番外編 ふたりで縒るもの
子ができれば、夫は良い父になるに違いないと琴子は思っていた。
最初に異変を覚えた夜、琴子はあまり夕食を食べられず、だが少し疲れているのだくらいに考えて早めに寝台に入った。
朔夜が不寝番で、琴子はむしろホッとした。朔夜がこのことを知れば必要以上に心配しただろう。どうせ一晩寝て起きたら元に戻っているのに。
ところが翌朝も体調は戻らず、朝食はほとんど食べられなかった。
とりあえず仕事に向かったが、皇太子妃殿下の御朝食中に堪えきれなくなってお側を離れるという失態を犯してしまった。
膳が片付けられてから謝罪した琴子の顔を見て、妃殿下はゆっくりとそれを口にした。
「もしかして、身籠ったのではない?」
戸惑い、返事をできずにいる琴子に、妃殿下は重ねて尋ねた。
「月のものは来ているの?」
琴子が少し考えてから首を振ると、妃殿下は側にいた苑子に妃殿下付きの医師を呼ぶよう命じた。
結果、ふたりの子を持つ妃殿下の勘は正しかった。
まだ実感がわかず呆然としている琴子よりも、妃殿下と苑子のほうが盛り上がっていた。
「早く朔夜にも報せないといけないわね」
妃殿下がそう言って皇太子殿下のもとに文を持たせた遣いを出すと、すぐに返事が来た。
「朔夜が休憩中なので四半刻後に中庭で、だそうよ」
「はい」
琴子があまり気のない返事をしたので、妃殿下が首を傾いだ。
「私余計なことをしてしまったかしら? 朔夜にはふたりきりで話したかったわよね」
「いえ、とんでもございません。むしろふたりになったらきちんと話せたか……」
「どうして?」
「朔夜は喜んでくれるでしょうか」
「もちろん、喜ぶに決まっているわ」
子が出来たと知ったとき、二度とも殿下は本当に嬉しそうな顔をした。
だが、朔夜はどうなのだろう。夫は以前、子どもは要らないと言っていたのだ。
四半刻後、妃殿下や苑子とともに中庭に出た。少しして、殿下も姿を見せた。
殿下の後ろにいる朔夜をチラチラと窺っていると、妃殿下が琴子に囁いた。
「大丈夫よ。行ってらっしゃい」
「ほら」
苑子にそっと背中を押され、琴子は意を決して朔夜に近寄っていった。
不思議そうな顔をした朔夜に、琴子は告げた。
「子ができました」
朔夜は目を見開き、それから琴子を強く抱きしめた。
殿下も妃殿下も見ているのはわかっていたが、琴子には朔夜の腕を振りほどくことはできなかった。夫は声をあげずに泣いていた。
朔夜の背を撫でているうちに、琴子もようやく身籠った喜びが湧きあがってきて涙した。
幸せに浸る間もなく、琴子は重い悪阻に苦しむことになった。とても仕事をできる状態ではなかった。
そのことに気づいた朔夜の決断は早かった。すぐに殿下と妃殿下に頭を下げて琴子の長期休暇を貰い、さらに寮の部屋にひとりで置いておくのは心配だからと、実家の母に琴子をしばらく預かってくれるよう頼んできた。
結婚した時のように、美冬が荷馬車を借りて青龍門まで迎えに来てくれた。だが、琴子には5年前を懐かしむ余裕はなかった。
琴子は朔夜に支えられて部屋を出たが、少し進んだところで夫は有無を言わさず琴子を抱き上げた。朔夜はそのまま馬車の荷台に琴子と一緒に乗りこむと、実家まで寄り添ってくれた。
2階の部屋では大変だろうと、頼子は1階にある自分の部屋を空けて待っていてくれ、その日から琴子はそこで寝起きすることになった。頼子や美冬を頼れることは琴子には心強かった。
朔夜も不寝番でなければ必ず帰り、家にいる間はほとんど琴子から離れずに何かと世話を焼いてくれた。
最初は申し訳なさもあったものの、朔夜がそれを嬉々としてやっているようなのと、何より琴子自身、夫がそばにいてくれると一番安心できたので素直に甘えることにした。
