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第二十章 ―― 鬼の爪

その日は、夏の暑さが一段と厳しかった。


私は、縁側に座り、風が吹き抜けるのを待っていた。お腹の子が、いつもより激しく動いている。何かを知らせようとしているかのように。


彼は、いつものように裏手で薪を割っていた。その背中は、もうすっかりこの家に馴染んでいる。私たちの日常は、確かに続いている。


そのときだった。


遠くから、複数の足音が聞こえた。それは、獣の足音ではない。人間の、しかも複数の――重い、荒々しい足音だった。


彼が、手を止めた。顔を上げ、山道の方を鋭い目で見つめる。金色の瞳が、獲物を捉えた獣のように、細められた。


「……綾乃、家の中に入っていろ。」


その声は、いつもの穏やかさはなく、緊張と警戒に満ちていた。


「……護、何が。」


「……来た。鬼を狩る者が。」


私は、息を呑んだ。


――鬼狩り。村の者たちが、鬼を退治するために山に来るという噂は、以前から聞いていた。けれど、まさか本当に来るとは。


「……中に入れ。絶対に、出てくるな。」


彼の声は、短く、しかし絶対的な重みを持っていた。私は、彼の言葉に従い、家の中に入った。障子を閉め、隙間から外を覗く。


数人の男たちが、山道から現れた。彼らは、鋤や鉈を持ち、竹槍を構えている。その目は、鬼を見つけたという興奮と恐怖でぎらついていた。


「……いたぞ。山の鬼だ。」


先頭の男が叫んだ。彼は、私の兄ではなかった。隣村の者だろう。彼らは、噂を聞きつけて、この山に来たのだ。


彼は、動かなかった。薪を割る手を止め、彼らを真正面から見据えている。その姿は、まるで異国の神像のように、静かで、けれど威圧的だった。


「……我々は、村を護るために来た。鬼よ、ここから立ち去れ。さもなくば、退治する。」


男が叫ぶ。彼は、それに答えず、ただ立っていた。


「……俺は、ここを離れない。」


その声は、低く、しかしはっきりと響いた。


「……この山には、俺の妻がいる。そして、生まれ来る子がいる。俺は、彼らを護る。」


「……鬼が、妻だと?」


男たちは、嘲るように笑った。けれど、その笑い声は、明らかに震えていた。彼らは、鬼を前にして、恐怖を感じている。


「……人間が、鬼と添い遂げるわけがない。お前は、きっと彼女を騙している。呪っているのだ。」


「……違う。」


彼の声が、初めて感情を帯びた。


「……俺は、彼女を騙してなどいない。俺は、彼女を愛している。」


その言葉が、私の胸に深く響いた。彼は、初めて、人前でそれを口にした。彼の愛を、誰かに向かって宣言したのだ。


「……鬼の分際で!」


男の一人が、竹槍を投げた。彼は、それを軽くかわした。槍は、地面に刺さり、鈍い音を立てた。


「……退け。俺は、傷つけたくない。」


彼は、そう言った。けれど、男たちは退かなかった。彼らは、互いに目配せをし、一斉に彼に向かって突進した。


私は、息を呑んだ。


彼は、その場で一歩も動かなかった。男たちが、鉈や鋤を振りかざして襲いかかる。彼は、身体をひねり、次々と攻撃をかわした。けれど、彼は決して反撃しなかった。ただ、避けるだけだ。


「……なぜ、反撃しない!」


男の一人が、叫んだ。


「……俺は、もう二度と、人を傷つけないと誓った。」


彼の声は、苦しげだった。彼は、戦うことを拒んでいる。自分の手で、再び人を傷つけることを恐れている。


そのときだった。


男の一人が、私のいる家に気づいた。彼は、鋤を手に、家に向かって走り出した。


「……鬼の女がいるのか!」


私は、息を止めた。彼が、家に入ってくる。鋤を振りかざして。


「……綾乃!」


彼の叫び声が、響いた。


その瞬間、彼は動いた。鬼の速度で、男の前に立ちはだかった。そして、その手を――爪を――男の前に突き出した。


「……やめろ!」


彼の爪が、男の顔の真横をかすめた。男は、恐怖に悲鳴を上げ、後ずさった。爪は、男には当たらなかった。けれど、彼が「自分を傷つけるため」に使ってきたあの爪が、今、初めて「誰かを護るため」に使われた。


彼は、家の前に立ち、両腕を広げた。その姿は、まさに鬼のそれだった。けれど、その眼差しは、恐怖ではなく、決意に満ちていた。


「……この家に、一歩でも近づけば、俺はお前たちを傷つける。お前たちを傷つけたその代償を、俺は背負う。それでも、俺はこの家を護る。」


その言葉は、静かだった。けれど、その静けさの中に、揺るぎない覚悟があった。


男たちは、彼の前に立ちすくんだ。そして、誰かが叫んだ。


「……引き上げるぞ!」


男たちは、一斉に逃げ出した。山道を駆け下りていく足音が、遠ざかっていく。


彼は、その場に立ったまま、動かなかった。やがて、体の力が抜けるように、その場に膝をついた。


私は、障子を開け、彼のところに駆け寄った。


「……護!」


彼は、うつむいたままだった。その手には、血がついている。自分の爪で、自分の手のひらを傷つけていた。彼は、戦うために、自分を傷つけたのだ。


「……護、あなたの手が。」


「……大丈夫だ。かすり傷だ。」


彼は、そう言ったけれど、その声は震えていた。


「……護、あなたは、彼らを傷つけなかった。自分の手を傷つけることで、彼らを護ったのです。」


「……ああ。」


「……あなたは、優しい鬼です。誰よりも、優しい。」


彼は、顔を上げた。その瞳に、涙が浮かんでいる。


「……綾乃、俺は、もう二度と、人を傷つけないと思っていた。けれど、今日、お前を護るために、人を傷つける覚悟をした。」


「……護、」


「……俺は、お前を護るために、鬼になることを選んだ。」


その言葉は、彼の人生の集大成だった。彼は、自分を罰し続けることで鬼のまま生きることを選んできた。けれど、今日、彼は「護るために鬼になる」という新しい道を選んだ。


私は、彼の手を握った。血で濡れたその手を。


「……護、あなたは、今日、本当の意味で鬼になりました。護る者の鬼に。」


彼は、私の手を握り返した。その手は、震えていた。けれど、その震えは、恐怖ではなく、確かな決意の震えだった。


その夜、私たちは家の中にいた。外は静かで、もう誰もいない。彼は、私の隣に座り、自分で傷を包帯で巻いている。私は、その手を見つめながら、言った。


「……護、あなたは、これからも鬼として生きるのですか。」


「……ああ。お前と、この子を護るために。それが、俺の選んだ道だ。」


「……あなたは、怖くないのですか。また、誰かを傷つけるかもしれないという恐怖は。」


彼は、少し考えた。そして、静かに言った。


「……怖い。けれど、お前を失う方が、もっと怖い。」


その言葉は、彼の全てを表していた。


私は、彼の手を握りながら、思った。


――彼は、今日、初めて「鬼の力」を人を護るために使った。それは、彼が自分自身を受け入れた瞬間だった。彼は、鬼であることを恐れず、その力を受け入れることで、新しい自分になった。


私は、その彼を、これからも愛し続ける。


鬼であっても、人であっても。彼が、護る者の鬼である限り、私は彼の妻であり続ける。


――それが、私たちの選んだ道だ。

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