第三章 ③
その翌日、真備は再び桜子の家に呼ばれた。
今朝、出勤途中に桜子から留守電が入っていて、「ガン保険の契約をしたい」と言ってきたからだった。
書類一式を出力し、約款を用意する。
銀行振込にするか、クレジットカード払にするか分からなかったので、両方の書類を予備も含めて持っていくことにした。
朝礼を済ませ、ゆかりに手短に説明し、会社を出る。
三越前駅から地下鉄に乗る。今回は禹歩は使わない。
国分寺駅に到着し、人の流れに逆流するように駅を出て自転車に乗る。
鷹の台のほうにある桜子の家に行くには、国分寺駅から西武国分寺線に乗り換えた方が早いのだろうが、方向的に今日は好ましくない。俗に言う「方違」である。その分、時間がかかるが、そのために早めに出てきている。
「まったく、暑い夏の日だというのに、陰陽道というのは面倒だな」
自家用車でも持っていれば楽なのだろうなと思う。
国分寺駅から小一時間、午前中とはいえ夏の日差しを受けながら自転車をこぎ続け、桜子の家まで行くのはなかなかしんどい。
桜子の家の前で自転車を止め、タオルで汗をぬぐい、ペットボトルのお茶を飲む。
鞄の中の書類をもう一度確認して、インターホンを押す。
「メリー保険の小笠原です」
「はーい、お入りくださーい」
いつも通りの声に聞こえる。元気になったのだろうか。
玄関の中に入り、ドアを閉める。
桜子がやってきた。
「昨日はどうも、ありがとうございました」
「もうお身体は大丈夫?」
「ええ」
これまで通りのにこやかなお嬢様スタイルだ。
「留守電、ありがとう」
「はい。小笠原さんにはすごくお世話になっているので、これくらいはお役に立てたらと思いまして」
「いえいえ。ご契約、ありがとうございます」
真備は鞄から書類を取り出した。
まずは意向確認書を取り出し、意向確認書の各項目を確認していく。
「ここでもし『いいえ』があったら、どうなるのですか」
「設計書からやり直しだね。無理矢理な契約にサインさせるのはルール違反だから」
中には面倒なやり直しを嫌って、その場で押し切ってしまう営業もいるらしいけど。例えば、前橋マネージャー。
鞄からクロスのボールペン取り出す。モンブランほどではないが、ちょっと高級感があり、事務用の一本百円のボールペンとは重さも書き心地も違う。
保険契約は大事なものなのだと言うことを印象づけるちょっとした儀式だ。
「ここに名前を書けばいいですか」
桜子がボールペンを持った。
「……ええっ?」
「何かありましたか?」
「いや、何も」
「あ、ここにサインでいいのですよね」
「ああ、そう。そうだね。そこにサインを書いて」
桜子が署名する。想像していたほどきれいな字ではなかったが、本人が何も言わないところを見ると、これが通常運行のようだった。
意向確認書の次に、約款。
約款の内容はもちろん、契約概要と注意喚起情報を改めて細かく説明する。
特に大事なのは、クーリングオフだ。
「クーリングオフ、聞いたことがあります」
「そう。平たく言えば、私に騙されたと思ったら今日から八日以内なら契約をなかったことにできる」
約款に基づいてガン保険の内容を説明していく。
今回の契約内容の設計書も一緒に見せながらだ。その方が具体的でわかりやすい。
「契約内容など、問題ないですね」
「はい」
巻末の約款受領書を切り離し、サインをもらったあと、申込書を見せる。青を基調とした専用台紙には、すでに必要事項は印字されていて、サインをするだけである。
「昔はさらに印鑑が必要だったのだけど、いまではすっかり印鑑レスになって楽になったんだ」
「サインだけでいいのですね」
桜子が署名欄に自分の名前を記入した。
その次に告知書。
「今回はガン保険だけなので、通常の告知書よりも内容が簡便なもの。具体的には『いまでガンにかかったことはありますか』という質問を繰り返して聞いてくる」
当然、桜子はすべて「いいえ」で答える。これに「はい」があれば、基本的にはガン保険に加入は難しい。
「支払い方はどうする? 銀行振込だと今日一回目のお金を預からないといけないし、クレジットカード払なら桜子さん名義のカードが必須だけど、お金は今日いらない」
「じゃあ、クレジットカードで」
必要な情報を暗記しているらしく、桜子はすらすらとクレジットカード払の用紙に記入していく。
用紙を確認し、真備は申込番号などの必要事項を記入。スマートフォンを取り出してスピーカーで電話をかける。カードのオーソリティを取得をするためである。
音声の指示に従ってカード番号や保険料を入力し、最後に承認番号が自動的に与えられるので、それを用紙に書き込む。
自分の書いたところの不備がないか確認し、控えを切り取って、桜子に渡す。
もう一度、真備は「申込書、告知書、意向、クレカ、約款受領」と、書類を声に出しながら確認した。
「これで、大丈夫。以上」
真備が顔を上げると、桜子が笑っていた。
「何か?」
「いやあ、小笠原さんが面白くって」
「……普通に生きているだけだけど」
桜子がリビングの時計を見た。
「保険の契約って、結構短い時間で終わるものなのですね」
「そうだね」と真備も腕時計を見る。
「二十分くらいかな。ガン保険だけだったし。種類が多くなれば、書く書類も多くなるのでもっとかかる。いちばんかかったときは書類だけで一時間以上かかった」
「大変ですね」
桜子がふっつりと黙って、受け取った控え書類をもてあそんだ。
「今日は会社から来られたのですか」
「うん。朝礼のあと、すぐに会社を出た」
「ここまでは二時間くらい」
「もうちょっとかかったかな」
桜子が言葉を探す顔をした。
「昨日は――すごく早かったですね」
「えっ?」
真備の顔色が改まった。