どうにかこうにか悪阻が治まってからも、琴子は大事をとってそのまま朔夜の実家に身を寄せた。少しずつ大きくなっていく腹を抱えながら、できる範囲で家事をしてその日を待った。
陣痛が始まったのは、年が明けてからしばらくたったある日の午後だった。
その夜は朔夜が不寝番だったので、琴子は頼子に頼んだ。
「朔夜にはまだ知らせないでください」
頼子は琴子の手を握って言った。
「わかってるよ。あの子が帰ってきたって、できることなんかないしね」
琴子は陣痛の合間に赤児を抱く夫の姿を想像して微笑んだ。
(明日帰ってくる朔夜はもう父上になっているわね)
しかし、翌日の夕方に朔夜が帰ってきた時、まだ子は生まれていなかった。
帰ってきたらお産の最中で、しかもすでにそれが始まってから丸一日たっていると知り、朔夜は当然驚き、慌て、腹を立てたが、頼子たちに諭されて大人しく待つ態勢になったらしい。
すっかり疲れきっていた琴子も離れたところから聞こえてきた声で朔夜の帰宅に気づき、気力を取り戻した。
元気な産声が上がったのはさらに日が変わり、明け方近くなってからだった。
真っ赤なしわくちゃの顔をした娘をようやく腕に抱き、琴子は胸がいっぱいになった。
「よくやったね」
そう言って笑った頼子も、美冬も、やはり涙ぐんでいた。
頼子の許可を得て産室に入ってきた朔夜は、寝ていないことがすぐにわかる顔をしていた。朔夜は床に敷かれた布団の中にいる琴子の顔を見ると、安堵の表情で頬に触れた。
「琴子」
「朔夜、私たちの娘を抱いてやってください」
怖々と初めて腕に抱いた娘の顔を、朔夜はしばらくの間ジッと見つめていた。それからふいに涙声で言った。
「こんなに可愛い娘を産むなんて、琴子はやっぱり凄いですね」
「朔夜がいてくれたからです」
琴子も再び涙を流しながら微笑んだ。
朔夜が娘を小さな布団の中に戻してから、琴子は言った。
「朔夜、お仕事の前に少しは休んでください」
「多分、無理です」
「横になって、目を閉じるだけでも違いますよ」
「さっきまでそうしてたんです。琴子こそ、疲れているでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
朔夜にそっと頭を撫でられて、琴子はすっかり忘れていた疲労を思い出した。琴子が目を閉じると、朔夜が短く口づけたのがわかった。
「お休みなさい、琴子。愛してます」
朔夜のその言葉を最後に、琴子は眠りに落ちた。
琴子がぐっすり眠ってから目を覚ますと、隣で夫が寝ていた。時間はよくわからないが、外はまだ明るいようだった。
しばらく見つめていると、朔夜も目を覚ました。
「琴子、起きてたんですか」
まだ眠そうな声で朔夜は言った。
「今夜は不寝番ではないのですか?」
「今日は帰れと言われました」
今朝の朔夜を思い出し、あんな顔をしていればそうなるかと琴子は苦笑した。
「殿下も妃殿下も、真雪や苑子どのやほかの皆もこの娘が生まれたことを祝福してくれました」
「たくさんの方に祝福されて、この娘は幸せですね」
「はい」
「ところで朔夜、この娘に名前をつけてあげてください」
「え、わたしより琴子がつけたほうがいいのではないですか?」
困惑する朔夜に、琴子はにっこりと笑った。
「いいえ、朔夜ならきっとこの娘に相応しい名をつけてくれます。父上なのですから」
「わかりました」
朔夜はおずおずと頷いた。
しばらくして、琴子の母が孫の顔を見にやって来た。琴子が身籠ったことから、無事に娘が生まれたことまで、琴子の実家に逐一報せてくれたのももちろん朔夜だった。
「この娘は琴子似ね」
「皆さまにそう言われるわ。もう少し父上に似ていたら良かったのに」
