後編
小数第4位ということは、試行回数は数十万回に到達する恐れがあると考えればいいのか。自慢じゃないが僕は分数の足し算でも躓いた経験がある。計算には自信が持てなかった。どちらにせよ、普通の人間が個人で行うには絶望的な数値である。
頼むだけ頼んで自室へと引き返した志藤を追い、身勝手な彼女のいる4階へと向かう。攻略サイトでレアドロップの項だけ確認したが、見るだけ陰鬱とした気分になりそうだったので、僕はすぐさまブラウザを閉じた。体が震えるのは朝の寒さのせいだけではあるまい。
志藤の部屋に着いてインターホンを鳴らす。彼女にはできなかったことを成し遂げたのだ。黒人間の来訪が尾を引いているのか、それとも苦行に身を投じる前の危険察知本能か、いづれにしても僕のテンションはなぜか上がっていた。志藤からの応対は素早かった。明るい声と共にドアが開かれる。ちっ、少しでももたついたら二度寝でもしてやろうと画策していたのに。しかし、
「いくらなんでも不用心だろ。僕だと決まったわけでもないのに」
「気にするなし。ささ、上がって上がって。近う寄れ」
近くに寄る必要はないだろう。
実をいうと、志藤の部屋にお邪魔するのは初めてではない。そもそも同じアパートだから間取りなどはほとんど同じだ。違いといえば全体的に明るい配色で家具が配置されている点だろうか。家具の違いくらい些細なものである、と思ったら大間違いだ。なんだかんだ言って同年代の女性の部屋なのだから、相応の緊張は免れない。
「それがいくらズボラ引き籠もりの廃人ゲーマーでもだ」
なぜ今時の女子大生の部屋にデスクトップパソコンが置かれているのか。完全なゲーム用だろ、これ。据え置き機付きのテレビとベッド、小さな机を含めたら床面積のほとんどが占拠されてるぞ。
「とんでもない悪口垂れ流したね」
女子が垂れ流すとか言わない。
「まあ苦行を課すのは理解している。成功の暁にはピザでもおごるよ」
志藤はすでに立ち上げられた「幻想物語」を指差す。早速やれと。報酬がピザなのは予想できなかったわけでもないし別に構わないが、どうやら本気で外出する気がないなこいつは。テレビの前に座ろうと思ったが、場所もないのでベッドの上でやってくれと勧められる。いいのかそれで。
「ちょっと待った、確かこれストーリーが進行したらもうボスとは戦えないんだろ?流石に毎回データリセットするのは嫌だぞ」
もしもそんなことになったら冗談ではなく終わらない。ストーリーの進行にかかる時間なんて数時間単位だろう。確認のためデータ選択画面で止まったまま志藤に尋ねると、奴はのんきに携帯機で別のゲームをしていた。それがお前の取るべき態度か。
「本当に攻略サイトは流し読みしただけなんだなー。くおっ、ブレスが。普通に一番のデータで始めてよう。んで、メニュー欄に『思い出の翼』てのがあるから。てめ、毒攻撃は卑怯だぞ!」
人がこれから延々と作業を繰り返すのに、自分だけ狩りを楽しんでんじゃねえよ。
すっきりしない気分で指示通りに『思い出の翼』を使用する。これで過去に撃破したボスとの再戦が可能になるようだ。経験値が入らない仕様なのは楽なボスでレベル上げをさせないためか。しかし便利なアイテムだな。ところで小さな疑問なのだが、
「なあ志藤、効果時間が2時間とあるんだが」
画面の右上に表示される残り時間には何の意味があるんだ?大体想像はついているが。
「その名の通り効果時間だよう。ボスと無制限に戦えるわけじゃないのさ、課金アイテムだからねえ。ちなみに戦闘が始まるまで有効なら問題ないから、切れたら掛け直して」
気軽に言うが、お前は2時間効果が続くアイテムを複数回使用すると本気で思っているんだな。その課金アイテムとやらの単価は知らないが、余裕で3桁所持していたことには狂気すら感じるよ。起きてる間ずっと有効にしていても一月はもちそうだ。
