葵の来訪
最初は偶然だった。
葵が軒下に誘ったあの日から、
昼休みの居場所が、なんとなく決まった。
誰も「ここに来よう」とは言っていない。
でも、三人とも来た。
サキと葵の間には、少しずつ軽口が増えた。
キキは聞いている。
たまに、一言だけ混ざる。
それが積み重なって、六月になった。
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放課後。
廊下で葵が鞄を肩にかけたところで、
サキが声をかけた。
「葵、期末前にうちで勉強しない?」
葵が少し間を置く。
「うち?」
「そう。キキも英語教えてくれるって」
キキは聞いていない。
でも否定もしない。
それがキキなりの了承だと、
サキは知っている。
葵は少し考えてから、
「いつ?」
「今週末」
「……行く」
それだけ。
サキがにやっとする。
小さく、気づかれない程度に。
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土曜日。
葵が来たのは昼過ぎだった。
オートロック、カメラ、インターホン。
ポーチにたどり着くまでで、すでに時間がかかった。
キキが出る。
「どうぞ」
葵が中に入る。
広い。
玄関だけで、自分の部屋より広いかもしれない。
廊下の先に、庭が見える。
手入れされた木が、風に揺れている。
葵は一瞬だけ、足が止まった。
「……広いな」
「そう思う」
否定しない。
かといって自慢でもない。
ただ、そういうものとして言う。
葵は少し不思議に思ったが、
何も聞かなかった。
紙袋を差し出す。
「これ、よかったら」
焼き菓子の箱。
有名なお店のものだ。
「……いいのに、そんなの」
「いや、そういうわけには」
「いつもサキがお世話になってるんだから」
「はは、それはそう」
「何ー?オレの話ーー?」
サキが廊下の向こうから歩いてくる。
「いつもサキがご迷惑をおかけしてるって話」
キキが静かに言う。
「なんだそれ、母親か。」
それを横で葵が笑う。
「なんだ葵まで」
「いや、お前ほんとキキちゃんの前では形無しだな」
キキが少しだけ笑う。
「葵、中入って」
「うん。お邪魔します」
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テキストを三冊、テーブルに並べる。
葵のページには、赤い線がいくつも引いてある。
葵がテキストを指さす。
「これ、どういう意味?」
「どこ?」
「この一文。単語はわかるのに、なんか変で」
キキがのぞく。
少し考えてから、
「日本語に直そうとするから変になる」
「じゃあどうするの」
「こういう場面で使う、って覚えた方が早い」
「場面?」
「例えば——」
キキが例文をいくつか並べる。
葵は黙って聞いている。
「……そういうことか」
「うん」
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しばらくして、シャーペンを置いた葵が言う。
「キキちゃんって、教えるの上手いんだな」
キキが少し止まる。
「……英語はまあ、第二言語みたいなものだから」
「それだけじゃないと思うけど」
葵はそれ以上は言わない。
またテキストに目を戻す。
サキはそのやり取りを聞きながら、
教科書のページをめくった。
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「俺、数学がやばい」
サキが言う。
葵がそのページを見る。
「どこ?」
「全部」
「……全部は無理だ。一番わからないとこから」
葵が説明し始める。
声は静かだが、迷いがない。
どこでつまずいているか、すぐに見える。
「あ、そういうことか」
「そう。順番が違っただけ」
「なんで先生の説明だとわかんないんだろ」
「説明の仕方が合う合わないがある」
サキが頷く。
キキも手を止めて、少しだけ葵の説明を聞いていた。
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問題集を解く音。
ときどき誰かが声を出す。
それ以外は静かだ。
「葵ってさ」とサキが言う。
「なに」
「仕事、最近どう?」
「忙しい」
「そっか。レッスン?」
「それもあるし、いろいろ」
葵はさらっと答える。
それ以上は言わない。
サキも深くは聞かない。
窓の外で、風が木の葉を揺らす。
キキは問題集を解きながら、
その音を聞いていた。
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夕方近くになって、
キキが立ち上がった。
「ご飯、作る」
葵が顔を上げる。
「作るって、」
「食べていけばいいじゃん」
サキがさらっと言う。
