新世界への誘い
「本日はありがとうございました、夫人。……セフィーヌ嬢、また今度お会いしましょう」
太陽が傾き始めた辺りで夫人はセフィーヌを連れてその場を辞去した。夫人はどこか惚けた顔をしたままの彼女が微笑ましくて仕方がない。
手ごたえはあった。この調子だととんとん拍子に話が進むかもしれない。物事は不思議なもので、まったく進まない時は進まない一方で、進む時はとんでもない速さで進んでいくものだ。
――『坊ちゃん』にとってはお気の毒な話だけど。
しかしキッソン侯爵は立派な成人男子だ。彼のこれまでの人生経験は、誰もが持っている『とある感情』を鈍らせていたとしても、夫人は手を差し伸べない。
気づくだけの機会も時間もあげたのだ。あとはセフィーヌ嬢に肩入れするのみ。花の時は早く過ぎ行く。彼女には悠長に待っていられるだけの時間はないのだ。
あとで存分に後悔すればいい。その苦さを噛み締められたら人生の糧にもなるだろうし、彼はもっと深みのある人間になるだろう。たとえ容姿が衰えても人を惹きつけられる、本当の意味での『魅力ある人間』に。
ゆっくりと丘の小道を下りながら、夫人は隣の令嬢に今日の感想を尋ねると、間髪入れずに「素敵な方でした!」と返ってきた。
「それはとてもよろしいですね。ならばご両親にも縁談を進めるようにしっかりとお話しておきましょう」
「はい。よろしくお願いします!」
はきはきとしたよい返事に、夫人も一つ頷く。
そういえば。あることを思い出して、セフィーヌに切り出す。きっと彼女も喜んでくれるはず。
「セフィーヌ様。実は折り入って話したいことがあるのでした」
「ええ、何ですか?」
近くに人がいるわけでもないが、夫人は声をひそめて、耳打ちする。
「今、私たちの仲間内でセフィーヌ様の『薔薇色の誘惑』をお芝居にしてみようと計画しているのです」
「へ……?」
彼女はぱちぱちと緑の目を瞬かせた。夫人は顔を離して、セフィーヌを連れたまま、林の中をゆっくりと散歩する。
「素人芝居というものですよ。自分たちで配役を決めて、自分たちで演じるのです。もちろん歌だって歌います。演出だってしますし、会場の準備も自分たちで。観客は親しい人たちを招きます。よい出来栄えだったらほんの心づけばかりいただいて、孤児院に寄付するのです。――ぜひとも原作者の方の意見も聞かせていただけますか?」
話をしている間にも、相手は訝しげな顔から一転、目を輝かせて、すぐにも何か言いたげに口元をぱくぱくさせる。
「そんなお話があったのですね! その舞台をぜひとも見てみたいです」
自分の本がお芝居になるなんて初めて、とセフィーヌはにこにこと笑顔を垂れ流す。娘のいない夫人は時たま「自分に娘がいた時の想像」をするのだが、セフィーヌのような娘だったらとても面白かっただろうと考えているぐらいなので、セフィーヌが多少素を見せたとしてもとりあえず受け入れてしまえていた。
「もちろん原作者なのですから、セフィーヌ様だって立派に関係者ですよ。……そうそう、美術関係はシーレ卿にお願いしました。こころよく引き受けてくださいましたよ」
夫人は思わせぶりな顔を作ってみせる。
「もしかしたらこの芝居を通じてもっと仲良くなれるかもしれませんね」
夫人の意図を察したセフィーヌ。夫人の厚意に感謝する。
何せ、一緒にいる時間は愛を深めるのだ。シーレ氏に「セフィーヌしか結婚相手として考えられない」と言われたい。
『薔薇色の誘惑』の舞台化にわくわくしたのも確か。
ヒロインの『ジュリエッタ』と相手の『ヴィンセント』に会える――!
彼女は勢い込んで尋ねた。
「もう配役は決まったのですか? 夫人は何の役を?」
彼女は無邪気に問う。夫人は小さくほくそ笑みながら、
「もちろんジュリエッタ……」
「なるほど!」
「……ではありませんよ」
「え?」
セフィーヌはものの見事に引っかかってくれた。
「細かい配役と『ヴィンセント』はまだですが、『ジュリエッタ』はつい先日、立候補された方がいて、そのまま決定となりました。私は『ヴィンセント』の意地悪な継母役です」
「ブルッセルン夫人ですね!」
先妻の子である『ヴィンセント』を憎み嫌う悪役の名である。徹底的に最後まで悪を貫き、悪事がばれても彼を憎しみながら死ぬが、逆にどこまでいっても清々しいほどに『ヴィンセント』を恨みぬく生きざまがある種の美学だと一部のファンに人気らしい。
「『ジュリエッタ』は誰でしょう」
「セフィーヌ様もご存知の方ですよ。今度の打ち合わせに来ていただければすぐにわかります」
「それならぜひ」
セフィーヌが提案に飛びついたところで馬車止めが見えてくる。帰りは伯爵家の馬車でフラゴニア家まで送っていくつもりだったので馬車は一台きりだった。
だが、その傍らにシルクハットを被った人影が佇んでいた。御者でも従者でもないその人物は、黒目黒髪をしている。美形の青年貴族は二人に気付くと颯爽と近寄り、帽子を脱いで目礼した。
「こんにちは。伯爵家の紋章の入った馬車を見かけましたので、ご挨拶をと思いまして」
「あら、今日の首尾が気になったのではなくて?」
