第二章 ③
紹介をもらった場合、保険の営業は喜んで紹介先に行く。
保険の営業の実に八割は見込み客探しと言っても過言ではないからだ。
そのために、飛び込み、テレアポ、セミナー開催、職域や学校訪問など、いろいろな手段を講じる。
自分で開拓できなければ、友人親戚を回るのだが、特に日本の保険会社の女性営業の場合はその傾向が顕著で、友人親戚を保険に入れるだけ入れたら行く先がなくなって半年でやめていく、などとも言われている。
まことに厳しい世界だ。
しかも、見込み客は必ず減っていく。
断りで減ることももちろんだが、契約が取れてしまえば、追加の契約があり得るにしても、来月以降の新規契約の見込み客ではなくなってしまうことがほとんどである。
商談が成功しても失敗しても、見込み客は減り続け、営業として回る先も減り続けていく。
(究極の自転車操業だよな)と真備などは思うのである。
しかし、そのサイクルを抜け出す道が一つある。
紹介である。
契約をもらった方、契約が続いている方が、保険の内容と営業マンを気に入ってくれなければ、紹介は出てこない。
しかし、紹介ほどありがたいものもないのだ。
第一に、自分で見込み客を探さなくてもいい。これで労力の八割は節約できる。
第二に、紹介してくれた人の信用があるから、すでに話を聞く態勢で営業マンを待っていてくれる。保険の切り替えに興味がなかれば、紹介されないだろう。
リスクもある。
紹介してくれる人は、営業マンの人となりも営業スキルも買ってくれている。その期待に応えなければいけない。
「ひどい営業マンを紹介された」などと思わせてはいけないのである。
紹介をもらったら、どんな小さな契約でも必ず決めなければ、紹介してくれた人の信用にもかかわってしまうのだ。
会社によっては、友人知人から営業を始め、そのあとは紹介だけでしか、営業行為を続けてはいけないという会社もあるらしい。
(俺には無理だ)と真備は思う。
(何しろ、友達いないからなあ、俺)
青春時代と呼べるモノがあったとすれば、真備にとっては陰陽師としての修行に明け暮れた日々であり、自己の内面との戦いの日々だった。
友人と呼べる者がいれば、それは呪術を鍛え合った仲間たちだろうか。
神秘家と呪術者を束ねる「陰陽庁」から下野したあの日に、そんな仲間たちとの縁も切れてしまったように思う。
半分は陰陽庁に属し、半分は在野であるような姉弟子の存在が珍しいのである。
(気がつくと陰陽庁のことを考えてるな――)
暑い盛りに自転車をこぎながら、真備は思う。
汗と共に未練も流れ落ちてくれればすっきりするのだろうか。
陰陽庁に戻れれば、救われるのだろうか。
(ないな)と思う。角を曲がる疾走感が心地よい。
(あの組織は俺のような人間には冷たくできている)
コネも後ろ盾もなく、自らの霊能力の才能一本で泳ぎ切るには、陰陽庁一千年の濃厚な政治学は厳しすぎた。
若かったのである。
姉弟子のような立場を選んでおけば、緩やかにでも陰陽庁に籍を残せたのだろうが、いまの真備の立場は、公式には在野の霊能者でしかないのである。
程なくして、真備は自転車を止めた。
二条桜子の家だ。
営業をもらった営業マンが絶対に欠かしてはいけないこと――それは、紹介してくれた方への感謝と報告である。
契約が取れたら当然だが、仮に取れなかったとしてもきちんと報告し、お礼を言うことによって、次回の紹介の可能性が残る。ゆかりの教えだった。
実際、ゆかりはいまはほとんど飛び込みなどはしていない。紹介が紹介を生み、そのまま延々と連鎖しているのである。
一営業マンとして、はなはだうらやましいと真備は思う。
ともあれ、桜子からもらった紹介先を一通り初訪を済ませたので、真備は桜子にお礼を言いに来たのであった。
お礼を言いに来ただけではなく、桜子のための設計書も持っている。
真備は桜子の家の前、車の通行に邪魔にならない辺りに自転車を止め、タオルで汗をひとしきりぬぐって、ペットボトルの水を一口飲んだ。
飲み物は今日も出ないだろうという確信があったからだ。
真備はインターホンを鳴らした。
「はーい」
少し間を置いて、桜子の声が返ってくる。
「メリー保険の小笠原です」
「はーい。どうぞお入りくださーい」
今日桜子の家に行くことは、前回の飛び込みの最後に決めてあったことでもあるので、対応が慣れている。
玄関に入ると、前回同様、少し遅れて桜子が降りてきて、リビングに通された。
「先日はありがとうございました」と、椅子に座る前に、真備が微笑みながら頭を下げる。
「こちらこそ、いろいろ教えていただき、ありがとうございました」
今日もサマーカーディガン姿で、お嬢様然とした微笑みだった。
「あと、ご紹介いただいた方々、ありがとうございました。二軒とも、早速お会いしてきました」
「あら、いかがでしたか」
「今度、具体的に設計書を見ていただくことになったよ」
「よかったですわ」
真備がお礼を言うと、桜子が心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「事前にご連絡もしていただいて、ありがとうございました」
「知り合いと言っても、両親を通じての間接的な知り合いでしたから不安でしたけれども、よかったですわ。きっと小笠原さんの人柄がよかったからですわ」
真備が照れくさそうな笑みを浮かべて椅子に腰を下ろした。
少しでも真備の役に立てたなら、よかったと桜子は思う。
初対面ながら、しゃべっているとなんとも心が落ち着くのだ。
桜子は、真備が陰陽師であること、つまり、桜子に対してのみならず、商談の場において法力を放出してお客様に光を入れながら話していることは知らない。
真備にしてみれば邪霊祓いの一種なので、ごく自然な振る舞いなのだが、それを好意的に捉えられるということは桜子自身、真備と何らかの波長は合っているのだろう。
桜子も、椅子に座る。真備が鞄の中からごそごそと書類やバインダーを取り出すところだった。
「お身体のほうは、大丈夫ですか」と真備に問われて、桜子は自分が病人だった思い出した。
「はい。かなり元気です」
「まだ通院とかはしているの?」
「いいえ、特には」
そう言えば、真備が前回家に来たときに、「入院していたときの病気の種類によっては加入が難しくなる保険もあります」と帰り際に言われたのだった。
ほんとうなら、営業マンとしてその場で病名を聞いてしまいたかったのではないか。それをあの場で聞かなかったのは、自分への気遣いかもしれない。
だから、桜子のほうから話すことにした。




