれで良いと思うのだ。
「さ、早くしないとキヌが様子を見に来てしまいますよ。いきましょう?」
「うん! うん、行こう!」
残された右手で最愛の人の手を取り、部屋から出て行く。最初の関門はあの喧しいメイド長だ。最初から中々の強敵だが、きっと大丈夫だろう。私は決心を新たに、扉を閉じた。私たちは、先へ進まなければならないのだから。
そして閉じられた部屋へ、窓から優しい光が差していた。その光は細工された硝子のよって屈折し、部屋の暗がりまで照らしていた。そのぼんやりとした弱い光は闇をぼやかし、陽光へと滲ませた。闇と光、それは今、偶然にも溶け合って一つになっていた。それは、いつまでも、途方も無く長い時間が過ぎても変わることなく、寄り添い続けた。
―――彼らがそれを大切に想う限り、ずっと。
予定よりも長引いてしまいました。自分の筆の遅さと文章の稚拙さに悩まされてばかりです。これからも書き続け、精進していきたいと思いますので、どうかよろしく願いします。