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第三章 ④

 この正直者の営業マンは嘘をつくのがほんとうに下手だ。


 しかし、問題なのは、どんな嘘をついているのかが皆目見当つかないのである。


「わたくしが小笠原さんの電話をいただいて気を失ってから、次に目を覚ましたら小笠原さんがいました。でも、その間の時間、たった三十分くらいしか経っていませんでした」


「………………」


 真備が口元で微笑んで沈黙している。


「どうやって昨日来たのですか」


「たまたま近くにいたんだよ」


「他にも小笠原さんの先輩とか妹さんとかいましたよね。みんな一緒にいたのですか」


 再び真備が沈黙する。ほら、嘘をつくことになれていないからすぐに行き詰まる。


「それにわたくし、倒れている間、夢を見ていたのです」


「どんな夢?」


「わたくしの身体から何匹もの蛇が出てきて、わたくしの身体を締め上げる夢」


 桜子自身、荒唐無稽な話だと思っている。


 しかし、どうにもその感覚が抜けないのだ。


 なぜなら――


「わたくしが入院していたときにも、同じような夢を見たことがあるのです」


 真備の目が細められる。


「教えてください。小笠原さん、わたくしに何があったのですか。そして」


 桜子は真剣に尋ねた。


「あなたは何者なのですか」


 真備は椅子に大きくもたれて、息をついた。


 唇を左右にかすかにゆがめ、言葉を探しているようだ。


「桜子さん――」


「なーんて、小笠原さん、びっくりしました?」


 桜子はにこにこと笑顔を作った。


「見てください、時計。さっきから動いてませんよ? 昨日の朝から止まっちゃったみたいなのです。スマホがあれば時間も分かるので、気づくのが遅かったのですわ」


 真備が呆然としたような顔をしている。


「時計、届かないので、申し訳ないのですが、電池の交換をしていただけないでしょうか」


「え、ああ、いいですよ」


 真備がこともなげに掛け時計を取り、電池を交換してくれた。


 冷蔵庫のモータ音が低く聞こえた。


 そのあと、さらに二軒ほどの保険の紹介先を真備に教え、しばらく談笑したあと、真備は桜子の家をあとにした。


 笑顔で真備を見送った桜子は、扉の閉まる音を確認して、ふっと表情を落とした。


 昨日から時計が止まっていたことは事実だ。


 しかし、スマートフォンで時間を確かめられる以上、これ以上ないくらい正確に、真備と電話した時間と、意識を取り戻した時間とは比べることができる。


 何が原因かは知らないけれども、真備はそのことに気づかないほど、動揺していたことは間違いないだろう。


 桜子は気づけば二階のベッドで寝ていた。


 手を伸ばしてカーテンを少し動かし、窓の外を見る。


 白い夏の太陽が、容赦なく地面を焼いている。


 たったこれだけの動作が、ひどく疲れる。


 真備の姿が見えないかと思ったが、二階の窓からも一階のリビングの窓からも、もう見えなかった。角を曲がれば、道の様子はあまり見えないのだ。


(それにしても、小笠原さんは何を言おうとしたのだろうか)


 あのまま桜子自身が妨げなければ、あの人はありのままにしゃべってくれただろう。


 しかし、その話を聞いてはいけないような気がした。


 桜子はリビングから再び二階にいて、次いで玄関にいた。


(そして、あの夢は何だったのだろうか)


 真備はあの夢についても何かを知っているような印象を受けた。


 桜子は玄関の廊下を見下ろしている。


(自分はここに倒れていて、たしかに大きな蛇に巻き付かれていた)


 それはもう確信に近い感想だった。


 それを真備が助けに来てくれた。


 どうやって――


(そういえば)と、桜子の思考が飛ぶ。


(他にも何人かいたのでしたわね)


 真備が先輩だといった女性と、真備の妹らしい。


(あの先輩という人、結構きれいな人でしたわね)


 いつから真備のことを知っているのだろう。


 自分の知らない真備を知っているのだろう、と思う。


 二人でいるときにどんなことをしゃべるのだろう。


 どんなところに行くのだろう。


 そのとき、真備はどんな笑顔をしているのだろう――


 気がつけば、真備と一緒にいたリビングで桜子はそんなことを考えているのだった。


 彼女の身体がリビングの天井付近に浮かんでいることを、彼女自身気づいていない。


☆☆☆☆☆☆


 メリー保険のビルのそばに、立ち食いそばのうまい店がある。名を「そばよし」と言う。


 鰹節問屋が立ち食いそばもやってくれている店で、鰹だしのきいた関東風のめんつゆが自慢の店である。


 場所柄、サラリーマンも多く利用し、当然ながらメリー保険の人々も多く利用している。


 桜子のガン保険の契約書をもらった翌週、真備とゆかりは「そばよし」で並んでそばをすすっていた。


 二人とも大きなかき揚げを載せた天ぷらそばを啜っていた。


 かき揚げを熱々のめんつゆに浸せば、かき揚げがつゆの旨みを吸ってとろりとなる。めんつゆのほうにもかき揚げの油が染み出して、ダシのうまみにいっそうのこくが出る。その旨みのきいた出しをくぐらせて啜るそばのうまさ。


 ワンコインでおつりが来る立ち食いそばだが、これ以上のうまいそばを真備もゆかりも知らない。


 お昼はあまりにも混雑するので、まだ11時だが、同行があるからと出てきて、さっさとそばを食べていた。


「小笠原くん、七味取って」


「はい」


 目を見張るほどの美女が立ち食いそばを啜っている光景は、意外と目立つ。


 真備は横でそばを啜りながら、周囲の好奇の目がゆかりに向いているのを敏感に察知していた。ちらりと横目で見れば、とてもよい音を立ててゆかりがそばをすすり上げている。かっこいい女の人だと思う。


「ん? 小笠原くん、どうかした」


「いえ、別に」


「あ、シャツに汁がはねてる」


「え、マジすか」


「まったく。子供みたいね」


 ゆかりが苦笑いして、自分のバッグからハンカチを取り出した。


「ほら、動かないで」


 周りの好奇の視線が厳しい。


「うん、きれいになった」


 ハンカチで拭く振りをして、法力も込めているのだろう。シミにもならず、きれいになっていた。

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