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南国の蝶と夢

 手紙と同時に薔薇のサシェが届けられた。レースのついた可愛い布切れに、ビロードの赤いリボンがついている。


 鼻を近づけてすんすんと嗅いでみると一面の薔薇に囲まれているように濃厚な香りがする。でもそれでいて、しつこいわけではない。


 キッソン公爵領は薔薇の産地だと聞く。領地で毎年行われる薔薇の品評会は国際的な権威がある。自分の作った新しい品種の薔薇が賞を取ることが、グロットリ中の薔薇栽培家の夢だ。


――だからこんなに心に残るものなのかしら。


 生花も飴細工も、サシェも。全部心の中でしっかりとその存在が沈み込んでいくみたいで。


 生花だったらそのみずみずしさが。

 飴細工だったら透明感のある甘さが。

 サシェはそのかぐわしい香りが。


 セフィーヌは手の中でサシェを弄んでから、引き出しにしまい込む。代わりに一通の封筒を取り出した。


 マゴット伯爵夫人からのごく私的な散歩のお誘い。走り書きにはこうあった。


『あなたの待ち人はようやく来たようです。向こうも乗り気になってくださいました』


 ポシェットに封筒とハンカチを入れると、一階へと降りる。そこには父と母、兄までもが勢ぞろい。


 彼らは三者三様にセフィーヌの外出着をチェックした。


「よし、セフィはいつにもましてかわいいな!」

「あとはそのドレスを汚さないように」

「……今回は夫人にお任せするけれど。後悔のないようにするんだよ、セフィ」


 セフィーヌ、色んなものをひっくるめて、「うん!」と頷く。例のごとく素直すぎるお返事。三人はおのおの不安になった。言うべきじゃなかったかもしれない。


 最終的にはキヤだけでなく、ほとんどの使用人が総出で見送る中、馬車に乗り込んだ。


 

 シルドンパーク内、馬車道と散策路の交差点で馬車を降りる。そこにはすでに白いパラソルを出した上品な婦人が立っていた。


「ごきげんよう。今日は堅苦しく思わず気楽になさってね。すべては私がうまく差配しますから、心配には及びません」


 きっと新しいカップルが誕生しますよ、とマゴット夫人は力強く請け合ってくれた。


「本日はよろしくお願いいたします、夫人。……わたくし、がんばります!」


「ええ、そうですね。がんばりましょう、セフィーヌさま」


 夫人の差し出した手をしっかり握り返すセフィーヌ。


 シルドンパークの散歩。もちろんただの散歩ではなかった。セフィーヌは、ヤデック・シーレ氏と出会うためにやってきた。


 仲介役はマゴット伯爵夫人である。


 今回の話は夫人の根回しが功を奏した。うまくセフィーヌを売り込んでくれたためか、あちらもセフィーヌに興味をもってくれたのだという。


 フラゴニア家の面々は事の成り行きを見守る姿勢を取っている。人を見る目に定評のある夫人の紹介ということもあるが、今のところヤデック・シーレ氏は容姿以外に何の欠点も見つかっていないからだ。それに何より、セフィーヌの恋がうまくいくという楽観的な考えがちっともできなくなっているからだった。


「では腕につかまって頂戴。これから少し歩きますから」


「これからどちらに?」


 夫人は蛇行した砂利道と林から突き出した小高い丘を指さした。王宮の敷地のある方とはまったくの逆方向だ。


「シーレ卿の趣味は絵を描くことなのですよ。それも風景画。結構な腕前だそうで、せっかくだからこの機会に見せていただいたほうが互いの理解が深まると考えました」


 なんとシーレ氏は絵を描くらしい。


 淑女のたしなみとして油彩画のレッスンを受けたが、結果的に教師に「才能無し」という烙印を押されてしまったセフィーヌには尊敬するばかりだ。素敵ですね、と弾んだ声を上げる。


