☽第1話 終わりと始まり
胸に強い衝撃が走った瞬間。
何が起こったのか、すぐに状況を把握することができなかった。
「ぐ……うぅっ……」
遅れてやってきた鋭い痛みに、思わずうめき声が漏れる。
彼女が混乱したまま視線を落とすと、漆黒のローブを纏った何者かの姿が映った。その者が両手に握った短剣が、己の胸に深く突き刺さっている。
(な……ぜ……)
〝刺された〟のだということはようやく理解したが、理由がわからない。己を刺した人物が誰なのかすら――。
「……っ!……うぐ……っ」
口中に鉄の味が広がる。とっさに押さえた口元から両手を離すと、鮮やかな赤が目に飛び込んできた。血を吐いたのだ。
焼けつくような痛みに襲われながら、ふらつく足で必死に耐えている最中、どこからか風切り音が聞こえた。
「ぐぁっ!」
眼前から短い叫び声が上がり、黒いローブの人物が仰向けに倒れ込む。
(え……?)
痛みと寒気に身を震わせ、己の胸に刺さった短剣から目をそらすように視線を足元に移す。
とたん、赤く染まった何者かの胸元が視界に入ってきて、彼女はさらなる困惑と恐怖に見舞われた。
(この方も……胸を?)
彼女は謎の人物の顔に目をやった。
目深に被っていたフードが肩に落ち、顔があらわになっている。彼女とそれほど変わらない歳に見える少年だった。
短めの、手入れの行き届いていない栗色の髪。瞳も髪と同色だが、その目がカッと見開かれていた。
まるで『何故、俺が――?』と問いかけているようだった。
はだけたフードから、何か光るようなものが覗いている。ペンダントだろうか。首から下げられた、歪だが綺麗な色の石がキラキラと小さく輝いていた。布で何度も拭いて艶を出した、宝石の原石のように思われた。
少年には少し似つかわしくないような気がしたが、誰かからの贈り物だろうかと、ふと思った。
「は……あっ。……うぅ……っ」
息ができなくなり、彼女――この国の王女セルランティアは少年から目をそらした。
視界がぐらりと揺れる。体がどんどん凍えていくようで心細くなった。
……何故、こんなことになってしまったのだろう?
今日は婚姻式が行われるはずだったのに――。
しきたりだと言われ、セルランティアはたった一人で祭場へと続く回廊を歩いていた。その矢先に起こった悲劇だった。
ふらつく視界の端に、回廊の壁と石畳の一面が映り込む。そこには血脈のように張り巡らされた銀色の装飾が施されていた。
銀脈と呼ばれる、細長い銀の薄板を敷き詰めたものだ。
冷たく光る銀脈に己の姿が無数に映し出されていく様が、何故かセルランティア――ティアには恐ろしく感じられた。
ふいに、銀脈が生き物のように躍動し始め、聞いたこともないような轟音が地の底から響いてきた。
(地……震……?)
ティアは朦朧とする頭でそう感じながら、ゆっくりと顔を上に向けた。
天窓から差し込む僅かな光が銀脈まで届き、それぞれが反射し合って、足元で水面のように揺らめいている。
普段なら、ただ美しいと感じるだけだったはずの銀脈の大回廊。
そこで今、ティアは豪華な婚姻用のドレスを鮮血で染め、ゆらゆらとおぼつかない足取りで歩いていた。
(行か……なくては……。ヴィソル様が……お待ちに、なって……)
右に、左に、体が大きく揺れる。こんな時だと言うのに、ティアは〝滑稽なダンスでも踊っているよう〟だと笑いたくなった。
観客は、周囲に張り巡らされた銀脈のみ。
そのはずなのに――何故か彼女は、透明な誰かに見られているような薄ら寒さを感じていた。
「あっ」
石畳の僅かな窪みにつまづき、ティアは床へと倒れ込んだ。
その拍子に胸に刺さったままの短剣がさらに深く食い込み、緋色の液体が大量に溢れ出す。それらによって、石畳と銀脈がじわりじわりと染められてゆく様を、ティアは人ごとのように眺めていた。
息を吸おうとしても、胸の奥がひゅうひゅうと鳴るだけ。もう痛みも感じなかった。
そこに、ようやくティアの従者たちの足音が響いてきた。あまりにも時間がかかりすぎていると、様子を見にきたのだろう。
次いで、あちらこちらから大きな悲鳴が上がり始めたが、ティアの耳には届いていなかった。視界も徐々に狭くなっていき、その時が近いことを嫌でも感じさせた。
最後の力を振り絞り、ティアは横たわったまま首を僅かに動かした。
ふらつく足でかなり前まで進んだつもりだったが、そこにはまだ少年の姿が見えた。
(な……ぜ……)
唇を動かしてみたが、もう声にはならなかった。
(どうして、わたくしを……?)
