5 決着編
「なに、穏便にことを済ませようと思ってね」
余裕綽々といった様子で、ニイルは肩をすくめた。それが尚更メアリーの癇に障った。
「ほら、今僕に関することで、根も葉もない噂が広まっているだろう? お父様の誤解をとくのには実に苦労したよ。僕はその日、ある事業団で慈善活動に勤しんでいたというのに」
「……それはたいそうなお金が動いたでしょうね。事業団とテルヴァン伯爵にはいくらお渡しして、口裏を合わせていただいたのかしら?」
「世間は、下品な会での噂話より、地位のある組織や人の言葉を信じる。当然だろう?」
ごもっともな一言に、メアリーは唇を固く結んだ。……メアリーの誤算は、ニイルがここまでケンオルブル家との婚姻に執着していると想定していなかったことだ。ニイルの性格ならば、面倒事を嫌ってすぐにケンオルブル家との縁を切るだろうと思っていたのである。
しかし実際は違った。ニイルは、もっと冷徹にケンオルブル家を狙っていたのだ。
「レティーシャは見違えるように美しくなった。今の彼女なら、この僕の隣においてやってもいいだろう」
「……」
「だけど、下卑た噂は人の心を動かすのに十分だったらしい。以来、レティーシャは僕に会おうともしてくれない」
「当然では?」
「そこで君の力を借りたいと思ったんだよ」
メアリーは周囲に複数の気配を感じた。勘づいてはいたが、ニイルは私兵を何人か連れてきていたらしい。
「君はレティーシャから、最も信を置かれているメイドだ。どうだろう? 僕との結婚に尻込みする彼女を、後押ししてやってくれないか?」
「お断りすると申し上げたら?」
「君は二度と、レティーシャの元には帰れない」
……それだけではないだろう。ニイルは私の身を人質に取ったとして、レティーシャに結婚を迫るに違いない。お人好しのレティーシャのことだ。私の身を案じて、永遠にニイルに囚われることをよしとしてしまうに決まってる。そうメアリーはわかっていた。
「無論、君にも相応の報酬は与えるよ」
しかしそんなメアリーの思考を見透かしたように、ニイルは高らかに告げた。
「メアリー・スピルアール。君のご両親は、かつて大罪を犯して国外追放の憂き目にあった。同時にスピルアール家の名声は地に落ち、没落した君はメイドとしてケンオルブル家に雇われた」
「あら、よくお調べになったこと」
「だが君の忠誠心はケンオルブル家にはない。今でも、貴族の地位を取り戻すことを諦めていない。そうだろう?」
メアリーは何も答えなかった。沈黙を肯定と捉えたニイルは、勝ち誇った顔で続ける。
「ならば、僕は君の役に立てるよ。ちょうど僕が弱みを握っている子爵が一人いる。僕が口利きさえすれば、君がそこに嫁ぐことは容易だ」
「私が……子爵の妻に?」
「そのとおり。まあ元のスピルアール家ほどの地位ではないが、メイドを使う立場に戻れるのは確かだ。君は二度と、誰かの下で掃除をしたり食器を磨いたりしなくていい」
「……」
「……これほど尽くしても、ケンオルブル家は君の要望に何一つ応えなかったんだ。しかし僕は、君の望む全てを与えてやれる。何を選ぶのが最善かは、賢明な君ならわかるだろう」
メアリーは、じっとニイルの目を見つめていた。……したたかな男だ。したたかなだけではなく、目的のためにはあらゆる権謀術数をめぐらせて必ず手に入れようとする。なるほど、ケンオルブル公爵が評価するわけだ。
(だからこそ――)
だがメアリーの心は、ニイルと対峙するにあたって強固に定まっていた。
(私は――アンタの全てを上回らなきゃなんないのよ!)
