(2)
「…………」
葵は無言でしばし2人のやりとりを窺っていた。
(なるほど、無銭飲食……か)
対話の内容から察するに、どうやら長身の男はその店で飲食したはいいが、店員に支払うための代金を持っていないらしい。
それなら無論、男の方に非がある。
しかし男の態度は、店員の態度に困惑してはいるが、冗談ぶる余裕まで見せている。
店員は今にも男に掴みかからん勢いで大層ご立腹のようだ。
(まああんな態度じゃあ……怒りもするよな)
曲がり角で遠目に様子を窺いながら、葵は店員さんご愁傷様、と心の中で同情した。
とはいえ、自分には関係ない事だ。
埒があかないと判断すれば、店員が役人を呼ぶなり、それ相応の対処がなされるだろう――
そう思い、葵はそのまま店員と男の横を通り過ぎようとした。
相変わらず2人の噛み合わないやりとりが続いている。
「ええっと、だから、ちょーっとソコまで行って、知り合いからもらってきてちゃんと支払うよ~」
「あぁ!? それで、あんたが本当に戻ってくるなんて信じられると思うか!? そのままトンズラしねーって保証はないだろ!」
「うんうん、お兄さんのお怒りはごもっともだよ~。でもね、私もソレ以上の良案が思いつかな――……あ!」
横を通り過ぎようとしていた葵を見るやいなや、男は突然声をあげた。
同時に、背後からやたら視線を感じる。
男と店員、2人分の視線に我慢できず立ち止まり、おそるおそる振り返ると、男がこちらを指差していた。
(……えっ……えええぇっ!?)
真っ直ぐ突きつけられた指先に、驚きと焦燥でおもわずざっと後ずさる。
男とがっちり目が合った上での悪あがきだとは思いつつも、一度辺りを見回し、葵は引きつった笑いを浮かべながら、無言で問うように自分で自分を指差した。
予想を裏切ってくれる様子もなく、男は首を大きく縦に振る。
「そうそう、ソコのキミ! ちょーっとだけ、私のワガママ聞いてほしいんだけどな~」
男の浮かべる屈託のない笑顔に、ただただ嫌な予感しかしなかった。
面識のない相手ゆえに、そのまま逃げてしまってもよかったが、いかんせんこの町での任務がいつまで続くのか分からない。
町に滞在しなければいけない身としては、店員に顔が知られた状態で今後やり過ごすのは、いろいろと行動に響いてしまう。
しょうがない、とりあえずはその「ワガママ」とやらの内容を聞いてみよう。
それで無理なら、自分は無関係だと言った上で役人に突き出すなりしてしまえばいい。
(さっさと帰って昼食の準備もしたいし、ね……)
そう思いながら、葵は短く溜め息をつくと、男と店員のいる方へと足を向けた。
「……一体僕に何の用ですか?」
葵は言葉に微々たる不満を含みつつ、呼びつけた男の前で立ち止まった。
「ゴメンねー、そんなに手間は取らせないから」
葵の態度を察しているのか否か、どうにも真相が読めない笑顔で返してくる。
男は遠目にも長身だったが、傍へくるとその高さが想像以上に際立った。
だが自然と、威圧感のようなものはない。
服装は全身黒で統一されたフィット感のある上下に、白のラインが1本入っている。
肩にかかる長さの濃紺色の髪は、上向きにぴょんとはねたクセ毛が5本。
特に天辺から伸びる1本は、男のにこやか顔に合わせて陽気に動いているようにも見える。
長めの前髪からのぞく瞳は濃色――色は影になっていて、はっきりとはわからない。
羽や紋章は見当たらないが、髪や瞳の色の濃さや長い尖り耳から察するに、男は魔族に属する人種だろう。
(いろいろ聞いてた魔族の印象とは随分違うなぁ……)
男を一瞥した後、葵は内心思う。
それは、この中立界の住人に対しても感じていた事だったが、目の前の男の存在がその考えを際立たせた。
「それで、僕は何をすれば……?」
とにかく用件を聞いて、早々に退散しようと思い、葵は男に訊ねる。
「あぁうん、えっとね私、ちょっと知り合いのところに行ってお金取ってこようと思うんだー」
「はぁ……今お金持ってないなら取りに行くしかないですからね」
「でもー、ソコのおにーさんが、私がそのままトンズラしちゃうんじゃないかって疑ってるんだよー」
「まあ、可能性としてはなきにしてあらずですしね」
「だからね、キミがそれまで、ここで捕まっててくれない?」
「………はい?」
「要するに、キミは私が戻ってくるまでの人身御供って事で★ オッケー?」
男はグッと親指を立て、ウインクと屈託のない笑顔でそう言い放った。
突然の申し出の意味を理解しようと、葵は男の言葉を数回頭の中で反すうする。
その場に流れるしばしの沈黙――そして、
(――ああ、なんだ……)
自分なりの解釈の結果、何かを悟った葵は、その笑顔に笑顔で返し、思ったままを口にする。
「全力でお断りしていいですか?」
――この人、正真正銘のダメな大人だ。
その結論に萎えるやら呆れるやらで、作った笑顔はどうにもひきつっていた。
しかし葵の返答に、体をくねらせながら「えぇ~いけずぅ~」とのたまう眼前の男の第一印象は、もうその一言に尽きるのだった。