第82話 否定された一歩
その日、魔法理論の教室の壇上。
白いチョークを指先で転がす、オルフェンがいた。
「——高位魔法とは、芸術そのものだ」
誰かが、息を吐いた。
「始まった……」
「今日は何分かな」
「三十分と見たわ。賭ける?」
前列のクラリス・レイヴァルトは、黒板から目を外さない。
チョークが走り、線がひとつの形を組み上げていった。
「見よ」
指先を白線に触れる。
「高位魔法とは——結晶だ」
隣にもう一つ描いた。線が減り、絡みがほどける。
「中級は、その簡略形だ。まだ“美”を保つ」
さらに端へ。円と、数本の線。
「初級は——稚拙だ」
チョークが置かれる。
「《ライト》はロウソク代わりだ。
王国では、そんな安っぽい便利さを魔法とはいわない」
後方で、誰かが小さく息をこぼす。
「目指すべきは、完成された芸術だ」
指先が触れた一点だけ、光がわずかに脈打つ。
「ごく稀に、身体強化や簡易陣の中にも、“美しい線”はある」
そう言って、教室中段の一角に視線を流す。
そこには小柄な少年——アレン・ハルトシュタインが座っていた。
(……また)
クラリスは、息を浅くした。
「だが、序列は覆らない、初級など落書きにすぎない」
その瞬間、教室で手が上がった。
「……先生」
視線が、止まる。
「何だね、アレン君」
「初級魔法でも工夫次第で、役立ちます」
教室が静まった。
「たとえば《ウォーター》と《ウォーム》を合わせれば……
いつでもお湯が出せます」
アレンは、淡々と続ける。
「《アース》と《スコーチ》で、硬い土板も——」
オルフェンの目が細くなった。
「魔法は、完成された芸術だ」
声のトーンが上がった。
「それを混ぜるなど——
芸術に刃を入れるのと同じだ!」
黒板を叩く音が響いた。誰も、息をしない。
「ならば、見せてみろ。
その混ぜた魔法とやらを」
「……できません」
アレンは目を伏せた。
「そらみろ。君のようなものは魔法を学ぶ資格もない」
静寂が広がる。
その時、椅子がガタンと跳ねた。
「……言い過ぎです」
クラリスが立っていた。
「初級魔法も、れっきとした魔法です」
指先が、わずかに強く握られる。
「美しいかどうか……まだ分かりません。
でも、学びたい人を切り捨てるのは違うと思います」
そのとき、チャイムが鳴った。
オルフェンは、しばらくクラリスを見る。
「……本日の講義は、これで終わりだ。
私の失望が晴れる日を期待している」
それだけ言い残して、教室を出ていった。
◇
クラリスは、席を立とうとした少年を見つけた。
「どうして毎回、先生に突っかかるのです?」
「……毎回じゃないけど」
言葉が、少し速くなる。
「あなた、ここへは学びに来たのでしょう?
その態度、どうかと思いましてよ」
アレンは、困ったように笑った。
胸の奥が、かすかに引っかかる。
「と、とにかく!」
そのまま声を押し出す。
「先生に異を唱えるのは——
控えたほうが、よろしくってよ」
「……クラリス、何してるのよ」
後ろから声。
「あなたまで、睨まれるわよ」
「放っておきなさいって」
「……そうね」
唇を噛み、そのまま教室を出た。
◇
階段に差しかかる、そのときだった。
足が、空を踏む。
「——あっ」
視界がぐるりと回り、石の踊り場が迫る。
「クラリス!」
「危ない!」
何かが横から入る。
身体が止まる。
息が抜ける。けれど……痛くない。
「っ……?」
腕の中だった。
見上げるとさっきの少年。
「……だ、大丈夫?」
まだ、抱えられている。
「な、なぜあなたが……!」
弾くように離れる。
「わっ」
バランスを崩した声。
「ご、ごめん」
謝ったのは、彼のほうだった。
「あなたの、せいですわ!」
足音が近づく。
そのまま、駆け上がる。
耳元での声。腕の中のぬくもり。
まだ、残っている。
振り払うように、首を振る。
——あんな一歩。
見たことがない。
◇
「ねえ、クラリス」
「さっき……階段のとこで」
並んで歩くサンラ寮の女子が、顔をのぞきこんでくる。
「なんか、見つめ合ってなかった?」
「み、見つめ合ってなど」
声が、わずかに裏返る。
「アレン・ハルトシュタイン、だっけ?」
「辺境出身なんでしょ?」
後ろから別の女子たちが、興味本位の声を投げる。
「なんかお金稼ぐために、皿洗いしてるんだって」
「き、きっとデマですわ」
声が、少し強く出た。
わずかに目を伏せる。
「……そこ、勘違い多いよ」
前から、聞き慣れない声が飛んできた。
「どなた?」
「一年、トラル寮魔法科のリッツ・ヴェルナー」
軽く笑っているのに、目だけが周囲を見ていた。
「それで?」
「金儲けとは違う、って話さ」
周囲の女子たちがざわめく。
「《英雄焼き肉》って、聞いたことは?」
「スラムで行列ができるって噂の……?」
隣の女子が、身を乗り出す。
「利益も、取ってないらしい」
肩をすくめる。
「じゃあ、なんのために……」
「社会奉仕さ。子どもたちを食わせてる」
気づけば、足が一歩出ていた。
「今じゃ、どこ行っても名前が出る」
何人かの女子と、思わず顔を見合わせた。
(……そんなに?)
名前が、残る。アレン。
胸の奥が、ひとつ鳴った。
「旗戦。それでみんな分かるさ」
リッツはそのまま手を振って去った。
◇
その夜。
クラリスはベッドの端に腰を下ろす。
ノートの端を、そっとつまむ。
——音がしなかった
——見えなかった
——顔……近かった
乾いた文字の下に、ペン先を落とす。
『スラムを救う』
『旗戦でわかる』
『あちこちで、名前が出てる』
ペンが、ぴたりと止まる。
窓を開けた。
夜気が頬を撫でる。
月明かり、トラル寮の旗が揺れている。
「……遠くからでは、分かりませんわ」
風がひらりとページをめくった。
◇
翌日。
——思っていたより、穏やかですわね。
気づいたときには、もうここにいた。
植え込みに身を寄せ、葉陰から中庭をうかがう。
トラル寮の中庭には、ときおり笑い声が弾けていた。
「ここ厚くしようぜ」
「だから厚くしたって足遅いって」
「どーせ今年も一回戦負けなんだから——」
視線だけが落ち着きなく行き来する。
「——誰か探してる?」
「ひゃっ——!」
「やあ、クラリス嬢」
振り返るとリッツが手を振っていた。
「だ、誰も待ってなどいませんわ!」
思ったより声が高くなる。
「ふーん」
「リッツさん……。いつから?」
「それこっちのセリフだけど。なにしてんの?」
肩をすくめながら、じっとノートを見やる。
「スパイ……?」
「なっ——」
リッツは、くくっと小さく笑う。
「ここいると目立つ。中、来なよ」
「わ、わたくしは別に——」
リッツは面白がるように、それでいてどこかやさしく目を細めた。
「ほら」
入口へと視線が向く。
気づけば、そのまま足も動いていた。