「お断りします」
メアリーの声が響いた。不審げに眉間に皺を寄せるニイルに、メアリーは言葉を放つ。
「私の望みは、子爵程度に収まるものではありません。よって、ニイル様の条件ではとても釣り合いませんわ」
「ふん……ここまで強欲な女とは知らなかったな。次は、公爵の地位でも持ってこいとでも言うつもりか?」
「当たらずとも遠からずですね。私が欲しいのは、ケンオルブル家そのものでございますから」
一瞬、ニイルは目を見張った。しかし、すぐに腹を抱えて笑い出す。
「馬鹿な! 家ごと乗っ取ろうというのか!? 女の身で!?」
「前例がなければ諦めねばならないのですか? 何事にも始祖はありましてよ」
「無謀すぎる。不可能だ。……残念だよ。貴様はもう少し賢い女だと思ったが」
「あら。その見下した女にしてやられたのは、どなただったかしら」
メアリーの挑発に、ニイルの笑いが引っ込んだ。何も言わず左手を上げる。メアリーの周囲に散らばっていた気配が、一気に一点に動こうとするのがわかった。
だが、そこまでだった。あちこちでうめき声が聞こえたかと思うと、次々に鎧の兵達が倒れ始めたのである。動揺したニイルは、大声で叫んだ。
「なんだ……何が起こってる!?」
「私とて、予防線を張っていただけです。怪しげな男に怪しげな場所へ呼び出されて、誰が単身で乗り込むものですか」
「貴様も私兵を!? なぜ一介のメイド如きにそんな力がある!」
力というよりは、縁といったほうが適切だろうか。メアリーは、視界の隅で楽しそうに親指を立ててみせるマーティン師匠とその門下生達に、心のなかでお礼を言った。
「さあ、これで貴方の手駒は消えましたよ」
メアリーは、一歩ニイルに近づいた。
「私は今すぐケンオルブル家に向かい、ここでの顛末を伝えてニイル様との婚約を破棄するよう進言します。あなたはどうされます? 私としては、汚名が薄くなるまで隠遁するのがよろしいかと存じますが」
「ふっ……ふざけるなよ、メイド女が!」
「ええ。おっしゃるとおり、今の私はレティーシャ・ケンオルブルお嬢様のメイドのメアリーでございます」
背筋を伸ばしたメアリーの目は、薄闇の中でも褪せぬ強い光を放っていた。
「ならば私の使命も、望みも、全てレティーシャ様の幸福のためにある。――お諦めください。あなたは、まったくもってレティーシャ様にふさわしくない」
「――ッ!」
激昂したニイルが、剣を抜いてメアリーに飛びかかった。ひらりとかわすメアリーだったが、長い黒髪が切り落とされてしまう。だが剣は、間髪入れず彼女に振り下ろされた。鞘で受け流したメアリーだったが、衝撃に耐えられず鞘は真っ二つになった。
――強い。メアリーは身を小さくして横に跳び、一度距離をおこうとした。
「僕の初撃を捌くとはな!」
しかし容赦ない追撃がメアリーを襲う。辛くも避けたが、スカートの一部を切られてしまった。
「女にしておくにはもったいないよ!」
「……ッ!」
だがメアリーもやられっぱなしではない。踵に重心を置いて身を翻すと、ニイルの懐に飛び込み渾身の力で首に剣を突き立てようとした。くん、と上体がのけぞる。髪を掴まれ、後ろに引き離されたのだ。
咄嗟に剣で髪を切る。危ういところで、ニイルの剣は空を切った。
剣を握り直すメアリーだが、それより早くニイルは彼女の心臓を狙った。しかしメアリーは、素早く足払いをかける。ニイルにできた一瞬の隙をつき、メアリーは剣を突き立てようとするも、ニイルは強い力で弾き返した。
激しい応酬だった。けれどメアリーの目に映るニイルの美しい顔には、まだどこか余裕が隠されているように見えた。
「そこまでできる力があって……!」
胸に激情がこみ上げた。剣と剣がぶつかる狭間。メアリーは、喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
「男で……人に認められる才も、地位もあって!」
レティーシャの寂しげな笑顔と、彼女の部屋の前に佇むしかできなかった静かな夜が脳裏に蘇る。――押し殺した泣き声を、自分の無力を。メアリーは一度たりとて忘れることはなかったのだ。
「そこまで持っていながら、どうしてレティを泣かせたのよ!!!」
強い一撃。その時、初めてニイルの剣筋が乱れた。ガードが解かれ、胸部があらわになる。
