30 ふたり暮らし
琴子は朔夜の手を握ったままであることに気づいていないようだった。あまり周囲に人のいる気配もなかったので、朔夜は黙っていることにした。
寮の部屋まで戻ると、今度はその前で人が待っていた。
「史靖」
琴子の声に気がつくと、史靖は駆け寄ってきて琴子に抱きついた。当然、琴子の手は朔夜から離れていった。しかし、姉弟にとってはこれが5カ月ぶりの再会なのだと、朔夜は堪えた。
「姉上、お久しぶりにございます」
「史靖、元気そうね。また少し背が伸びたかしら?」
琴子は体を引いて史靖を見上げた。こうして並んでいても、やはり姉弟の顔はよく似ていた。
「そうかもしれません。姉上は少しお顔が丸くなりましたか?」
琴子の眉根が寄せられて、声がやや低くなった。
「史靖、淑女に対してそういうことをはっきり口にするものではありません」
「申し訳ありませんでした」
素直に謝る弟を前に、琴子はすぐに態度を改めた。
「とにかく、中へお入りなさい」
「いえ、仕事を抜けて来たのでもう戻ります」
「あら、そうだったのね。忙しいのに来てくれてありがとう」
朔夜の存在に気づいていないかに見えていた史靖が、朔夜のほうを向いた。
「あの、母上が殿下に入門許可証をいただけないかお尋ねしてほしいそうです。それから、義兄上のお休みの日も知りたいと」
「もしかして、お母さまもここにいらっしゃるおつもりなのかしら」
琴子の言葉に史靖は頷いた。
「おそらく」
「殿下にお願いしておきます」
朔夜が言うと、琴子が付け足した。
「お母さまには、こちらが落ち着いてから改めてご連絡すると伝えてちょうだい。それから、お着物をありがとうございましたと」
「わかりました。では、また参ります」
史靖はふたりに礼をすると、早足で去っていった。
「本当に仲がよろしいのですね」
部屋の中に入ってからそう口にした朔夜を見上げて、琴子が困ったような顔になった。
「あまりよろしく思っていないように見えますが」
「そんなことはありません。ですが、史靖さまは樹と同じ歳ですよね。そんな歳で姉上に抱きつくのはどうかと」
「20歳にもなって、義兄上さまに負ぶわれていたのはどなたでしょうか」
「わたしですが」
朔夜が開きなおって答えると、琴子は笑い出した。
「史靖も普段はあのようなことはいたしません。弟との仲を取り持ってくださったあなたが、そのような顔をしないでくださいませ」
ふいに、朔夜も史靖を捕まえるために抱きついたことを思い出した。琴子は知らないはずだ。
とりあえず、これ以上続けても益はないので、妻に向かって両腕を広げた。
「琴子」
「まったく、仕方ありませんね」
そう言って羞じらいながらも、琴子は朔夜に近寄るとギュッと抱きついた。朔夜もしっかりと琴子を腕の中に閉じ込めた。
燭台に火を灯してからしばらく経ったころ、裏口のほうから戸を叩く音が聞こえてきた。
「どなたでしょうか」
琴子が首を傾げるのに、朔夜が答えた。
「食堂の下女だと思います。食事を運ぶか聞きに来るのです」
琴子が朔夜の膝から下りて、裏口へと向かった。朔夜も居間と台所をつなぐ戸のそばから窺った。
琴子が誰何すると、やはり相手は食堂から来たと名乗った。琴子が裏戸を開けると、朔夜にはすでに見覚えのある顔が見えた。琴子を見たその目が見開かれた。
「初めまして」
琴子が優しい声で迎えると、相手は背筋を伸ばして礼をした。
「は、初めまして。食堂で下女をしている者です。お食事はお運びいたしますか?」
「はい、ふたり分お願いします」
それから琴子は腰を屈めて目線の高さを合わせた。
「あなた、お名前は? 私は琴子です」
「あ、琴子さま、わたしは純でございます」
「純はいくつなのかしら?」
「12です」
「そう」
「琴子、その娘は仕事中ですよ」
まだ続けそうな妻に、朔夜は声をかけた。
「ああ、お邪魔をしてごめんなさい。よろしくお願いしますね」
「はい、失礼いたします」
純は頭を下げると、慌てたように去っていった。
ふたりは居間の火鉢のそばに戻って腰を下ろした。琴子が朔夜の膝の上ではなく隣に落ち着いたので、朔夜は体が触れ合う位置まで動いた。