「だんだんと朔夜どのに似ているところも見えてくるわよ」
「そうね」
「ところで、外出できるようになったら、お父さまにも会わせに来てあげてくれないかしら」
母の言葉に琴子は眉を顰めた。
「生まれたことを知っていて何も言ってこないのに」
「あの人は頑固だから、ご自分からは動けないのよ。でも、あなたたちを許すきっかけを待っていると思うわ」
「今さらお父さまに許していただかなくても私は構わないわ」
「琴子も頑固ね。あなたは朔夜どのに似て柔軟だといいわね」
母が娘に向かって言うのに、琴子は唇を尖らせた。
朔夜は半月近くも悩んだ末に、神妙な顔で琴子に告げた。
「糸、というのはどうでしょうか」
「糸、ですか」
琴子は腕に抱いた娘の顔を見つめながら、「糸、糸」と口の中で繰り返した。
「とても良い名です。この娘にこれ以上相応しい名はありません」
琴子が微笑みながらそう言うと、朔夜は見るからにホッとした。
「糸、父上があなたに素敵な名をくださいました。良かったわね、糸」
「糸」
朔夜も娘の名を呼びながら、そっと愛おしそうにその頬に触れた。
母は何度か琴子のもとを訪れ、琴子の弟妹たちも会いに来てくれたが、父からの音沙汰はなかった。
春になり暖かくなってから、琴子の実家に糸を連れて行こうと言い出したのは朔夜だった。
朔夜はわざわざ史靖から父が家にいる日を聞いてきて、その日に不寝番明けの休みを取った。
それなのに、父が屋敷に入ることを許したのは琴子と糸だけだった。琴子は腹を立ててそのまま帰ろうとしたが、朔夜がそれを止めた。
琴子はしばし悩み、結局、山野に糸を預けた。門の外で糸を待っている間、怒りや情けなさ、口惜しさ、申し訳なさなどで頭の中がいっぱいだった。
その後、朔夜に誘われても琴子は二度と実家には行かなかった。しかし、琴子に断られると朔夜はひとりで糸を琴子の実家に連れて行くようになった。
それは琴子と糸のためであり、おそらくは朔夜自身の父への罪滅ぼしでもあった。だから、琴子は夫を止めることはしなかった。
朔夜は家にいる時には糸の世話に積極的に関わった。おしめを替えたり、湯浴みをさせたり、夜泣きをすれば琴子より先に起き出してあやしたりもした。
娘を腕に抱く夫を見ていると、琴子は心の中が暖かいもので満たされるように感じた。朔夜の愛情がすべて糸に向けられてしまったとしても構わないと琴子は思っていた。
だが、朔夜にとって娘への想いと妻への想いは別物のようだった。
糸が小さな布団の中でスヤスヤ眠っているのを確認すると、朔夜の関心は琴子に向いた。出産前と変わらずに琴子を抱きしめ、口づけた。
琴子は宮中が忙しくなる師走前に東宮殿の寮に戻り、仕事へ復帰した。当初は朔夜の実家に糸を預けてそこから通うつもりだったが、殿下の「連れて来てよいぞ」の一言で糸を東宮妃殿に連れて行くことを決めた。
やがて、東宮妃殿の中で糸は初めて歩き、話しだした。初めてを逃した朔夜はたいそうがっかりしていた。
年が明け宮中が落ち着いた頃、今度は苑子が身籠っていることがわかった。
苑子は悪阻が軽かったこともあって、可能な限り仕事を続けることを希望した。妃殿下は決して無理をしないことを条件にそれを許した。
夏、苑子は東宮殿の寮で無事に元気な子を産み、真雪はその子に千尋と名づけた。
成長するにつれて、糸の朔夜に似ている部分が明らかになってきた。特に皆に言われるのは口元だった。
琴子は父娘の笑った時の口の形がそっくりだと気づき、朔夜の実家でその可愛さを力説した。朔夜は首を傾げたが、直哉などは大いに頷いてくれた。
また、あちこち動き回るようになった糸を見て、頼子が「小さい頃の朔夜みたいだね」と笑いながら言った。