2時間といえど他人の金なのだから、無駄にするべきではないだろう。気を取り直してボスの選択画面に移る。ゴブリンキングにゴーレム、クラーケンなんてのもある。数多くある選択肢だが、その中の一つに目が留まる。スクロールして行きついたのは『ワイバーンの襲撃』だ。
「ワイバーンで良かったか?」
確認が取れる前だがもう勝手にローディング状態にまで進んでいる。もし違っても多少時間がかかるくらいだろうし。すぐに戦闘画面に切り替わる。今更気づいたが、基本的な操作方法も分からないぞ。
「憶えてくれてたのかい」
自身は別ゲームに熱中しながらニヤニヤと笑う。なぜか負けた気がするため、戦闘はすべてオートプレイにしてやった。全滅しようが知ったことか。しかし僕の期待通りにはいかず、最高レベルとおそらく最強の装備で全身を固めたキャラクターたちは、ただの一度も負けることなく悠々とワイバーンを打ち滅ぼしていった。
7時間が経過した。文字で表すとたったこれだけだが、もう夕方に差し掛かってきているぞ。戦闘回数は1時間に平均20回程度で、休憩を挟んでいても100回越えである。僕の体は義務的に動いているだけだ。当然だがドロップなどしていない。本当にドロップするのか疑問である。攻略サイトの罵詈雑言にも頷ける。志藤にそのことを伝えると、たかだか100回じゃないかと呆れられた。
「流石に僕に頼む前は自分でやってたんだろう。一体どれだけのワイバーンを虐殺してきたんだ?」
廃人たちによる総攻撃で、彼らは絶滅していてもおかしくない数撃破されているはずだ。
「いちいち数えてないよ、ただ10日くらいはずっとそれだけやってたんだけどね。自動で戦闘してくれるプログラムとか私も欲しかったよう」
脱帽だな。軽く1000回はこの不毛な努力を続けたのか。心も折れるに違いない。
志藤が完全に僕に丸投げしているとは思っていなかったが、やはり彼女の精神力は並大抵ではないようだ。ただのゲーム廃人ともいう。最低でも彼女が倒した数の半分くらいはワイバーンを叩きのめすべきではなかろうか。それが僕が彼女に対してできうる唯一の努力なのだから。
いろいろな理由をこじつけようとしたが、僕の方から諦めるという選択肢など最初からないのである。確かに延々と続く作業自体には心の摩耗しか感じないけれど、部屋に入る前から変わらず僕の精神は高揚したままである。この気持ちは言葉にするまでもなく簡単に理解できる。しかし理解していても行動に移す気はないのだ。そんな勇気も鋼鉄の精神力もあいにく僕は持ち合わせてはいない。
だから僕は彼女が求める限り、この無謀な挑戦をやめるつもりはない。ダラダラと心を擦り減らしながら耐えていくのだ。ワイバーンがドロップするまでにどれだけ戦闘を繰り返すかなど、僕にとっては些細な問題である。たとえその数が千を超えようとも、万を超えようとも関係ないのだ。むしろ確率なんてのは低い方が望ましい。それだけ彼女といられる時間が与えられるのだから。
勇者のキャラクターがワイバーンにとどめを刺す。霞むように消えていく哀れな中ボスの影。何度も見た光景、また新たな戦いの合図でもある。この戦いに僕の負けはない。いくらでも好きなだけかかってくるがいい。
そのときの僕は特に意識もせず、メッセージを流していただけだった。目も開かずひたすらに決定ボタンを押し続ける。100回も見ればいい加減内容も暗記してしまうので、今更画面に目を向ける必要などないのだ。ただ、いつもと違う効果音が流れた気がした。
なんとなく志藤の方へと向き直る。彼女もこちらを向いていた。いや、彼女は僕を超えた先を見つめている。
つられるように画面へと目を戻す。
『ワイバーンが仲間になりました。』
彼女が手持ちのゲーム機を投げ捨てて飛び掛かってくる。その瞬間僕の視界はスローモーションで変化していた。そして彼女の体が僕にぶつかるころ、僕の気持ちはただ一つであった。
僕はこの中途半端な運の良さが嫌いだ!