第四十九話 いのち
――少し前、森の別の場所では。
木の幹の陰に姿を隠す。
走り続けて乱れきった息。口元に手を添えて、どうにか押し殺す。
それでもシェリルの耳には、うるさいぐらいに自分の音が届く。
さっさと見失って、どこかに消えなさいよ。
内心では悪態をつくが、もちろん声に出せるわけもない。
重い足音。
その姿を確認なんかできるわけがない。
枝が踏まれ折れる。でかい図体に似合わず、すんすんと周囲を嗅ぎ回る気配までが届いてくる。
無理だ。ここにいては、いずれ見つかる。
シェリルは弾かれるように、その場から駆け出した。
枝に服が引っ掛かりわずかに千切れ、転倒しそうになるのを堪え、歯を食いしばって走った。
後ろで、木が軋んでいた。
爪で幹を破砕している。重い足音が、一定の間隔で迫ってくる。
逃走劇の再開。
虚をついたスタートはわずかな余裕すら生み出さない、みるみるうちに距離が潰される。
獣の呼吸が近い。
振り返れば終わる。大きな影が、すぐ背後にある。
魔術を使わなければ、死ぬ。
わかっている。
しかし、肺が焼けるように痛い。とてもじゃないが、追っ手に効果的な威力まで、マナを練るなんて無理だ。
生半可な一撃では、怒らせるだけだ。それはもうすでにやったからわかる。毛をわずかに焦がしただけだった。
そして――
二つの影が重なった。
◇
何かがおかしい。
森への違和感。いつもより静かすぎる。
エルーナは自然とリアノンの側へと向かう。
彼女は低い枝の下へしゃがみ込み、落ちている木の実を指先で転がしていた。
色を確かめ、傷を確かめ、そして小さく首を傾げた。
「これはダメ。これは……使える」
布袋の口をあけて、選んだものだけを丁寧に入れていく。
「ルナ、もう少しあっちに――」
「静かに」
エルーナは人差し指をリアノンの口元へ、そっと添え、周囲を見回した。
そこでようやくリアノンも何かに気づいたようだった。
遠くから音が聞こえてくる。
草をかきわけ、枝を踏み抜き、誰かが森を荒らしている。
それは徐々に、しかし確実に迫っており、次の瞬間。
視界の隅。木々の隙間から、何かが飛んできた。
咄嗟だった。リアノンを身体で覆い隠して、衝撃にそなえて歯を食いしばる。
人の形をしているとわかったのは、一瞬遅れてのこと。
エルーナのわずかに横を横切り、背後の木に叩きつけられていた。
鈍い音。枝が揺れ、葉が舞った。
わずかにおくれて、その身体がずるりと地面に滑り落ちる。
「……人。……すごいケガしてる」
土が赤黒い血を吸って、少しずつ大きくなっていく。
嫌な臭いが、ハッキリと漂った。
森の中。倒れゆく人。流れ続ける血。
エルーナは、あの時とは違うと自分に言い聞かせた。
「あの人、見たことある」
動揺していたエルーナの手を、リアノンがするりと抜けていく。
リアノンが女の側に膝をついた。
血に怯えることもなく、傷を確かめているようだった。
血濡れの女の小さな呻きは、すぐに聞こえなくなった。気絶をしたのか、それとも……。
誰がみても明らかに助からない。
血の量が全てを物語っていた。
ふと、リアノンの手が止まる。
助けるのは無理だと判断したのだろう。そう思った。
しかし、それは違うとエルーナは即座に理解する。リアノンの瞳には強い輝きがある。
「ごめん、ルナ」
唐突な言葉に、エルーナは息を詰まらせる。
「ど、どうして謝るの?」
「マイコーも、エルーナも悲しむと思って……」
「……私たちが?」
エルーナにはリアノンの言葉の意味がよく分からない。
リアノンは視線を女から外さなかった。
「……魔術を使う」
「そ、それはっ!」
何が起きるのかをエルーナは知らない。
だけどマイコールに、それだけは止めてやってくれと、言われている。
エルーナは一歩を踏み出しかけて。
リアノンの肩が、わずかに震えた。
深く息を吸い込んで、静かに吐く。
女へと手をかざしたリアノンは、戻れない線を踏み超えてしまっている。エルーナは、そう感じとってしまった。
「……死んじゃうのは、辛いから」
あまりにも静かな声だった。
「待って、リアちゃん――」
それでも止めなければならない。かつてみた背中が、そこに見えてしまうから。
リアノンが瞳を閉じて、マナを生み出そうとしている。
止めようと駆け出した瞬間。
森を割って現れたのは招かれざる存在。
暴力の塊。アウルベア。
木々をなぎ倒し、土を踏み割った。
ぐるりと首を一回転させ、獲物へと照準を定める。
殺意をみなぎらせた巨体が、リアノンがいる方へ突っ込んできた。
「土の精霊っ! 壁をっ!」
リアノンを守らねばならない。この命に変えてもっ!