 もうこの場で、大声で「好きですううううぅ!」と叫びだしたっていいぐらいである。


 けれどもすぐにセフィーヌがうちなる〈猛獣〉を鎮められたのは、頭の中で刷り込まれた言葉があったから。


 それは聞きほれるほど穏やかなキッソン『先生』の声で再生される。


『すぐに告白してはいけないこと』。


『わざとらしくなく視線を向けること』。


『聞き上手に徹すること』。


――『セフィーヌ嬢にはほかの人にはない魅力があります。宝石のように、あるいは南国の海のように透き通る緑の瞳は不思議なほどに引力があるのでしょう』。 


 勝手にセフィーヌの中のキッソン先生が何度も読んだ手紙のアドバイスを繰り返す。


――『シーレ氏よりもいい男性を私は知っていますよ』。


 ……セフィーヌは驚いて思考をやめた。なんでこんなことまで。


 困ったことに「あの時」のキスの感触と自分が「大嫌い」と叫んだことまで思い出してしまった。


 大嫌い。勢いで言ってしまったけれど。あとで猛烈に後悔したのだ。セフィーヌのちっぽけな人生で、気心の知れた親しい家族以外であんなことを言ったことはなかった。それも大人になってからは初めてだった。


 大嫌いと言ったところでどうしようもない。自分の心も晴れないし、相手の心に響くこともない。言い過ぎだった。


 ……実はこんなに尾を引く後悔をセフィーヌ自身経験したことがなかったのだが、本人はそれに気づいていなかった。しかも見た目には何も考えていないように見えたままだったからなおさらだ。


 表向きは「変よねえ」と首を傾げているだけのようなものである。


 セフィーヌは横にいる夫人を横目に見る。

 マゴット伯爵夫婦はおしどり夫婦。フラゴニア辺境伯夫妻もまずまず仲がよかった。


「あの、夫人」


「何でしょうか、セフィーヌさま」


「夫人が伯爵との結婚を決意されたのは何がきっかけだったのでしょうか?」


「私と夫の? そうでしたね……あの人、今ではそうには見えないでしょうが、昔は本当に堅物で融通が利かなくて。話をしてもちっとも合わないものだから、絶対にこの人と結婚することはあるまいと、そう思っていたぐらいでしたが……」


 でも、人生というものはどう転ぶかわからないものですから、と夫人は前置きをして、わずかに声をひそめた。


「あの方、馬鹿正直に私のいうことを真に受けたのですよ」


「何をおっしゃったのですか」


「若気の至りですよ。私の元に百日、毎日面会しにいらしたら、結婚を考えてもいい、と。夫はそれから百日間欠かさず私を訪問しました。なんて馬鹿なんだろう、と当時の私は夫に食って掛かったら。夫は、『馬鹿なことだったとしても。それは君に対してだけだ』と。……それを聞いたら、もう観念するしかありませんでしたよ」



 ね、つまらない話だったでしょう、と夫人は恥ずかしそうな顔をするが、対照的に聞き入っていたセフィーヌは「まさか!」と歓声を上げた。


「そんな素敵な話があったなんて知りませんでした! 憧れます!」


「昔の話ですよ。うっかりと話してしまいましたがあまり広めたいことでもないですから、小説のネタにはしないでください」


 そういうことならもちろん、とセフィーヌは頷く。『ケイン・ルージュ』はネタ元にも配慮するのだ。


 それからしばらくして、芝生の広がる丘に出る。


 大きなイーゼルとキャンパスが見え、そこから大きな胴体がはみ出ていた。二人が近づいたところで上着を脱いだ姿で歩み寄った。


「夫人。わざわざ来ていただきまして。ここまで大変だったでしょうに」


「いいえ。私どもも体力にはそこそこ自信がありますから。いい散歩道でしたよ」


「頼もしいですね。……それでこちらは」


 そこまで言ったシーレ氏はつぶらな黒い瞳を夫人の同伴者に向ける。セフィーヌもシーレ氏を見たから二人は見つめあう形になる。


 夫人が二人の間に入る。


「セフィーヌさま、こちらがヤデック・シーレ氏。ファルセットで外交官をされている方です。……そしてシーレ卿。この女性がセフィーヌ・フラゴニア辺境伯令嬢ですよ」


 セフィーヌは訪問着の裾をつまんで礼を取り、シーレ氏の差し出した手に自分の手を重ねた。


 ふかふかの手が印象的であった。


「はじめまして」


「は、はじめまして……」


 セフィーヌは長年の想い人に会ったように頬を染めた。会えない日々が愛を育てるというが、セフィーヌの場合も今回は我慢に我慢を重ねたためか、やっとシーレ氏に出会えた感激で胸がいっぱいになっている。


――わたくしの、子豚の君……! なんてスマートな方なの!