どんなに問おうが、もう答えは返ってこない。
それがわかっていても、思わずにはいられなかった。
(ヴィソル様、申し訳ございません……。わたくし、もう……)
視界がゆっくりと暗くなり、少年の顔も映らなくなった。
……そうして、王女セルランティアの命は尽きた。
**********
次に目を開けた時、ティアの眼前には天井があった。
いや。はたして天井と呼べるのかどうかすらわからないものが、そこにあった。
剥がれかけた木の板のところどころに隙間ができていて、微かに朝日が差し込んでいる。
ティアはのろのろと身を起こして周囲を見回した。
(……え?)
どう見ても自分の部屋ではなかった。
薄汚れた肌触りの悪い毛布に、ギシギシと軋む木の寝台。ひび割れた壁。
床に転がった古ぼけた丸椅子。ボロボロの木箱――。
今まで目にしたことがないほど粗末な部屋だった。
(ここは……どこ? わたくし、助かったの……?)
恐る恐る胸に手を当てる。
短剣が貫いたはずのその箇所に、少しも痛みは感じられなかった。
ツギハギだらけの服の胸元をつまみ、傷口を確かめてみる。
「――っ」
瞬間、ティアの背に悪寒が走った。
――ない。
あるはずのものがない。
傷が跡形もなく消えていた。
(な……何故……?)
ティアの顔は恐怖に歪んだ。
傷痕がないことはもちろんだが、それと同じくらいの違和感を他にも感じたのだ。
胸だ。
それなりに豊かだったはずの膨らみまでもが消えている。
(この……体は……? わたくしの、胸……。胸が……)
混乱したティアは、平らになった胸の前でギュッと両手を握り締めた。
「え……っ?」
両手に目を落としたティアは、再び驚きの声を上げた。
見慣れない、日焼けしたゴツゴツと骨ばった手がそこにあったからだ。
どう見ても、白く、傷ひとつなかったはずの自分の手ではない。
「あ……。この、声……」
声を出してみて初めて気づく。
やや低めながらも、まだ幼さすら感じさせる少年の声だった。
「い……や……。そんな……」
ティアがあまりの気味悪さに震え出した、その時。
唐突に部屋の扉が開き、ティアと同い年、もしくは少し年下に見える少女が入ってきた。
鎖骨にかかるほどの長さの栗色の髪を、左右でゆるく束ねている。やはりツギハギだらけの服を着てはいるが、瞳は活き活きと輝いていた。
少女はティアと目が合ったとたん、パアッと顔を輝かせた。
「お兄ちゃん! よかった、目が覚めたんだね」
少女は嬉しそうに駆け寄ってきて、ティアの手をギュッと握った。
(……お兄ちゃん?)
少女の発した言葉に戸惑い、ティアは微かに首を傾げた。
自分の身に何が起こっているのか。
少女はいったい誰なのか。
彼女はまだ、完全に把握できてはいなかった。
第1話をお読みくださりありがとうございました!
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