捉えた――! しかしその一点を狙い、メアリーが剣を構え直した刹那である。
突如、メアリーの顔に何か細かいもの達がぶつけられた。――砂粒である。ニイルはわざと隙を見せ、メアリーに目潰しをしかけたのだ。
「何を言ってるのかわからんが、これで最後だ」
両目を潰されたメアリーの頭上で、ニイルは吐き捨てる。
「安心しろ。レティーシャには、まだ生きていると伝えておいてやる」
ニイルは、メアリーの首をはねるべく剣を持ち上げた。だが、力を込めるその直前。
天使の声かと聞き紛うよう素晴らしい歌声が、二人の決闘を掬い上げたのだ。
「……?」
それは、誰もが聞き惚れる歌声だった。あれほど殺気立っていたニイルすら、束の間手を止めてしまうほどに。
「……ばかね。こんなところにまでついてきちゃって」
けれど、メアリーだけはその声の主を知っていた。こぼれた涙は、彼女の目の中にあった砂を洗い流した。
数え切れぬ感情があった。そのどれもが彼女の身に余るほどに大きかった。だけどメアリーは、それら全てを静かな水面の底に沈めて両の目を開いたのだ。
細い剣身が夜を裂く。メアリーと対峙していた男は、その場に崩れ落ちた。
その後、この件については、剣士マーティンを通じてケンオルブル家とパワーランド家に伝えられた。公爵家の息子とその婚約者のメイドが決闘(しかもメイド側が勝利)するなど前代未聞であり、両家は混乱の渦に突き落とされた。しかし、経緯と結果は明白である。両家の婚約は破談となった。
加えて、ナイジェル・ケンオルブルが密かにニイル・パワーランドを調査していたことも大きかった。密偵によると、ニイルは確かに有能な切れ者であったが、一方で女性関係にはだらしなく、重篤なギャンブル癖もあったという。上手く隠していたものの、彼個人が抱える借金は今や家を食いつぶさんばかりに膨れ上がっていた。もしかするとパワーランド家はこのことを知っていて、借金ごとニイルを押し付けようとしていたのかもしれない。ナイジェル・ケンオルブルはそう推測した。
そしてボロボロになって帰ってきたメアリーはというと、しこたまナイジェルに叱られることとなった。だが勝手に決闘をしたことよりは、命をかけて戦ったことを咎められたのである。「君のことを、本当の娘のように大切に思っている」。面と向かってそう言われたメアリーは、不覚にも泣いてしまいそうになった。
けれど、隣で自分の服を掴んだレティーシャが号泣していたのでそれどころではなかったのだ。なお母であるネリネも泣いていた。こちらは流石にナイジェルがどうにかした。
「……理由はどうあれ、我が家はメアリーに救われたんだ」
最後にナイジェルは、メアリーに向かって丁寧に頭を下げたのである。
「ありがとう。そしてすまなかった。私の見る目がなかったばっかりに、君とレティーシャには面倒をかけてしまった……」
「い、いえ! 私が勝手に行動したことです!」
「それでも君の判断が正しかったことには違いない。……ぜひ、お礼をさせてくれ。なんでも言ってほしい」
その言葉に、メアリーは思わずレティーシャのほうを見た。視線を向けられたレティーシャは、なぜメアリーが自分を見たかはわからなかっただろう。だけど、嬉しそうにへにゃりと笑み崩れた。
「……いえ、何も」
そんなレティーシャを見たまま、メアリーは言葉をこぼしていたのである。
「何も、いりません。これからも、レティーシャ様のそばにいさせてもらえれば、それで」
――あとで我に返ったメアリーは、この時の発言を大いに後悔したのだが。レティーシャは心から嬉しそうに笑い、メアリーに飛びついたのである。
決闘騒動からしばらくが経った、ある晴れた日。メアリーとレティーシャは、二人だけで小高い丘に来ていた。ここからはよくケンオルブル領が見渡せるのだ。
「今のニイル様は、パワーランド家でお仕事漬けだそうですわ」
サンドイッチの入ったバスケットを引き寄せながら、レティーシャは微笑む。既に彼女にとって、彼の名はさほど忌まわしいものではなくなっていた。
「これもメアリーちゃんが手加減してくださったおかげですわね。生きていればこそ、オトシマエがつけられるというものです」
「ちょっと、どこでそんな言葉を覚えてくるのよ」
「時々メアリーちゃんが使っているのを聞いて」