「あのような小さな子供も働いているのですね」
「寮の食堂や掃除係には多いかもしれません。おそらく貧しい貴族か庶民の出身でしょう」
「色々と働く事情はあるのですね」
「ここで働くのは大変なことも多いでしょうが、あの娘もこの先努力すれば女官になることだってできます。確か、青山どのも庶民の出だと聞きました」
「そうなのですか」
しばらくすると、夕食の膳が運ばれてきた。運んできたのは純よりはいくつか年上の下女で、おそらく忙しいであろうと、今度は琴子も挨拶のみにとどめた。
「届けるのはまた別の者なのですね」
膳を居間に運びこみながら、琴子が言った。
「いつも食堂で食べていたので、そこまでは知りませんでした」
「聞きにきたのはいつも純だったのですか?」
「いえ、多分あとふたりはいると思います」
向かい合い、手を合わせて食べはじめる。
「朔夜はその者たちとお話しされたりしないのですか?」
「必要なことだけです」
「あまり無愛想では、怖い方だと思われてしまいますよ」
「もう思われているかもしれませんが、別にどちらでも構いません」
「まあ、殿下の護衛どのが愛想を振りまくというのもおかしいでしょうか」
朔夜と琴子の間で会話が途切れると、しばし部屋は沈黙に包まれた。それを琴子が再び壊した。
「外からの音は以外と聞こえてこないのですね」
「越して来てから、あまり騒がしかったことはないです」
「考えてみれば、実家ではお食事中はお喋りしてはいけないと教えられていましたのに、いつの間にかお話しをしながらいただくのが当たり前になっておりました」
「家ならたとえわたしがひとりで食べていても、誰かがそばで喋っていますからね。静かな食事などありえません」
「はい。それにこのお膳も、以前はお食事といえばこの形しか知らなかったのに、今は何だか物足りないです」
「そうですね。東宮殿からはここの食堂のほうが近いですが、わざわざ衛門府の寮まで食事のためだけに帰ることもありました」
「衛門府のお食事はやはり士族風なのですね」
「はい。座卓も並んでいますし、だいたい騒がしいです」
ふたりが食事を終えてしばらく経ってから、膳を下げに来たのは純だった。
「ご苦労さま」
「いいえ、ありがとうございます」
純はまたもやジッと琴子の顔を見つめていた。
「何かついていますか?」
「すみません、とてもお綺麗なので。……あの、松浦どのは皇太子殿下の護衛をされているのですよね?」
「ええ、そうですよ」
「では、琴子さまは本物のお姫さまなのですね?」
顔を輝かせている純を前に、琴子は首を傾げていた。
「私はただの女官見習いですから、純も琴子さまなどと呼ばなくていいのよ」
「はい。すみませんでした、琴子どの」
純は明朝の食事について確認すると、どこか残念そうな様子で食堂に帰っていった。
「もしかして、純は『姫と護衛』を読んだのでしょうか?」
居間に戻りながら琴子がポツリと呟くのに、朔夜は思わず顔を顰めた。
外から太鼓の音が聞こえてきた途端、朔夜の腕の中で微睡んでいた琴子がハッとしたように目を開けた。
「起きてしまいましたか」
朔夜が声をかけると、琴子は朔夜の顔を見てから体を寄せてきた。
「閉門の合図がずいぶん大きく聞こえるのですね」
「青龍門がすぐそこですから」
「……いつもあの音が聞こえてからしばらく経っても朔夜が帰ってこないとがっかりしていました」
「わたしもあれを門の中で聞くと泣きたくなりました」
朔夜は琴子の髪を指で梳きながら言った。
「ですが、私ががっかりしたあとであなたが帰ってきたことが何度もありました。あれは、青龍門から出ていらしたのですよね」
「気づいていましたか」
「少し考えてみればわかることです。あなたが遠回りしてでも私のところに帰ってきてくださることが、私は本当に嬉しかったのです」
「琴子がいつも嬉しそうに出迎えてくれたので、わたしもとても嬉しかったですよ」
朔夜は琴子の髪に口づけた。朔夜が次に琴子の顔を覗きこんだときには、再びその瞼は降りていた。