キッソン侯爵は夫人の隣にいるセフィーヌを見た。ぱちん、と黒真珠の目とエメラルドの目がぶつかった。逸らしたのは侯爵の方、無意識に一歩下がったのはセフィーヌの方だった。
「春の陽気に誘われて、散歩にきたのですよ。そのついでに自分の生徒の顔を一瞥するぐらいは許されたっていいではありませんか。……そうでしょう、セフィーヌ嬢」
セフィーヌの前のキッソン侯爵はぎこちない笑みを浮かべていた。顔つきばかりは優美で優しげなのに、黒い眼には余裕がないのだ。口調だって、まるでここにきた言い訳を探しているみたいで。
セフィーヌにはキッソン侯爵の複雑な心中などまったくわからなかったが、どうせなら仮面のようでない、心からの微笑みを見たかったから、明るい口振りで、
「そうだったんですね! わざわざありがとうございます、先生」
彼女は胸をとんと叩いてみせた。
「安心してください。ちゃんと先生が手紙に書いた通りにしています。すべては順調です。あとはシーレさまに気に入っていただけるように全力をつくすのみです。先生、またご指導をよろしくお願いしますね!」
しかし、それでも侯爵の顔は晴れなかった。笑みがますます作り物めいていく。顔の造作が良いと、表情一つがとんでもない切れ味になるものだ。
「もちろんですよ。私はあなたの恋を叶えるためにここにいるのですから」
この一言がでるまでの空白はほんの一瞬に過ぎなかったのだが、それはふいにセフィーヌを不安にさせた。けれど彼女はすぐに忘れようと努めた。だってキッソン侯爵は『先生』だから。
『先生』は生徒を気遣うし、導きもする。セフィーヌが生徒でなければ、キッソン侯爵のように華やかな男性がセフィーヌにずっと気を留め続けることだってなかっただろう。
――きっとこの方は覚えていないだろうけれど。
セフィーヌの方は覚えている。これまで好きになった999人、どんなに古い記憶でも、名前と顔は絶対に忘れない。
今よりほんの少しだけ背丈が短くて、顔つきも幼かった頃。社交場で迷っていたセフィーヌに手を差し伸べてくれたジドレル・キッソン侯爵の手がとても硬かったのを覚えている。
すぐに舞い上がって告白した彼女に、侯爵は優しい眼をして告げたのだ。
『君がもう少しだけ大人になって。もしもまだ私のことを好きでいてくれたのなら。……私を全力で誘惑しておいで。そうしたら私も本気で人を愛せるかもしれないから』
鼻をくすぐった薔薇の香りとともにその言葉も思い出す。……あれはその日、セフィーヌがいつもより大人になろうとして背伸びしてつけた香水だった。
キッソン侯爵は今でも『愛』を探しているのかしら。
時折そんなことも頭をかすめるが、セフィーヌにはどうにもできないことだった。ただ、ほかの998人と同じように遠くからその幸せを祈るだけ。それが彼女なりの誠実だからだ。
「『先生』。また手紙を送ります。今度はシーレさまも含め、夫人の仲間内で劇をすることになって。わたくしも微力ながらできるだけの協力はしようかと……」
「それは興味深い。演目は何でしょう?」
「『赤薔薇の誘惑』です。『ケイン・ルージュ』の最新作で……ご存知ですか」
もちろん、と彼は頷く。その様子にあまりにも迷いがなくて、セフィーヌは何だか嬉しくなった。
「つい先日読了したばかりですよ。しかし、知りませんでした。そんな面白い話があったとは。夫人もお人が悪い。私にも言ってくださればいくらでも助力するつもりだったのに」
恨みがましそうな目つきをしてみせる侯爵に、夫人はほほ、と笑う。
「侯爵さまはお忙しいではありませんか。新しい職場にもまだ慣れていらっしゃらないでしょうに、そのようなご負担をかけるわけにはとてもとても……」
「ご心配ありがとうございます。幸いにも今のところ芝居の練習に付き合うだけの時間の融通は利きますよ。夫人、ぜひ私にも一枚噛ませてください。舞台には花も必要ですからね」
「ご自分が花だとおっしゃるおつもりかしら?」
「そうですね。女性という薔薇をひきたてるためのカスミソウ程度には思っていますよ」
「まあ、お上手」
夫人と侯爵は仲睦まじげに微笑みあうが、彼らをよく知るある伯爵はこのやり取りを「うすら寒い」と形容したことだろう。口振りは軽くとも、どちらの眼にも油断ならない光があった。
「セフィーヌ様はどう思われます? 遠慮なく言って構いませんよ。権利はあなたにあるのですから」
元々、ジドレルはセフィーヌに近づかず、手紙のやり取りをするだけに留める約束をしていたのだ。彼女の許可こそ一番に必要だ。
セフィーヌは目を伏せて少し考え込んでから、わたくしは構いません、とにっこり。
「だって、キッソン侯爵さまは背が高くて、声もよく通りますから、舞台映えしそうですもの。せっかくお芝居する機会があるのですから、できるだけいいものにしたいですし」
「……それもそうですね」
夫人はあっさりと引き下がる。言っていることはもっともだけれども、などと思いながらセフィーヌの横顔を観察した。その横顔に秘められている感情を見透かすように。
この間にも気をよくした侯爵は、セフィーヌの手を取って軽く口づけを落とした。
「よろしくお願いします、セフィーヌ嬢」
彼女の手を持つ侯爵の手は、以前彼女が感じたのと同じように硬かった。