葵はキキを見る。
「……迷惑じゃない?」
「なわけない」
キキはもう台所に向かっている。
少ししてから、キキが戻ってくる。
「葵、スパイス大丈夫?」
「スパイス?」
「カレーにしようと思って。辛いの苦手なら別のものにする」
「全然好きだよ」
「そっか」
キキは台所に戻った。
葵はしばらくその背中を見てから、
また問題集に目を落とした。
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包丁の音がする。
換気扇の低い音がする。
リビングで、サキが葵に何か聞いている。
葵が短く答える。
台所から、スパイスの香りがしてきた。
葵がふと顔を上げる。
「……いい匂いだな」
「キキのご飯、美味しいからなー」
「いつも弁当うまそうだもんな」
「おん!葵もようやく食べれるな!」
葵はまた台所の方を一瞬だけ見た。
それから、視線を戻した。
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ダイニングテーブルに三人で座る。
小鍋が三つ並んでいる。
チキンカレー、サグカレー、ダル。
土鍋のご飯、それぞれに盛られた唐揚げとサラダ。
葵が少し黙る。
「……すごいな」
「普通だよ」とキキ。
「カレーのもとは作り置きしてるから、
割と応用効くし、すぐできる」
「それでも普通じゃない」
サキが手を合わせる。
「ほら、ご一緒に」
「「「いただきます」」」
葵が一口食べる。
「……うまい」
一言だけ。
でも、進む手が止まらない。
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食べながら、話す。
たいしたことじゃない。
学校のこと。
先生のこと。
期末が終わったらどこか行くかとか。
葵はあまり多く話さない。
でも、今日はいつよりも少し言葉が多い。
サキはそれに気づいている。
キキは気づいていない。
「キキちゃんはさ、」と葵が言った。
「なに」
「料理、誰かに習ったの?」
キキが少し考える。
「……本を見て」
「そうなんだ」
「なんか、作るのが好きで」
「キキちゃんが作るの好きならよかった」
少し間があった。
「俺、食べるの好きだから」
サキが噴き出す。
「なんだそれ」
「なんかおかしなこと言ったか?」
葵はまっすぐ言う。
キキは少しだけ、口元が緩んだ。
サキはおかわりのご飯をよそいながら、
ふたりを見ていた。
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食後。
キキが紅茶を入れてくる。
葵のお土産の焼き菓子を開ける。
「これ、うまい」
サキが一口食べて言う。
「そう?よかった」
サキが引き出しからトランプを出してくる。
「ババ抜きやろ」
「三人でできる?」と葵。
「全然できる」
カードを配る。
葵が手牌を整える。
キキはすでに整え終わっている。
サキが葵に手札を差し出す。
葵が一枚引く。
黙って手牌に加える。
表情が動かない。
葵がキキに手札を差し出す。
キキが一枚引く。
外れだった。
キキがサキに手札を差し出す。
サキがじっと見る。
「どれだ……」
「早く」とキキ。
サキが一枚引く。
外れだった。
三回やって、サキが二回負けた。
葵は一回負けた。
キキは一度も負けなかった。
「なんでキキは読めないんだ」
サキが言う。
「わからなかった?」とキキ。
「全然」
「うそ、サキが?」
「ゲームの時は、マジわかんねぇ」
いつも通りのふたりを見て、葵は口元を緩めた。
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葵が帰り支度をする。
トランプを揃えて、箱に戻す。
テーブルの上を軽く整えてから、鞄を持つ。
玄関で、靴を履く。
「ごちそうさまでした」
「またいつでも来いよ」とサキ。
葵がキキを見る。
「……ありがとう。飯も、英語も」
少し間を置いて、
「お留守にお邪魔したので、ご両親によろしくお伝えください」
キキは少し間を置いてから、
「うん」
それだけ。
また感じた少しの違和感。
でも、悪くない間だった。
扉が閉まる。
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リビングに戻る。
笑い声の余韻が、まだそこにある気がした。
「葵、楽しそうだったな」
サキが言う。
キキは答えない。
「キキは?」
「……そうだね」
サキがニヤリとしながら、
葵が片付けたばかりのトランプの箱を手に取って、
テーブルに広げ始める。
「ポーカーしない?」
「する」
コーイチが帰ってくるまで続き、
結局三人でババ抜きもやって、
サキだけが負けた。




