第三章 ②
真備やゆかりと共にいくつもの邪霊悪鬼の類と戦ってきた梨華でさえ、思わずうめかずにはいられない状態だった。
「桜子さん!」
駆け寄り声をかける真備に、桜子からの返事はない。
倒れている桜子の姿は、見た目には何も変わるところはない。
しかし、その全身を何体かの大蛇の霊に締め上げられている。
服を着ているのだが、霊視してみれば、体中に白い靄のような蛇の鱗が、まるで縄のあとのようについているように見える。
全身を巨大なニシキヘビに締め上げられていると表現するのが一番近いだろうか。
梨華が同じ女の子として同情している間に、真備は冷徹に計算した。
(これは――俺ひとりでは時間がかかりすぎる)
一刻を争うとはこのことだ。
真備ひとりで除霊していては、間に合わなくなるかもしれない。
スマートフォンを取り出し、念を込めながらゆかりに電話をかける。
きっちり三コールで、ゆかりが出た。
「真備くん?」
「姉弟子、頼みます」
それだけでスマートフォンを切る。真備は改めて霊符をいくつか取り出し、桜子の身体の周りに並べた。
外縛印を結んで不動明王の真言を唱え、大蛇の霊たちに念縛りをかける。
「動くな」
さらに言霊を上乗せ。
桜子の様子は、完全に気を失っている。
呼吸が荒い。豊かな胸の膨らみがしきりに上下していた。
霊能力のない人間が見れば、玄関先で熱中症で倒れたくらいにしか見えないだろう。
事実、玄関は熱がこもって暑かったし、桜子は汗をびっしょりかいていて髪が額に張り付いて気絶しているさまは、熱中症の症状にそっくりだった。
つまり、危ない。
プロの立場で真備はそう判断したのだった。
「桜子さん」
呼びかけながら真備は桜子をのぞき込む。
もうこのまま自分ひとりで始めてしまおうかと思ったときだった。
「真備くん、いるの?」
玄関の向こうから颯爽とした女性の声がした。ゆかりだ。
「玄関、入ってください」
あまり音を立てず、ゆかりが入ってくる。
「これは――大蛇の霊ね? 見たところ、三体くらい?」
「一部、悪魔的性質を持っているレベルのものもいます」
真備の分析に答えるように、一匹の大蛇が大きく口を開き、赤黒い舌をちろちろさせた。
「姉弟子、どうですか?」
「そうね」
ゆかりも鞄を置き、霊符を構える。
「このまえ私が祓ったものとは桁が違うし、この子が真備くんの言っていた子なら、これほどのものを呼び寄せるような悪人とも思えない」
「とりあえずは正体不明。俺も同意見です」
「ただ、マジでヤバいわね」
ゆかりがハイヒールを脱ぎ、家の中に上がる。ごく自然な動きに見えるが、心を無念無想に置き、大蛇どもがゆかりの存在に警戒心を抱かないよう、細心の注意を払っている。
板なりのしない廊下で助かった。ゆかりはするすると歩き、倒れている桜子の足元、ちょうど桜子の身体を挟んで真備と反対側に立った。
梨華が刀印を結んで、真備に小さな小刀を渡す。
真備とゆかりの目が合った。
「バン・ウン・タラク・キリク・アクッ!」
二人の陰陽師と一人の式神の声が重なる。
三つの五芒星が桜子の身体の上に出現する。桜子の身体を囲むように配置した霊符同士も光でつながれ、五芒星を形成する。
「エエエエイッ」
真備が気合いの声と共に、逆手に持った小刀を振り下ろした。
真備の気合いに応えるように、桜子の身体の上にある三つの五芒星が、横たわる彼女の身体にしずしずと降りていく。
重たい扉を閉めていくように、真備が渾身の力で五芒星を降ろしていった。
『シャァァァァッ!』
大蛇の霊が降りてくる五芒星をかみ切ろうと暴れる。
逆手に小刀を構えたままの真備が、眼力で大蛇をねじ伏せにかかった。
桜子の息が浅くなっていく。
真備は空いている左手で霊符を飛ばし、大蛇に犯されていない箇所に霊符を飛ばす。
肉体的な疲労ではなく、今回のような霊障による霊的疲労を回復させるための、法力を込めた霊符だ。
「観世音菩薩真言」
真備の声に、梨華が印を結び直し、観世音菩薩真言を唱える。
大蛇によって消耗している桜子を回復させるだけではなく、神仏の光で一杯にさせることで内側からも大蛇を祓いにかかるつもりだった。
外側からの五芒星。
内側からの観世音菩薩の光。
目には見えない法力の爆流が、桜子の身体を中心に渦巻いていた。
『シャァァァァッ!』
並の霊能者なら聞いただけで吐き気を催すような地獄波動の叫び。
真備たちの法力に対抗しようとしていた大蛇が、暴れ出す。
暴れて暴れて暴れて暴れて暴れた暴れて――
どうにもならないと悟った大蛇は動きを変えた。
逃げようとしたのだ。
そして――真備たちはこの瞬間を待っていた。
「おんきりくしゅちりびきりただのううんさらばしょとろだしゃやさたんばやさたんばやそはたそはたそわか――」
巫女のように透明で凜とした声が、密教系の大呪を紡ぐ。
「――おんしゅちりきゃらろはうんけんそわか」
大威徳明王真言による降魔法。
ゆかりが神威を纏ったかのような表情で真言を繰り返す。
数珠を握った両手で刀印とし、大きく振り下ろす。
大蛇どもが悲鳴を上げた。
「悪魔退散、怨敵降伏、一切成就ッ」
逆手に持った小刀を両手で振りかぶり、もう一度振り下ろす。
超高速エレベーターが急ブレーキをかけたような圧が身体にかかる。
大蛇どもは霊圧に耐えきれず、地の底へ堕ちていった。
動く者なき時間の中、真備が息をついた。
それを合図にしたかのように、ゆかりたちも息をついて構えを解いた。
「おんかかかびさんまえいそわか」
真備が自らの霊力を桜子に流し込めば、彼女はすぐに意識を取り戻した。
「あ、あれ……小笠原さん……」
桜子がまだ焦点の定まらない目で声を発した。
「もう大丈夫よ、二条さん」
ゆかりが優しく微笑みかけた。
「あなたは……」
「真備くんの幼なじみで、仕事の先輩。御子神ゆかりよ」
ゆかりがウインクして答えた。
「電話が急に切れたんでびっくりして飛んできたんだけど、何があったんだい」
「……よく分からないんです」
桜子が視線を外して答えた。
梨華が桜子の背中に腕を入れ、上体を起こす。
「あ、どうも……」
そう答えたものの、桜子の顔に不審の色が浮かぶ。
「こいつは小笠原梨華。俺の妹だ」
「妹さん……似てますね。制服、高校生ですか」
「国分寺高校。夏休み中だから」
桜子が真備の顔に視線を移す。
「もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
そう言って立ち上がると、桜子はスカートを少しつまんで膝を折った。
「ありがとうございました」
いまさらのように蝉の音がわんわんと聞こえた。
遠くで踏切の鳴る音がしていた。