エルーナは前へ出て、両手を振り上げ地面に触れる。
溢れんばかりに湧き出す土の精霊たち。
土が盛り上がり、敵を阻む壁となる。
リアノンを護るための一手。
だが、時間が足りなかった。
土壁は強固に見える。
しかし、巨体の質量を前にして、あまりにも粗すぎた。
土壁に走るひび割れは、即座に破砕へと繋がる。
そして貫いた巨体がエルーナまでも弾き飛ばした。
地面へと投げ出され、エルーナの息が詰まる。
痛みがあるのに、視界が白く霞んで意識までも飛びそうになる。だけど、立たなければならない。
身体を奮い立たせようとした直後。
リアノンの身体から、膨大なマナが溢れた。
光ではない。音でもない。だけど確かに感じられる。ほのかに温かい何かが、身体を貫いて走っていく。
「痛く……ない……」
叩きつけられたはずの痛みが、ふっと消えていく。
身体の中まで蹂躙した衝撃の痕は、もはや微塵も感じられない。
アウルベアが動きを止めていた。
何が起きたのかと、呆然と立ち尽くしているようだった。
そして――。
命の灯火が消えかけていた女。
致命的だったはずの傷跡など、もはやどこにも見当たらない。
それは癒しの魔術なのだろう。
しかし、これほどまでに広範囲で、瞬きの間に修復する魔術の奔流など聞いたことがない。
その中心となったリアノン。
彼女の小さな身体が、わずかに傾いた。
支えを失ったように膝が崩れ、地面に倒れ伏した。
世界が再び動き出す。アウルベアが低く唸った。
理解できない現象に一瞬だけ躊躇した本能が、殺意を取り戻していた。
巨体が、再び動いた。リアノンがいる方へ。
倒れたまま動かないリアノン。
「……っ、リアちゃん!」
どうにか立ち上がって、リアノンの盾になろうとエルーナは駆け寄るが。
アウルベアの爪が振り上げられる。間に合わない――。
「……わりいな」
ぽつりと呟く声は短い。だが、間違いなく耳に届いた。
「そりゃ、許すわけにゃいかねえ」
小さな突風が吹き抜けた。
そして――終わる。
巨体は悲鳴をあげる間もなく、崩れ落ちた。
すでに生きてはいない。ただそれだけが、はっきりとわかった。
「……リア」
マイコールがリアノンの側で立ち尽くしていた。
耳を力なく垂れさせ、尻尾にも力がない。
そんな彼の姿を見て、ハッとする。
そうだ、リアちゃんはっ!?
エルーナはリアノンへと駆け寄り、膝をついた。
彼女の肩に触れ、そして気づいてしまう。
「……息を、……していない? ……リアちゃん?」
名前を呼んでみても、反応はない。
口元に手を添えてみる。手元の脈に触れてみる。胸元に耳を当ててみる。
どれも動いてはいない。
一拍、二拍……。いくら待ってみても、現実は変わらなかった。
リアノンは……。
死んでいる。
マイコールは動かない。エルーナも動けない。
「……マイコールさん」
エルーナがかろうじて絞り出した言葉。
だけど、それ続くものをエルーナは持ち合わせていない。
謝罪も、慰めも、今は何の意味もないのだから。
リアノンへと視線を落とす。
また……だ。また、守れなかった。
それだけが、頭の中を巡っていた。
「リア……、エルーナなら……、いいよな?」
エルーナを一瞥してから、マイコールがぽつりと言葉をこぼす。
その言葉の意味は、よく分からない。
「エルーナ……、手、かりるぞ」
マイコールはエルーナの手を取り、リアノンの胸元へ触れさせた。そしてマイコールが手を重ねてくる。
なにを、と思った。
少しずつ温もりが失われていく身体。胸の鼓動は響いてなくて。
「そろそろだ。くるぞ……」
「く……る……?」
エルーナには、まだ分からない。
マイコールが何を言っているのか。どうしてそんなに穏やかな声を、まだ掛けてもらえるのか。
「……え?」
リアノンの胸が、小さく、かすかに上下をした――気がした。
そしてそれは、繰り返すことで確信へと向かう。
マイコールは何も語らなかった。
リアノンはまだ目を覚まさない。
だが、いのちの温もりは間違いなく、そこに戻っていた。
「リアが目を覚ますには時間が掛かる。悪いけど、家のベッドを貸してくれな」
理解がまだ追いつかないエルーナ。
こくりと頷くだけが精一杯だった。
「エルーナ……、リアを運んでやってくれ。オイラはこっちを運ぶ。……リアが命をかけた相手だ。色々あったけど……、目が覚めるまでは置いてやっていいか?」
「それは、構わないわ……」
「ありがとな……」
エルーナの視線が、マイコールと交錯する。
マイコールは静かに首を振った。
「良かったら、話させてくれ。オイラが旅をしている、その理由をさ……」




