29 父との再会
東宮殿の寮に着くと、琴子は改めて佐田に挨拶してから部屋に入った。
着物を家で着ていたものに再び着替え、朔夜と直哉が今朝運んでくれた長持の蓋を開けて荷物の整理を始めた。
そこに、朔夜が帰ってきた。
「ただいま帰りました」
琴子もすぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ。こんな時間にお帰りということは、今夜は不寝番ですか?」
「いえ、殿下から琴子に引っ越し祝いだそうです」
朔夜の言葉を聞いて、琴子は笑った。
「ありがたく頂戴いたします」
穏やかに微笑んで妻の顔を見つめながら、朔夜がゆっくりと琴子の背中に両腕を回した。
「ようやく、一緒に暮らせますね」
「はい」
琴子が夫を見つめ返すと、すぐにその顔が近づいてきて唇が重ねられた。
「ふたりきりだと誰に気兼ねすることなくできます」
朔夜は一度離れてそんなことを言うと、再び口づけてきた。次に夫の唇が離れた隙に、琴子は急いで言葉を返した。
「まだ片付けが終わっておりませんので、私に気兼ねしてくださいませ」
「わかりました」
もう一度だけ短く口づけて、朔夜は渋々琴子を放した。
琴子が衣類を寝室の箪笥にしまいはじめると、案の定、朔夜が背中に貼り付いてきた。
「朔夜、このあたりのご本などをそちらの棚に入れてくださいますか」
「はい」
朔夜がやはり渋々という様子ではあるものの、動きだした。が、すぐに声があがった。
「この絵本、持って来たのですか」
琴子が振り向くと、朔夜が手にしていたのは『姫と護衛』だった。
「もちろんです。鈴さんにいただいたのですから」
「あまり人には見られたくないのですが」
眉を寄せた朔夜の気持ちは、琴子にもわからなくはなかった。
「それでは、そちらは寝室に置きましょう」
「そうしてください」
朔夜は『姫と護衛』を琴子に渡すと、今度こそ立ち上がった。琴子に言われるまま、寝室と居間を往復する。
少ない荷物はあっと言う間に片付き、琴子は湯を沸かして茶を淹れた。床に茶器をのせた盆を置き、朔夜と並んで腰を下ろした。
「何だか、落ち着きませんね。座卓がないからでしょうか。といって、文机で代用するのもおかしいですし」
「座卓、買いますか?」
「ですが、お食事はお膳で運ばれるのですよね」
「小さいものなら移動できて邪魔にはならないのではないですか?」
「しばらくは様子を見て、やはり欲しいと思えば買うことにいたします」
もちろん、琴子も今では夫が衛士としては稼ぎがかなりよいことを知っていた。頼子たちの口ぶりだと、どうやら兄ふたり分よりも収入は多いようだ。
ところが朔夜はずっと寮暮らしで物欲がなく、そもそも使う暇もなかったので、受け取ったもののほとんどを頼子に預けていた。その中の一部が頼子や琴子の生活費になり、鈴の女学校の学費も半分はそこから出されているのだが、それでも蓄えは充分にあるらしい。
だが朔夜自身はあまりそういうことに関心もなさそうで、頼子にとっては三男に対する不安材料のひとつになっていた。
そんなわけで、琴子はこの4カ月の間に士族的経済観念をしっかり教えこまれていた。朔夜が簡単に買っていいと言っても、本当に必要なものかどうかを見極めるべし。
「ほかにも足りないものがあれば、揃えてください。そのあたりは琴子に任せます」
「はい、わかりました」
琴子はニコリと笑って頷いた。
やるべきこともなくなって、琴子は朔夜を誘い外に出た。歩き出してすぐに自然と手を繋ぎかけ、ここが皇宮の中であることを思い出してやめた。互いの顔を見て、苦笑を交わす。
家を出る前に朔夜も黒から淡灰色の着物に着替え、さらに紺色の長羽織や臙脂色の襟巻きも重ねているので、誰かとすれ違っても殿下の護衛とは気づかれないかもしれない。
向かった先はふたりが祝言を挙げた日の女神の神殿だった。あの日は殿下に導かれるままに、どこかフワフワした状態で訪れて祝言に臨んでしまった。だが、今日は厳かな気持ちで参拝し、朔夜と夫婦にしていただいたことを深く感謝した。
東宮殿の近くまで戻って来ると、前方に立ち止まっている人影があった。後ろ姿だけでも琴子にはそれが誰なのかすぐにわかってしまった。ふいにその人物はくるりと振り返ってこちらへと歩き出し、だがそこに琴子と朔夜がいるのに気づいて足を止めた。
数歩前に出てから礼をした朔夜を、父は無視した。
「おまえが女官になるなどという話を耳にしたから、結婚が失敗だったことにようやく気づいたのかと思えば、まだあの衛士と一緒にいるのか」
琴子は朔夜に寄り添うように立つと、その左手を両手でしっかりと掴んだ。すぐに朔夜も握り返してきた。
「当然にございましょう。私は今とても幸せなのですから」
「そのうち後悔するに決まっておるわ」
それだけ言って踵を返した父に、朔夜が呼びかけた。
「義父上」
「誰がおまえの義父だ」
目を怒らせて父が振り向いた。
「では、左大臣さま」
あっさり言い直した夫を見上げれば、特に気分を損ねた様子もなく穏やかな顔をしていた。
「わたしは士族に生まれましたが、両親や兄たちに可愛いがられて育ち、衛士になってからは皇太子殿下にお仕えするお役目をいただいて、自分には不足しているものは何もないと思っておりました。ですが、琴子と出会って夫婦になれて、こんな幸せがあるのだと初めて知りました。今ではもう琴子のいない人生など考えられません」
父は険しい顔のままだったが、それでも朔夜の話を黙って聞いていた。
「だから、義父上にお礼を申し上げたかったのです。琴子をわたしにくださってどうもありがとうございました」
再び礼をした朔夜を父は怒鳴りつけた。
「衛士などに娘をやった覚えはないし、おまえの義父ではないと何度言わせる」
「申し訳ありません、左大臣さま」
朔夜の言葉を聞いているうちに琴子の心も緩み、父に向かって口を開いた。
「お父さま、私からもお礼を申し上げます。私が朔夜と夫婦になれたのは、元を辿ればお父さまが私を妃殿下候補になれるよう育ててくださったからです。それに、お父さまが私に色々なことを学ばせてくださったので、これから女官として働くこともできます。勘当されたときにほとんどのものはお返ししたつもりでおりましたが、実際はお父さまからいただいたたくさんのもののおかげで私は今も生きております。本当にありがとうございます」
琴子も頭を下げると、父の表情が僅かに色を変えたように見えた。
「勝手にしろ」
父はふたりの横を通り過ぎ、そのまま大股で歩み去っていった。それを見送りながら、朔夜が言った。
「左大臣さまがこのあたりにおられるなど珍しいですね。琴子に会いに来られたのでしょうか」
「まさか」
「女官になると知って心配になったのではないですか。働くくらいなら帰って来いと仰るつもりだったのかも」
「私は今さら実家に帰るつもりなどありません」
琴子がキッパリ言うと、朔夜は微笑んだ。
「わたしも琴子を左大臣さまにお返しするつもりはありません」
それから笑みを深めると、朔夜はさらに続けた。
「ですが、ようやく義父上がわたしを見てくださいましたし、申し上げたかったことも聞いていただけました」
琴子は付け加えた。
「それに、どうやらあなたが黒を着ておられなくても、父には殿下の護衛どのだと認識できるようですね」
「ああ、そうですね」
朔夜は嬉しそうな顔をした。