糸が絵本を読んでと言いながら琴子の膝に乗ってくると、やっぱりあの父上の娘だと琴子は嬉しくなった。
東宮妃殿で少し目を離すと糸はどこかへ行ってしまうが、東宮殿の塀の中にいることは間違いなかった。門を守る衛士たちは、皇子さまや皇女さまと同様、殿下の護衛の愛娘も決して外に出したりはしなかった。琴子が糸を探していれば、たいてい誰かが行き先を教えてくれた。
その日も、琴子が糸を探しに東宮妃殿の外に出ると、最近、糸のあとを追うようになった千尋が東宮殿の前の段に腰かけて絵本を読んでいるのが見えた。
琴子が嫌な予感を覚えながら東宮殿の前に行くと、案の定、そこにいた衛士が中にいると教えてくれた。
琴子は衛士に取次を頼んで執務室に向かった。内から戸を開けたのはもちろん朔夜で、琴子は恐る恐る部屋の中を覗いた。あろうことか、糸は殿下と真雪に挟まれた位置にちょこんと座ってニコニコしていた。
「あ、母上」
糸は琴子に気づくと立ち上がり、駆け寄ってきた。
「娘がお邪魔をして申し訳ありませんでした」
琴子は殿下に深く頭を下げた。
「別に邪魔はされてない。仕事中の父の姿を見に来たと言うから、どうせなら正面から見たかろうとこちらへ呼んだのだ。糸、今度は千尋も連れてまいれ」
「はあい」
「やはり朔夜の娘だな」
そう言って殿下が可笑しそうな顔をし、真雪も笑うのを堪えている様子だった。
琴子が思わず後ろを振り返ると、夫が娘と同じ口の形で笑っていた。琴子の視線に気づき、朔夜は慌てて殿下の護衛の顔に戻った。
「朔夜、娘が可愛いのはわかるが、叱るのを妻に丸投げしておって良いのか?」
「むしろ、朔夜は一緒に叱られるほうにございましょう」
「違いない。やはり琴子は苦労するな」
琴子はそっと嘆息した。
琴子は糸を連れて外に出ると、努めて厳しい顔を作って口を開いた。
「糸、東宮殿に入ってはいけません。あそこでは殿下が大切なお仕事をしているのです。それから、お役目中の父上の邪魔をするのもいけません」
「でも、殿下がいいって」
「いけません」
夜には、寮の部屋に帰ってきた朔夜に言った。
「朔夜、どうして糸を黙って執務室に入れてしまうのですか。あなたは殿下の護衛ではありませんか」
「糸が殿下に害を為すはずがないではありませんか」
「そういう問題ではないでしょう。気づいた時点で止めてください」
「はい」
殿下の言葉どおり、朔夜は娘を叱るということをまったくしなかった。だが、琴子は朔夜に対してそのへんの役割はもともと期待していなかった。
そもそも、朔夜や義兄たちに聞いていた朔夜の父がそういう人だったし、朔夜が子を叱ったり、声を荒げたりする姿を琴子は想像できなかった。
琴子だって、糸の笑顔を見ていると毒気を抜かれ、すべて許して抱きしめたくなってしまう。それでも娘のためだと心を鬼にして、夫の分まで糸に厳しくするのだ。
さらに真雪に言われたように、糸が生まれてから琴子は朔夜に叱言を言うことが増えたような気がしていた。
糸に甘すぎるのを諌めることもあるが、糸の前でもふたりきりの時と同じように琴子に触れたがるのを止めることもある。
とりあえず、朔夜は糸の見ている前で口づけするのはやめてくれるようになった。あとは、琴子がふたりを叱った直後に糸の目の前で琴子を抱き寄せて「やっぱり可愛い」などと口にし、色々と台無しにするのもやめてほしかった。
それでも、糸が生まれて夫はやはり良い父になったと琴子は思っているのだ。
お読みいただきありがとうございます。
近いうちに、糸を主人公にしたお話を新しく掲載させていただく予定です。
そちらもよろしくお願いします。
→『いとへん 〜東宮殿の子どもたち〜』というタイトルで完結いたしました。