「……ナイジェル様の前では禁止だからね」
「はい」
花の匂いを含んだ風が吹く。もう自分の髪はあまり風になびかないけれど、メアリーは今のさっぱりした髪型を気に入っていた。
そしてそれは、レティーシャも同様らしい。最初こそ気を遣っているのかと思ったが、毎回廊下で出くわすたびに顔を真っ赤にされては疑う余地もない。最近はようやく慣れてくれたようで、赤くなる頻度も三回に一回に減っていた。
とはいえ、自分が彼女のメイドであることに変わりはない。メアリーはティーカップに紅茶を注ぎ、そっとレティーシャに差し出した。
「頂戴します、メアリーちゃん」
「どういたしまして」
「……」
「どうされました?」
「その……さ、最近、ナイジェル様から新しい縁談は入ってきていたり、しないかしら……?」
「ご縁談ですか?」
レティーシャはきょとんと小首を傾げた。けれどすぐに頭を振る。
「いいえ、さっぱり。あれだけの騒動だったのですもの。しばらくは尾を引くと思いますわ」
「そ、そうなのね! まあ、別に私は気にしてなかったけど!」
「代わりに、メアリーちゃんにはたくさんの恋文が届いてますよ」
「私に!? なんで!?」
「名家のご令嬢から」
「ご令嬢から!!?」
「あのニイル様と決闘して勝利したメイドということで、メアリーちゃんの噂が火のように広まっているのです。こっそりメアリーちゃんの姿を見にくる方が後を絶たず……。ケンオルブル家には、毎日山のようなお手紙が届いています」
「一通も私に届いてないんだけど」
「全てわたくしが責任もってせき止めておりますから」
「なぜ?」
詳しく聞こうと思ったメアリーだったが、レティーシャがそっぽを向いたので諦めざるをえなかった。こうなった彼女は強情なのだ。……自分を引き抜きたい旨の手紙も多かったのかもしれない。剣技を身につけたメイドは、そう多くないだろうからだ。
「……心配しなくても、どこにも行かないわよ」
レティーシャを安心させたくて、小さな声で呟く。そう、私にはまだ、ケンオルブル家で成さねばならないことがあるのだから。
今回の件で、自分は更にケンオルブル公爵の信頼を得ることができた。事実、公爵はメアリーの能力と人柄と人気を認め、自らの公務の一部を彼女に任せてくれ始めたのだ。
だが、これでようやく土台が整ったところだろう。メアリーの野望はこんなものではなかった。着実に実績を積み上げていき、いつかケンオルブル家になくてはならない存在になるのである。
そしていずれはケンオルブル家の名をもらい、ケンオルブル公爵と呼ばれるように――。
「本当にありがとう、メアリーちゃん」
ふいに、温かなものがメアリーの手に触れる。見ると、春の日差しのような微笑みをたたえたレティーシャが、メアリーの手に自分の手を重ねていた。
「あなたがいなければ、わたくしはきっとただの公爵令嬢のままでしたわ。レティーシャ・ケンオルブルとして息をさせてくださったのは、メアリーちゃんがそばにいてくれたお陰ですわよ」
「突然なによ。びっくりするじゃない」
「ごめんなさい。でも、伝えておきたくて」
レティーシャの目に、少しだけ不安そうな色が浮かぶ。花びらのような唇が震えている。
「……メアリーちゃん」
今のレティーシャは全身から勇気を振り絞っているのだと、メアリーにはわかった。
「わたくしは……あなたにふさわしい人になれたでしょうか?」
そのか細くも芯のある声に、メアリーは息を呑んだのだ。幼い少女の泣き顔が蘇る。――だけど、あの時とはまるで違っていた。今彼女の目の前にいたのは、愛らしくもしなやかな強さをもった、一人の美しい女性だったのだ。
メアリーは、片膝をついてレティーシャに向き直る。繋いでいた手を持ち上げ、自らの顔の前に据えた。
「ええ、そうね」
その一言だけで十分だった。二人の眼差しに宿る熱は、言葉よりもずっと多くの感情と想いを伝えあっていた。
「だからどうか――これからも、私と共に」
レティーシャの白い手の甲に、そっとキスが落とされた。
この私のお嬢様!〜没落令嬢系メイドは公爵令嬢に尽くしてる〜・完
ここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
もし良かったら下部よりご評価頂ければと思います。励みになります。