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第百二十一話:第四幕?開戦準備

重厚な教皇庁の裏門が、吸い込まれるような静寂と共に開いた。

そこには、柔和な微笑の裏に鋭い知性を潜ませたルチアーノ教皇が、約束通り独りで立っていた。


はじめは荒い息を整えながら、琥珀に男を下ろすよう指示した。ドサリと音を立て、その男は足元に転がった。


「……お土産だよ。……ルチ教皇」


ルチアーノ教皇は、はじめたちが救出した家族に一瞬だけ慈愛の視線を向けた後、足元で泥のように転がっている男へと視線を落とした。艶やかな声の響きが、低い疑問符を投げかける。


「おや、はじめ君。この方は?……」


「あの場所にいた、最高責任者『らしき』男です。正確な情報は、こいつが目を覚まさなきゃ分からないでしょうが」


はじめの、突き放したような言葉に、ルチアーノ教皇は「なるほど」と短く、だが深く頷いた。


「……アントニオ。マルコ。……おいで」


教皇が背後の闇に向かって短く、だが凛とした声をかけると、そこから二人の屈強な、だが、教皇庁の公式な法衣とは異なる、実戦的な装備を纏った男たちが現れた。

ルチアーノ教皇直属の、一握りの忠臣たち。


「この者を『特別な』地下牢へ。私が許可するまで、誰も。絶対に手を出してはいけないよ。分かっているね?」


「……御心のままに、ルチアーノ様」


二人の男は無機質に、気絶した男を闇の奥へと引きずっていった。

それは、天使国保安庁という闇の一部を、ルチアーノ教皇の聖域が飲み込んだ瞬間だった。


責任者が闇の奥へと消えた後、ルチアーノ教皇ははじめの後ろで身を寄せ合うエリオたちへと向き直った。その瞳には、一点の曇りもない慈愛が宿っている。


「シスタールチアのご家族の方々。我が天使国の不手際が、君たちに多大なる苦痛を与えてしまった。心から、申し訳なく思う」


教皇という至高の座にありながら、彼は深く、静かに頭を下げた。その姿に、家族は息を呑み、慌てて恐縮した声を上げる。


「と、とんでもございません、ルチアーノ教皇様!私たちは……」


「部屋では、シスタールチアも君たちの無事を心待ちにしている。さあ、こちらへ。おーい!」


ルチアーノ教皇が短く呼ぶと、また一人の忠臣が音もなく現れた。

彼女は、震えるテオを優しく促し、家族を教皇庁の最も安全な奥の間へと丁寧に案内していった。


家族の背中を見送ったルチアーノ教皇は、再びはじめへと視線を戻した。その表情は、労いに満ちたものへと変わっている。


「さて、はじめ君。今日はもう遅い。君たちの部屋も用意してあるよ。まずは体を休めてくれたまえ。アイ君も、その部屋で休んでるよ」


はじめは、重い荷物を下ろしたような疲労感を感じ、短く頷いた。


「……感謝します、ルチ教皇」


「詳しい話は、明日の朝にしよう。今はただ、ゆっくり体を休めてくれたまえ」


忠臣に案内され、はじめたちは教皇庁の静謐な廊下を進んでいった。

用意された部屋。そのベッドの上で、穏やかな寝息を立てるアイの姿を見て、はじめは、ようやく真の意味で一息をつくことができた。


静かに……一晩が過ぎていく。


―― ゼロ撃破から、残り2日 ――


運命の時計が、最後のリミットへと、静かに針を進めた。


教皇庁の朝は、刺すような冷気さえも清浄な香りに変える不思議な静寂に満ちていた。

一晩泥のように眠ったはじめが、目を覚ますと、隣のベッドではアイが、微かな呼吸と共に穏やかな寝顔を見せている。

その安らかな顔を一目見てはじめは、自分自身の芯に力が戻るのを感じた。


身支度を整え、仲間たちと共に案内された小広間。

そこには、純白の法衣を纏い、優雅に朝のコーヒーを楽しんでいるルチアーノ教皇がいた。

はじめたちの姿を認めると、彼はその美しい唇に、どこか少年のような茶目っ気を孕んだ微笑を浮かべた。


「おはよう、はじめ君。昨夜は、いい夢を見られたかな?」


その声は深く、それでいて、相手の心を見透かすような響き。

はじめが椅子に腰を下ろすと同時に、ルチアーノ教皇は傍らのサイドボードから、一通の厚みのある封筒を取り出した。


「例の『お土産』のことなんだけどね。私の部下たちが、夜を徹して、それは丁寧に『お喋り』を楽しませてもらったよ。結果は、ここに」


教皇が細い指先で封筒をテーブルに滑らせる。

「彼も、なかなかに。面白いことを、話してくれてね」


そう言って教皇が目を細める。

その一瞬の冷徹な光こそが、彼の真髄であろう。泥臭い過程は語らず、結果だけを優雅に調査して見せる。


ルチアーノ教皇は、コーヒーを一口啜り、白磁のカップを音もなくソーサーへと戻した。

その優雅な瞳の奥に、一瞬だけ燃え盛るような冷たい怒りが過る。


「昨夜の『お喋り』で分かったことだがね。彼は、第2教皇の一派のようだよ。そして、今回はじめ君が『拉致した』とされるのも、その第2教皇だ。まあ、私にとっては、上司にあたる人だね。面目ない」


ルチアーノ教皇は、自嘲気味な笑みを浮かべた。

だが、はじめには分かった。

教皇のその柔和な微笑の裏で、天使国の誇りを汚された、凄まじい怒りが渦巻いていることを。


「だから、あんなに必死に、僕を追い詰めてきたわけですね。自分たちの『神』を奪われたんですから」


はじめの言葉に、ルチアーノ教皇は、深い溜息を一つ吐き、身を乗り出した。


「ところがね、はじめ君。本来、第2教皇という御方は、極めて『穏便派』なのだよ。あんな、暴力的な強襲や、冤罪を仕掛けるようなことは、決してなさらない。他の教皇ならいざ知らず、ね」


教皇の細い指が、テーブルに置かれた封筒を、トントンと規則正しく叩く。


「だから、君の言っていた『コピー』の件。私は、確信を得たのだよ。もちろん、はじめから疑っていたわけでは、ないけれどね」


ルチアーノ教皇の視線が、鋭く、はじめを射抜く。

本物の第2教皇ではなく、ミラーによる精巧な『コピー(偽物)』が、今の天使国の権力の座に、鎮座している。


それは、――天使国そのものが既に侵食されているという、最悪の証明だった。


ルチアーノ教皇は、冷え切った封筒の端を指でなぞり、はじめの目を真っ直ぐに見つめた。

その微笑みは、崩れていない。

だが、その双眸の奥には、決して消えない業火が静かに灯っていた。


「……では、はじめ君。私と一緒に出掛けようか」


教皇は優雅な動作で椅子から立ち上がり、窓の外に広がる、白亜の街並みへと視線を投げた。


「ああ、もちろん。朝食の後で構わないよ。美味しいオムレツが、冷めてしまうからね」


その言葉とは裏腹に、彼の纏う空気は鋭い刃のように研ぎ澄まされていく。

はじめは、背筋を走る戦慄を感じながら、短く問いを返した。


「……分かりました。ではどこに?」


ルチアーノ教皇は、ゆっくりと振り返り、不敵なそれでいて、最高に美しい笑みを浮かべた。


「ほらあそこだよ、第2教皇庁。こんな気分になるのは、久しぶりだからね」


ルチアーノ教皇は、窓の外を指さす。

それは、偽りの平和を破壊し、天使国そのものを書き換えるための、宣戦布告だった。


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