 「スマート」というのはもちろん体型のことではない。物腰の柔らかさや丁寧な口調に対してだ。


「シーレ卿。このセフィーヌ様があなた様のことを前々から気にしていた方。以前にもお話していた通りです。なかなか良いご縁に恵まれず、それは苦労なさってきたのですよ」


 物は言いようだった。夫人にかかればセフィーヌの電撃告白と、それに付随する失恋もまた『苦労』の一言で片が付く。


「苦労だなんて……。まったくそんな感覚ありませんでした」


 セフィーヌは素で答えていた。苦労というものは他人として見ている方が気が付くものである。


 シーレ氏が穏やかな顔で、


「それはいつも前向きだったから、かもしれませんね。セフィーヌ嬢を見ているとそう思えます。……夫人。私のような男にはもったいないぐらいの令嬢ではありませんか」


「まあいいではありませんか。それが本人の希望なのですから」


 夫人も相槌を打ってから、さりげなくセフィーヌの身体を前に押し出す。


「シーレ卿。せっかくですから絵を描くところをセフィーヌ様に見せて差し上げてはいかがでしょう」


「もちろん構いませんよ」


 まだ下書きの段階ですがね、と彼は頬をかく。夫人は少し離れたところに立ち、成り行きを見守るようだった。セフィーヌは邪魔にならないよう、イーゼルの横からシーレ氏の作業をのぞき込む。


 下書き用の黒鉛とパンが目に入る。


 キャンパスはまだほとんど真っ白だったが、一つだけ描きこまれているものがあった。


 彼女の視線に気づいたシーレ氏は囁いた。


「これは南国の蝶ですよ。このまだら模様も変わっていますが、色味もまるでステンドグラスのように眩い青だそうです。大きさだって」


 シーレ氏は両手の親指と人差し指で輪を作って見せた。


「私たちが見ている蝶よりかなり大きいとか」


「まるで絵本に出てきそうな蝶ですね」


 セフィーヌは思い浮かべた。


 太陽に向かって弾けるように広がった赤い花の上を、黒のまだらが入った青い蝶がゆったりと遊泳しているその様を。


「……とてもきれいなのでしょうね」


「ええ、きっと」


 シーレ氏は微笑みを湛えながら、黒鉛を握って絵の続きを始める。

 彼の視線は眼下の街並みにあった。絵の中にも忠実に再現されていく。彼の絵の腕前はセフィーヌの眼にも明らかなほどだった。


 けれど一つだけ気になったのはやはり蝶。南国の蝶がよく知る街の風景を飛んでいる。それも蝶の方が主役らしい。


 気になったから彼女は作業の合間に尋ねた。どうして南国の蝶をこの国の風景に混ぜてしまうのですか、と。


 シーレ氏は顎を上向けて、遠くを見ていた。まるでそこにない景色を手繰り寄せるような表情をしている。


「あるはずのない光景を夢見ていたいのかもしれません。南国の蝶はきっとここでは生きて行かれません。ありえないからこそ、見てみたくなります。でも一方で夢でしか見られないこともわかっていて……申し訳ありません。自分でも理解に苦しむ部分があるのです」


 セフィーヌはそんなシーレ氏の横顔をそっと見つめた。風が強い丘の上。横になびくチョコレート色の髪を押さえる。


「わたくしは、夢を見ることは好きです。夢の中だったら、どんな人にもなれるではありませんか。世界も身分も性別も全部自由。わたくしは一番なりたい「わたくし」になれる――」


 そして「夢」は他の人々と共有できる。互いに共鳴しあって、さらに大きな「夢」へと膨れ上がる。どんなにつらい現実であろうとも、ほんの少し息をしやすくしてくれる小さな「夢」は明日への活力になり、大きくなった「夢」は現実だって変えてくれるかもしれない。


 セフィーヌはそう信じている。


「面白いことをおっしゃる方ですね。私たちは意外と気が合うかもしれません」


 シーレ氏とセフィーヌは目を合わせた。

 その瞬間、彼女は確かにシーレ氏の心に触れられた気がした。




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