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第二章 ⑤

「保険のお仕事が二年半くらいってことは、その前は何をされてたのですか」


 さっきとは違う意味で真備の目が泳いだように思えた。


「大学を出たあと、しばらく研究職をしていたんだ」


「かっこいい!すごく似合いそう」


 真備が苦笑する。ちょっと軽い女に見られてしまっただろうか。自制心、自制心。


「そんなにかっこいいものではないよ。京都の文化財研究だから、地味な仕事」


「ふむふむ」


 京都の街と細面の真備の組み合わせは大変好ましく思われる。


 もちろん、桜子は真備の言っている「京都の文化財研究」が陰陽道であるとは思っていない。


 でも、京都の桜の綺麗な時期に、平安貴族の格好をした真備はきっと似合うだろうなと妄想が膨らむ。


(桜の時期の小笠原さん……桜と小笠原さん、桜子と……)うーん。よい。


 世間ずれと無縁そうな不思議な雰囲気の真備に、人並みに興味はある。


「京都、いいですよね」


「そうだね。もう久しく行っていないけど」


「そうなのですか」


「出身は小平だからね」


「そうなのですか!」


 思わず音量が上がってしまった。真備がちょっとびっくりしているではないか。


「実家ではないけど、今も小平に住んでいる。鈴木町の方」


「へー」


 いい情報が手に入ったと桜子は満足な気持ちになった。


「だから、自転車でこの辺を回っているんだ。それに」


「それに?」


「例えば、お客さんが入院しました、なんて時には、自転車ですぐに飛んでこれる。書類は私が全部準備しますから、サインと印鑑に箇所だけもらって、あとは寝ててくださいねってできるから。遠方だから書類だけ送りますねっていうのはなるべく避けたいんだ」


「優しいんですね」


「普通だよ。でも、お客さんとしては、そういう方が安心じゃない?」


「そうですね。そういう人の方が、安心できます」


 真備がひっそり笑った。


「お休みの日とか、どうされているのですか」


「休みはあってなきがごとしなので。仕事のこともあれば、ひとり暮らしなので買い物に行ったりしてるね」


「そうなのですか」


 楚々というふうに答えるが、うん、これもなかなか有益な情報に思う。


「どこかに遊びに行ったりはしないのですか」


「新宿にはよく行くかな。紀伊國屋の本店があるから」


「本、好きなのですか」


「うん、好きだよ」


 おっと、予期せぬ破壊力のある言葉じゃないか。


「そうなのですか」


 桜子は楚々と続ける。乙女は動揺を見せてはいけない。


「どんな本を読むのですか。やっぱり文化財関係とかですか」


「そうだね。文化財関連、になるのかな」


 諸々の哲学宗教神秘学関連の書籍なのだが、真備が説明を省略したのはさすがに桜子にも分からない。


「小笠原さん、ひょっとして」


「うん?」


「前のお仕事辞めたの、不本意だったのですか」


 真備が目を丸くした。


 桜子も、自分が何でこんなことを聞いてしまったのかと思う。


 何かが、そう聞かずには入れない何かが、真備の笑顔に漂っていたのかもしれない。


「そうだねぇ」


 真備が珍しく間延び声になった。


(嘘はいけませんよ?)という思いを込めて、真備を見守る。


「やりたいことを全部やりきったかと言えば、うーん、違うかもしれないな」


「………………」


「学校を出てからずっと文化財関連の仕事をしてたからね。世間知らずではあったと思う。いまもだけど。だから、まあ、自分を鍛える意味もあって、外の世界に出てみたい気持ちもあった」


「そうなのですか」


「いろいろ楽しいよ」


 真備がちょっと斜め下に目線を落とした。


 桜子はちょっと黙って、でも、言った。


「小笠原さんが転職してくれたから、こうしてお話が聞けたのですね」


 桜子の言葉に、真備が驚いて顔を上げた。


「えっ?」


 桜子は急に恥ずかしくなった。エアコンの音が気になる。


「小笠原さんが前の仕事のままだったら、きっとこうしてお話しできてない」


「それは、そうだね」


「他のお客さんも、小笠原さんに保険を相談できなかった」


「うん」


「小笠原さんのおかげで、『営業マンの嘘の分かる話』も聞かせてもらえたし、勉強になったし、いい保険教えてもらえたし」


 桜子の口調がだんだん熱を帯びてくる。真備がちょっと引いてやしないか、少し気になったが、やめない。


「きっときっと、出会えてよかったって思っている人はいてくれて……。だから――」


 低い機械音がした。真備のスマートフォンのバイブ音だった。


「あ、ごめん――」


「い、いえ――」


 スマートフォンの着信を見て、真備の顔色が変わった。


「ごめん、ちょっと、出ていいかな」


「は、はい――」


 真備が横を向いて小さな声で電話に出る。


「あ、マネージャーですか……えっ、不備?……はい、はい……すみません。はい、はい……よろしくお願いします。ありがとうございます」


 どうやら何かトラブルでもあったらしい。それにしても、女の子とのお話の間に電話に出るとはどういうことなのだろう。


 そう思ったが、電話に出ながらしきりに頭を下げてる真備を見てたら、何だかおかしくなってきた。


「ぷっ……あはは、はははは――」


「え、どうしたの」


 スマートフォンを切った真備が、怪訝な顔で尋ねた。エアコンの音が大きくなった気がした。


「小笠原さんって、ほんとうにいい人なんですね」


「えっ?」


 ちょっと暑い。桜子はエアコンの効きが悪いように感じた。


「そういえば、ガン保険のお話しの続き、でしたよね」


「そうだったね」


「あと、また小笠原さんに行っていただきたい知り合いがいるので、住所とか教えますね」


「ありがとう」


 真備が咳払いをすると、改めてガン保険の内容の話を始めた。


 桜子は真剣に聞いている振りをして、まったく真備の話が耳に入ってこなくなっていた。ただいつまでも真備の声を聞いていられればそれでいいと思った。

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